教養としての脳科学 茂木健一郎

第2回

感情と世界をめぐる考察

更新日:2022/09/14

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1.ニュートンとダーウィンの偉大さ

 私には、イギリスのケンブリッジ大学に留学していた時、当地の科学の経験主義の伝統に深く感化されたという思いがある。

 世界のさまざまな事象を、できるだけフラットに見つめる。その過程で、世界の奥底にある「真実」が見えてくる。そのようないわゆる「イギリス経験主義」の真髄に触れて、魂がふるえる思いだった。その時の感触は、今でも私の中に強く残っている。

 たとえば、学生がふと概念的なことを口にしたとする。そのような時に、先輩研究者の、あるいは偉大な教授たちの、即座に「それはどのように計測できるのか」「その仮説は役に立つのか?」とチェックする姿勢は、さすがだと感じた。現実に着地しない概念の遊戯を避ける態度が貫かれていたのである。そのような態度は、当然に共有されるがゆえにことさらに言われない「暗黙知」にすらなっていた。概念が形成される場合も、それは経験に深く根ざして、それを過不足なく説明できる、いわば「思考のエコノミー」がなければならない。

 そんなイギリスの科学の伝統の中でも、とりわけ、二人の偉人はケンブリッジ内外の多くの研究者、一般人の口にのぼり、今でも尊敬され続けていると感じた。経験の中から概念を抽出していくというイギリスの良き伝統を背負っていると感じられたのである。

 一人は、アイザック・ニュートン。「奇跡の諸年」と呼ばれる1665年から66年にかけてのわずか1年半の間に、万有引力の法則、微積分学、そして光学において「三大業績」と呼ばれる偉業を達成した。

 ニュートンの発見は、もちろん、理論的、概念的なものだが、「りんごが落ちるのを見て万有引力の法則を発見した」というエピソードが、いかにもイギリスらしい経験主義の精神を表している。後にも触れるように、もともとは半世紀後のフランスの啓蒙思想家ヴォルテールが広めた「伝説」とされるが、実際にそのようなことがあったと信じるに足る知的風土が、イギリスにはある。

 宇宙の本性とはなにか。時間が経過するとは、どういうことか。そのような問題に対して、ただ観念からアプローチするのではなく、日常の経験、観察事実から迫る。自然に対する経験主義的態度が、ニュートンの「りんご」と「万有引力」のエピソードに表れているように思う。

 もともと、すべての概念化は、私たちの生のありのままを見つめるところから始まる。イギリス経験主義と大陸の観念論はしばしば比較されるところであるが、ニュートンの事例は、前者を貫くと、時に概念的にも深みに達することができることを示している。「りんごが落ちる」という日常の風景の中に、大宇宙の真理に至る道があるのだ。

 もう一人は、チャールズ・ダーウィン。1859年に出版された『種の起源』は、人間を含むさまざまな生物がどのようにして進化してきたかを明らかにして、人類の歴史に不可逆的な衝撃を与えた。

 ダーウィンの偉大さは、生物の「種」という、通常ならば世界を見る際に前提にされてしまうようなことの起源を問い、その背後にあるロジックを明らかにしたことである。それまでの、さまざまな「種」があるといういわば「所与」であるはずのことの背後にある自然の摂理を解き明かしたのだ。ダーウィンにとっての「種」は、ニュートンにとっての「りんごの落下」だったのだ。

 イギリス南部にあるダーウィンが73歳で亡くなるまで40年間暮らした家<Down House>に一度行ったことがある。広大な敷地に農場があり、ダーウィンが生前さまざまな植物を栽培して実験などをしていたその事跡がしのばれた。

Down House
©Alamy Stock Photo amanaimages

 愉快だったのは、家の近くにあった散歩道<Sandwalk>である。ダーウィンは、しばしば考え事をしながら周回していたという。集中して思考するために、道に石を置いて、通る度にそれを蹴って、何度回ったか把握していたとも聞く。振り切れた変人ぶりを伝えるエピソードである。

