シーナをさがして 群ようこ

1979年、『さらば国分寺書店のオババ』でデビューを飾ってから、シーナの作家生活も45年を突破。年齢相応の不調はあれど、傘寿を迎えてなお、書いて話して飲んでの日々を続けるどころか、スキあらば「失踪」しようと企んでいるというありさまで、元気があるのはなんともおめでたい限りです。
長年のあらゆる活躍を通して、みなさん、シーナについてよーく知っているつもりではないでしょうか。本当にご存知でしょうか?
この「失踪願望。」外伝では、まだまだ全貌のつかめないシーナについて、縁のある皆さんにとっておきの話を語っていただきます。
作家になってから、あるいは作家になる前、ひょんなことから運命的に出会い、ともに同時代を生きてきた皆さんの言葉を通じて、「失踪」しようとするシーナをさがして、捕まえる試みです。

第1回

新宿伊勢丹の角で出会って、四十数年  群ようこ

更新日:2025/12/03

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 大学を卒業して二年の間に何度も転職を繰り返していた私が、発売をいちばん楽しみにしていたのが、「本の雑誌」だった。会社からの帰りには必ず書店に寄って、どんな本が出ているかをチェックしていたのだが、はじめて本の雑誌を見たときの衝撃は忘れられない。本も雑誌も好きだった私は、すぐに購入して、待ちきれずに帰りの電車の中で読んだ。「本の雑誌」の四号だったと思う。そしてこれが私が求めていた雑誌と感激した。「本や雑誌が好き。ただそれだけ!」というところが、「本を読む子は偉い」という考え方にずっと納得できなかった私に、「これだ!」とピンポイントで刺さってきたのである。
 それからは「本の雑誌」の発売日が何よりも楽しみになった。「本の雑誌」で読んだと記憶しているが、椎名さんの本業の、流通業界誌の会社名もわかった。当時の私は編集プロダクションで社内報を編集していて、その時はちょうど航法装置やシミュレーターを設計、製造している会社の社内報を編集していた。しかし直の上司が、会社の私の引き出しから、勝手に印鑑を持ち出して悪用していたのがわかり、もうこの会社にはいられないと、転職先を探していた。新聞の求人欄を眺めていたら、何とその業界誌の求人があったのだ。私は椎名さんの下で働けると思って履歴書を送った。応募動機はもちろん、「本の雑誌を読んでいるから」だった。社内で履歴書を整理していた人が、「本の雑誌」の手伝いをしていて、
「こういう人が応募してきました」
 と私の履歴書を椎名さんに見せたという。椎名さんが「本の雑誌」を編集しているのを黙認している会社の手前、私の履歴書を担当者にまわすわけにもいかなかったらしい。一方、「本の雑誌」のほうは、それまで目黒さん宅で編集や諸般の業務を行っていたのだけれど、事務所を借りて独立させようという話が持ち上がっていた。そこに私の履歴書が、椎名さんの手に横滑りして渡ったのだった。
 はじめて椎名さんとお会いしたのは新宿だった。細身の文学青年風を想像していたのだが、正反対の体格のいい男性がやってきた。椎名さんの話によると、これまでに何人かの候補の方と面接をしたけれど、初任給が三万円という部分がネックになっていたようだった。しばらく話しているうちに、その場で採用が決まった。転職を繰り返していた結果、広告、編集の知識が多少なりともあって、忙しい目黒さんや椎名さんが編集業務などを、一から教えなくてもいいのが助かるともいわれた。
 本の雑誌には六年ほど勤めさせてもらったが、いちばん思い出深いのは最初の四谷三丁目の角にある小さなビルである。『続 失踪願望。』には十八・八五平米と書いてあったが、三畳くらいしかない感覚だった。部屋の三分の一が在庫の山、目黒さん宅から持ってきた応接セットもあり、人がいられるスペースがとても少なかったということもあるが。椎名さんが、