 ダーウィンは、「突然変異」と「自然淘汰」という概念の組み合わせによって生物の「種」の起源を明らかにした。それまで、地球上にたくさんの「種」があることは当たり前のことと考えられていた。それに対して、ダーウィンは、そのような自然のあり方の背後にあるものを問うた。

 ダーウィンがすぐれていたのは、今日の生物学のさまざまな流れの元になるような研究の「種」を撒いたことである。遺伝子の実体は、1953年にジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックによるDNAの二重らせん構造の示唆(データはロザリンド・フランクリンのX線回折写真、とくに「写真51」による)までわからなかったが、それ以前にも、「ネオダーウィニズム」と呼ばれる形質の遺伝の法則の数量的、定量的解析が行われていた。ある意味では、DNAという実体が明らかになる前に、進化の数理的なメカニズムはかなり解明されていたといって良いのである。

 ダーウィンは、性淘汰や、社会性の進化など、今日の生物学において重要な論点におけるパイオニアでもあった。また、人間の心の動きが進化的にどのような意味を持つかという「進化心理学」の分野においても、先導的な仕事をした。

 私たちの人間らしさの真ん中にある「感情」についても、ダーウィンは、鋭敏な考察を残した。『人及び動物の表情について』(1872年 *邦訳は岩波文庫 浜中浜太郎訳 1931年)において、人間の感情の表現、とりわけ、顔の表情のあり方が、動物たちと共通のメカニズムによってどのように進化してきたかということを議論したのである。

 ダーウィンが偉大だったのは、人間の感情という、もっとも精神の内面に近い側面について、あくまでも客観的に、すべての生物種を平等に扱うことを試みた点にある。『人及び動物の表情について』に収録された人間やチンパンジーなどの顔の表情の図録を見ていると、ダーウィンが内面の問題に表層からアプローチする、その洞察の鋭さが伝わってくる。

 人間の認知や意識のように、どうしても抽象的で難解に見えがちな問題に取り組む上で、ダーウィンのようなアプローチは有効である。主観にとらわれて本質が見えにくくなりがちなテーマは、少し離れた観点から眺めるのが良い。人間の感情を、りんごが落ちるのを見るように観察することで浮かび上がってくることがある。

 チャールズ・ダーウィンには、考え方や思想の点で共感するのに加えて、個人的に親しみを感じる事情がある。私がケンブリッジ大学に留学したときにお世話になったホラス・バーロー教授(1921~2020年)は、認知神経科学の分野ですぐれた業績を残した人だった。特に、認知の背後にある統計的な学習法則の解明においては、世界的なパイオニアとして知られていた。

 そのバーロー教授は、チャールズ・ダーウィンの曽孫であった。ダーウィンが、陶磁器で有名なウェッジウッド家の人と結婚したため、バーロー教授は、ダーウィン、ウェッジウッドの両家につながっていたことになる。

 ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジでバーロー教授と議論をしながら、時折、その姿勢に、バーロー教授にとっては曽祖父にあたるチャールズ・ダーウィンその人の面影を見ていた。そして、それは、ダーウィンだけでなくイギリス全体に根付いている知的な風土だったのかもしれない。

2.複雑さに対する適応戦略としての感情

 人間の感情は、人間らしさの象徴であり、私たち人間を人間たらしめるすばらしい心の働きである。人工知能がこれからますます発達したとしても、人間の感情を完全に再現することは難しいかもしれない。

 人間の感情を理解する上での課題の一つは、その内的なダイナミクスを理解することである。感情の表出が人間に与える印象に基づく分析だけでは、それを生み出す力学そのものには届かない。

 大切なのは、ニュートンがりんごを落ちるのを見ていたように、少し距離を置いて人間の感情を見つめることである。そのことによって、私たちの心の動きの本質が見えてくることだろう。

 脳の感情の中枢は扁桃体である。扁桃体における神経活動は、外界から入ってくる情報の価値を評価し、向き合い方を決める上で重要な役割を果たす。

 扁桃体は、記憶の中枢である海馬と密接に関わって機能している。従って、感情が強く動いた時には、鮮明で強い記憶が残る。衝撃的な事件があった時、その第一報をどこでどのような状況で知ったかということはくっきりと記憶される。感情がそれだけ動くからである。