「給料が三万円だったのに彼女はなぜ働いてくれたのか今でもよくわからない」
 と私について書いてくださっていたが、当時は実家に住んでいて、ひとり暮らしの人よりもお金の心配をする必要がなかった。給料の多寡ではなく、ここだったら辛いことがあっても、働き続けられるに違いないと確信を持った。といってもうちは離婚家庭だったので母親に、
「本の雑誌に就職したら、私がそれまで家に入れていた三万円がなくなるけれど、どうする?」
 と聞くと、「それでもよろしい。そこはあんたに合っている」といってくれたのも後押しになった。自分の力で雑誌を売れるようにしたいなどとは、まったく思わなかったけれど、こんなに面白い雑誌を読めなくなるのはいやだ、ずっと読み続けられるように、その手助けをしたいという気持ちだったのだ。
 椎名さんも目黒さんもそれぞれ仕事があるので、私がいる時間帯にはほとんど事務所には来られず、日常は電話連絡のみだった。インターネットなどもまったく存在していない時代だったから、書店からの電話注文もなく、電話が壊れているのではないかと心配になったほどだった。やっと電話が鳴ったと喜んで受話器を取ると、椎名さんか目黒さんだった。
 ある日、近所で学生活動家の乱闘死亡事件があり、それの聞き込みでやってきた刑事さんが、最初は穏やかに話をしていたのに、私の背後の山積みの雑誌の在庫を見たとたん、
「ちょっと、ここ、何してるところ?」
 とものすごい鋭い目つきで怪しまれた。また、時折、ビルの大家さんがやってきて、ドアを開けて遠慮がちに顔だけ出して、
「どう? 売れてる? あなたも大変だね」
 とそれだけいって去って行った。椎名さんや目黒さんが顔を出したときに、それまでに事務所に起こった、やや面倒くさい出来事を話すと、二人とも楽しそうに笑っていた。
 がらりと状況が変わったのは、椎名さんの『さらば国分寺書店のオババ』が出版された後からだった。雑誌の注文はもちろん、椎名さんと連絡が取りたいと、新聞、雑誌、テレビ、ラジオなどから、たくさんの電話がかかってきた。その後も椎名さんが出す本はベストセラーになり、それにつれて「本の雑誌」も知られるようになって取り扱ってくれる書店も増え、私のお給料も月を追うごとに上がっていった。
 コッポラコートのこともよく覚えている。この日、ドアが開いたので入り口を見ると、椎名さんがのそっと目から入ってきた。とても鋭い目つきだった。それがふだんの穏やかな椎名さんとは少し違っていたので驚いた。どこか殺気立っているような、不機嫌そうな雰囲気で、そのままコートも脱がずに応接セットの椅子に座り、いつもと変わらない口調で、コートを買ったときの話をしてくださった。しかし私にはその古着のコートは少し気持ちが悪く、本当にあちらこちらに血がついているのではないかと、椎名さんが動くたびに、どこかに血がついていないかと確認していた。
 椎名さんと接していたなかでびっくりしたのは、お茶を出した程度のことでも、日常的に「ありがとう」と口に出してくださることだった。私はそれまで父親も含めて、年上の男性からそのような言葉をかけてもらった記憶はない。そして当たり前のようにパートナーの一枝さんを褒めることにもびっくりした。私がまだ二十代だった四十数年前は、私の周囲で自分の妻を褒める男性など皆無で、なかには家事しかできない奴などと、平気で馬鹿にしている男性さえいた。それを耳にするたびに憤慨していたのだが、椎名さんは違った。
「うちの奥さんはすごい人なんだよ」
 と一枝さんがどれだけすばらしい人かを力説していた。それを聞きながら、日本にもこういう男性がいるのかと感激した覚えがある。