 2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件、そして2011年3月11日の東日本大震災が起きた時の状況を鮮明に覚えている人は多いだろう。また、2022年7月8日、安倍晋三元首相が銃撃されたという報に接した時のことは強く印象に残っている人がほとんどだろう。

 それに対して、それぞれの事件の一日前、2001年9月10日、2011年3月10日、2022年7月7日に何が起こったかはっきりと覚えている人は少ないのではないか。

 記憶は、この世界で生きる上で大切な基盤を与えてくれる。この世界は複雑である。容易には予想することができない。そのような世界の不確実性に対する適応をもたらすのが感情である。感情は記憶とともに、何が起こるかわからないこの世界での私たちの生を支えてくれるのである。

 たとえば、「不安」は明確に不確実性に対して適応する心の働きである。「恐怖」もまた同じである。逆に「希望」は「不安」の裏返しとして、未来に向けての前向きの心理となる。さまざまな感情が相まって豊かな心の「生態系」をつくることが、どんな状況の下でも生きる力につながっていく。

 感情の働きにおいて重要な意味を持つのは、神経伝達物質ドーパミンを中心とする報酬系である。ドーパミンが放出されることで、脳の神経細胞どうしを結びつけるシナプスの結合強度が高まる「強化学習」が起こる。

 強化学習は、報酬をもたらす選択や行動につながるシナプス結合を強めるプロセスだが、その際、不確実性はもっとも重要な役割を担う。たとえば、何かに挑戦するとして、それが確実にできるとわかっていることだと、ドーパミンを中心とする報酬系は活動しない。できるかどうかわからない、不確実なことにチャレンジして成功して、初めて強化学習を支えるドーパミン系は活発に活動する。

 一人ひとりの人生を振り返っても、子どもの頃は、できるかどうかわからないことが多い。そのようなことに挑戦して、できないと思っていたことができた時に、最もドーパミンが放出される。

 ドーパミン放出のバランスは大切である。生きていく上では、食べもの、飲みものを始め、多くの報酬源を確保しなければならない。

 その際、大切なのは、「安全基地」である。幼少期にさまざまなことにチャレンジする上で必要な基盤を与えてくれるような他人とのきずなが安全基地を与えてくれる。安全基地があるからこそ、不確実性に向き合うことができるのである。

3.「不確実」と「確実」の間のバランス

 不安、恐怖、不安などの感情は、「不確実なこと」と「確実なこと」の調和をとるためにこそ機能していると言うことができる。確実な報酬源を利用していれば安心だが、それだけでは先細りになる。また、状況の変化によって期待している報酬が得られなくなる可能性もある。童話仕立てのビジネス書として異例のベストセラーになった『チーズはどこへ消えた?』(スペンサー・ジョンソン著 門田美鈴訳 扶桑社 2000年)でもとりあげられている、環境の変化に対してどのように適応するかという問題である。

 人工知能の発達やグローバル化などによって、私たちが住む世界はこれからますます流動化し、変化が激しくなっていくものと予想される。そんな中、不確実性に対してどのように向き合い、選択し、行動していくかは私たち一人ひとりにとって重要な課題になる。

 脳の強化学習においては、確実な報酬源を「利用」することと、不確実な報酬源を「探索」することのバランスが重要になる。すでにそこにあるとわかっている報酬源を利用していると安心だが、それだけだと先細りになるし、環境の変化で消滅してしまうかもしれない。また、不確実な報酬源を探索することは新規の生きる糧を開拓する上では本質的だが、それだけをやっていても生きる上で不可欠な報酬が確保できるかどうかわからない。

 大切なのは、不確実な報酬と確実な報酬とのバランスであり、その調整を図ることが脳にとってきわめて普遍的な課題になる。

 具体的な問題に即して考えることで、強化学習における確実性と不確実性のバランスがいかに大切か、より端的に理解できるだろう。

 進学のための受験勉強を例にとってみよう。今日の世界においては、学ぶべきことはたくさんあり、そのうちの多くは学校の学科や試験科目によってはカバーされてはいない。たとえば、コンピュータプログラムを通してゲームやロボットをつくったり、あるいはプロジェクトを定めて自分で創意工夫して勉強するといったことは大切だが、入試では問われない。だがそのような多彩な勉強をすることは、将来仕事をしたり、あるいは自分で会社をつくったりする場合に大いに役に立つこととなろう。それらは、不確実であるが成功すれば大きな、いわゆるハイリスクハイリターンな課題だということになる。

 一方で、入試のための勉強をすることは、いささか時代遅れな感はあるが、今の日本の社会を前提にすれば、それなりに「確実」な報酬をもたらす。いわゆる世間的に言えば「良い」学校に行けば、それなりの就職先に恵まれる可能性が高まるだろうし、その後も収入や社会的な地位の面で成功するかもしれない。同時に、どうしてもこれまでの日本の文脈にとらわれて、グローバルな意味での発展性には欠けることも多い。

 今日子どもの教育に携わっている保護者や教育者は、上記のような「不確実」と「確実」の狭間で悩んでいるのかもしれない。「最適」なルートは、おそらく、「不確実」と「確実」の絶妙なバランスの中にある。しかし、それを見極めることは簡単ではない。

 動物界でも、環境の中の報酬をめぐるバランスの探究は問題になる。そして、それは、生物の種によって少しずつ異なる様相を呈している。

 ハチドリは、蜜があると予想される花がある場所を順番に訪れていく「トラップライニング」と呼ばれる戦略をとることが知られている。環境の中を闇雲に探索するのではなく、花を次から次へと訪れることで、比較的効率良く報酬を得られるのだ。このような戦略は、ハチドリがホバリングするには大量のエネルギーを必要とするので、できるだけ無駄をなくすために進化してきたものと考えられる。

「トラップライニング」は、罠(トラップ)をかけた猟師が、何かかかっていないかと線状に(ライニング)動くことから生まれた言葉である。視覚情報処理や、空間情報処理など、さまざまな要素が関わってこのような行動が支えられていく。

 もっとも、ある行動が最適化されたからといって、常にそのような行動をとることが適切だとは限らない。「正解」のルートばかり通過していると、環境が変化してそのルートに報酬源がなくなった場合にも相変わらずそのようなルートを通り続けてしまうリスクがあるからである。

 強化学習における「確実」と「不確実」のバランスをとるためには、100%の正解をとるのではなく、80%程度の「ほどほど」の正解が良い。20%くらい間違うと、短期的には報酬が減って損をするけれども、その分、他の可能性が探索できて新たな報酬源につながっていくのである。

 ハチは、「同じ」「違う」という「概念」を学ぶことができることが知られている。Y字に分岐するトンネルを用いて、どちらの方に行けば蜜が得られるかという学習をする際、たとえば縦縞、横縞の刺激を二箇所に提示して「同じ」方か「違う」方のどちらかに行くと蜜があると学ぶと、次は色で「同じ」「違う」の選択を示しても正しい方向を選ぶことができるのである。

 しかし、そのようにして「同じ」「違う」を学習した場合でも、「正解率」は100%にはならない。やはり20%程度は間違ってしまうのである。

 ある条件下で蜜が見つかることがわかったとしても、常にそうであるとは限らない。だとするならば、たとえ、短期的には「不正解」であっても、「正解」以外の選択肢も試してみた方が良い。生物は、さまざまな種が複雑に絡み合った環境の中で、長い時間をかけてそのような「確実」と「不確実」のバランスを進化させてきたものと考えられる。

 何が、将来的に有望な報酬源かわからない。そのような状況の下での強化学習を記述するモデルとして「多腕バンディット問題」が知られる。

「バンディット」とは「山賊」のことであり、ここでは利益のためには非合法のことを含め荒っぽい行動に出るというようなニュアンスで使われる。「多腕」とは、複数の報酬源を同時に試す行動のルートを指し、典型的な例として「スロットマシン」がイメージされる。