 しかし一方で、一枝さんの妊娠中に大喧嘩をして、一枝さんが家を出ると宣言して、荷物をまとめて出ていったのを追いかけ、やめさせようとした椎名さんが上手投げか下手投げかで、彼女を野原に放り投げた。痛さで動けなくなった妊娠中の妻を見て、事の重大さに気がつき、大慌てで助けたなどといった話もしてくださった。
「家を出るっていっても、そこって一枝さんの実家なんだよなあ」
 といって笑っていた。今に至るまであんなにさらりと妻のことを褒める椎名さん以外の男性には会っていない。
 一枝さんも私にとても優しく接してくださった。椎名さんのお宅で一枝さんと何度もお話しし、泊まらせていただいたこともある。小さな花瓶に庭のお花が飾ってあったり、暮らしのそこここにほっとする愛らしいものがあるお宅だった。きりっとした素敵な方なのだけれど、日常の失敗談などもうかがってとても楽しかった。
『続 失踪願望。』のなかで椎名さんが目黒さんの入院を知り、その後、目黒さんから電話がかかってきたときの二人の会話の部分を読んだときは涙が流れて仕方がなかった。五十年もの間、信頼してきた盟友の命が尽きるのを前に、どうしようもない状態に置かれているときの虚無感、悲しさが淡々とした会話のなかに表れていた。亡くなった当日には、
「目黒考二が死んでしまった。とてつもないショックで呆然とするだけでなにもできない」
 と書いてある。椎名さんは本も読めなくなり、翌日には微熱も出て、仕事でも電話で何を話したかも覚えておらず、身体にうまく力が入らない状態になってしまった。そうだろうなあと私も何ともいえない気持ちで本を読み進めていったら、その八日後である。椎名さんは移動中のこだまの車内で、舞の海秀平さんを見かける。そこには、
「『いつも青汁、飲んでますよ』とか言いたかったが、飲んでないので話しかけなかった」
 と書いてあって、これぞ椎名さんと大笑いしてしまった。
 在職中、他社から私に原稿を書く依頼があったときも、ぜひ書くようにと勧めてくださり、退社するときも、快く送り出してくださった。椎名さん、目黒さんは私の人生の大恩人である。思い出しながらあれこれ書いてみたが、この四十数年はあっという間だった。もちろん私もそれだけ歳を取っている。この原稿を書いているときも、書名を間違えて「哀愁の町にオババが降るのだ」と書いていて、あわてて消した。今の私はこんな具合である。本のなかには、体調がよろしくないという記述も垣間見えるようになり、あのパワフルで世界中を飛び回っていた椎名さんも、そうなるのかとしみじみとした。目黒さんが亡くなった後は悲しく辛い一年の記録だったのには間違いないが、それでもそこここに、最初に私が「本の雑誌」を見つけたときの椎名さんがいてうれしかった。年齢を重ねてもその人の本質は変わらないと、古稀を迎えた私も勇気をいただいたのである。
著者プロフィール

群 ようこ(むれ ようこ)

むれ・ようこ●1954年東京都生まれ。日本大学藝術学部卒業。
広告会社などを経て、78年「本の雑誌社」入社。84年にエッセイ『午前零時の玄米パン』で作家としてデビューし、同年に専業作家となる。
小説に『無印結婚物語』などの<無印>シリーズ、『しあわせの輪 れんげ荘物語』『雑草と恋愛 れんげ荘物語』などの<れんげ荘>シリーズ、『今日もお疲れさま パンとスープとネコ日和』などの<パンとスープとネコ日和>シリーズの他、『かもめ食堂』『また明日』『捨てたい人捨てたくない人』、エッセイに『ゆるい生活』『還暦着物日記』『たべる生活』『小福ときどき災難』『今日は、これをしました』『スマホになじんでおりません』『こんな感じで書いてます』『老いてお茶を習う』『六十路通過道中』、評伝に『贅沢貧乏のマリア』『妖精と妖怪のあいだ 平林たい子伝』など著書多数。最新刊は『ちゃぶ台ぐるぐる』。

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