 多腕バンディット問題は、当たる確率がどれくらいか、当たった場合どれくらいの賞金が出てくるのかわからないスロットマシンを、たくさんの腕をつかってプレイしている山賊のような状態を指す。プレイしている間に、徐々にどのスロットマシンがどれくらい「当たる」のかがわかってくる。そのことによって、「多腕バンディット」が、どのスロットマシンにどれくらいリソースを投資して(時間やお金をかけて)プレイするかの「重みづけ」の分布が変化していく。

 考えてみれば、人生は、確かに多腕バンディット問題の様相を呈している。学びにせよ、仕事にせよ、何がどれくらいの報酬をもたらすのか見極めることは容易ではない。リターンの期待値がわからないままに、今日もまた、私たちは人生のたくさんのスロットマシンを回している。

 強化学習は、そのメカニズム自体は、報酬を与える行動をより頻繁に行うようになるという単純なものであるが、複雑系の支配する世界で、予想が容易ではないという条件の下でそれを最適化するのはなかなかに困難な問題となる。世界についての情報が十分にない中で、それなりに確実な報酬を抑えつつ、不確実な報酬を探索しなければならないからである。

 現時点で、脳を記述する原理を一つだけあげろと言われたら、この、「確実」と「不確実」のバランスを図る強化学習を挙げることになるのかもしれない。強化学習は、ゴールの見えないオープンエンドなプロセスであり、脳が世界に向き合う際のゴールデンルールのようなものである。そこには単純さゆえの深みがある。人工知能の学習則が脳からインスパイアされた強化学習のアルゴリズムを広く採用しているのも、自然なことと言えるだろう。

4.ゲーム理論

 ところで、すでに述べたように、不確実な状況の下でどのような行動をとるのかを解析する上では、感情の働きが重要になってくる。

 その中でも、自分の生死がかかるような状況においては、目の前の選択が自分の存在自体に関わることになる。その際、怒りは重要な感情である。怒りとともに、交感神経の活動が高まり、アドレナリンが分泌され、瞳孔が開き、脈拍が増え、血圧が上がるなどの生理的な「戦闘態勢」が整うのである。

 もっとも、理性を失ってしまっては、生命が関わるような状況で適切な判断ができなくなる。相手と戦闘状態になった時の「闘うか逃走するか」(fight or flight)と呼ばれる二者択一の状況で起こりうる事態を分析することは、生物の進化を考える上では重要な問題である。

 一般に、相手と闘うかどうか、もし闘った場合、どのような結果が予想されるかということは、生命の進化を考える上で普遍的かつ最重要な課題になる。

 そのような際にどんな戦略をとるかは、たとえば「タカハト」ゲームで解析される。ここに、「タカ」は相手と闘うことを選択する戦略であり、「ハト」は逃げることを選択する戦略である。

 有限のリソース(テリトリーや食料、異性)をめぐって争う場合、「タカ」戦略で行くか、「ハト」戦略で行くかによって起こりうることが異なる。

 もしお互いに「ハト」戦略で逃げ出せば、リソースを得ることはできないが、怪我をするなどの損失もない。一方、お互いに「タカ」戦略で行けば、勝った方はリソースを得ることができるが、怪我をするリスクもある。また、自分が「タカ」戦略に出たのに対して相手が「ハト」戦略に出た場合には、労せずしてリソースを得ることができる。自分が「ハト」戦略で相手が「タカ」戦略の場合は、相手にリソースを譲って怪我なく逃走することになる。

 ここで、「怪我」と表現しているのは、必ずしも身体が物理的に傷つくことだけでなく、たとえば資金を投入してコストがかかるというようなこともこれに当たる。恋の鞘当てからテリトリー争い(国同士の領土紛争を含む)、そして市場での競争まで、さまざまな状況が「タカハト」ゲームで分析できる。

「ハト」戦略が有効なのか、それとも「タカ」戦略が効果的なのかは「他者」の状況にも依存する。他者の出方によって、集団の中での個々の「主体」(エージェント)のふるまいも変わってくる。たとえば、「ハト」ばかりが多数を占める環境だと、学習や変異などによって「タカ」戦略をとる主体が増えてくる。いわば、「タカ」が「ハト」の群れにつけこんでコストをかけずに「タダ乗り」するのである。一方、「タカ」戦略をとる主体ばかりが多くなれば、全体としての怪我すなわちコストが高くなりすぎてコミュニティが維持できなくなり、「ハト」戦略の意義が増してくることだろう。

 人間には、不確実な状況の下でも「不行動」よりは「行動」を選ぶ傾向がある。この人間の性質を経済学者のジョン・メイナード・ケインズは「アニマルスピリッツ」と呼んだ(ケインズ『雇用・利子および貨幣の一般理論』1936年)。

「アニマルスピリッツ」の下で、人はよりよく生きるために行動する。その際、「怒り」や「嫉妬」、「野望」、「夢」といった言葉で表される感情が主観的には重要な役割を果たしている。しかし、冷静、客観的に分析すれば、そこで起こる相互作用における利得の予想は、ゲーム理論が教える通りである。

「タカハト」、「囚人のジレンマ」(タカハトゲームとはまた別の、ゲーム理論における代表的なモデルのひとつ。二人の囚人にそれぞれ自白する・しないの選択をさせる。各自が自分の利益のみを追求する選択を行うと、互いに協力するより悪い結果を招く構造となっており、個々人にとっての最適な選択が全体では最適とならない状況をいう)、さらには核兵器がもたらす「平和」を説明する「相互確証破壊」といったゲーム理論は、つい「我を忘れる」ことになりがちな人間の行動の背後にある普遍的な法則を明らかにする。

 ちょうど、ニュートンが「りんごが落ちる」という現象を、あるいはダーウィンがこの地上には多数の生物種があるという事実を少し離れた見地から客観視して、それぞれ万有引力、進化の法則を見出したように、「ゲーム理論」は感情の「アニマルスピリッツ」の向こうにある普遍的な構造を明らかにする。

5.後悔と偶有性

 人間の脳は、扁桃体を中心とする感情の回路の働きを受けて、前頭葉を中心とする大脳新皮質の回路がさまざまな調整、制御をするという成り立ちになっている。

 行動選択には、扁桃体に加えて大脳基底核や線条体などが関与する。そして、その際に重要な役割を果たす感情を制御する回路が、大脳新皮質に所在する。自分にとってその選択がどれくらい良いことかという「価値」を計算する報酬系の回路が、その時々の状況や社会的関係性によって左右される。

 ゲーム理論で解析されるような主体間のやりとりは、脳の社会性の回路を通して報酬系の活動に影響を与え、結果として「私」にとって最適化された行動が選択されることになる。扁桃体や大脳基底核で生み出される「アニマルスピリッツ」を、前頭葉を中心とする回路が整えていくのである。

 感情は人間が生きていく上で大切なものだが、時に暴走してしまうこともある。それぞれの状況、文脈に合わせた適切な選択をするためには、前頭葉が適切に関与する必要がある。

 その意味で最近注目されているのが、前頭葉の「再解釈」の機能である。ここでいう「再解釈」とは、ある感情が与えられた時に、その意味を柔軟かつ生きることに資するようにうまく結びつけ、展開することである。

 たとえば、誰かに嫉妬している場合、感情をそのまま受け止めると、怒りを爆発させたり、いろいろなことに否定的になってしまったりする。しかし、嫉妬の背後にある欲望(「自分も実はそのようになりたい」)や、そもそもの因果関係(「その人が成功しても、自分の人生とは独立した事象である」)が整理、再解釈できると、前向きで建設的な選択、行動に結びつけることができる。

 前頭葉の再解釈の機能は、いわゆる「アンガーマネジメント」などにおいて欠かせないと考えられる。そして、感情の再解釈がうまくできるためには、脳の回路にさまざまな生のパターンやその発展の予想機能が記録されている必要がある。そのために、「教養」が大切であることが示唆される。

 ここにいう「教養」とは、さまざまな学び、遊び、コミュニケーションなどの経験を通して、脳の中に複雑で豊かな情報処理の回路が形成されることである。本を読んだり、音楽を聴いたり、映画を観たりということもそのような情報処理の醸成に寄与するので、感情の再解釈を支える「教養」につながる。もちろん、この「教養としての脳科学」の文章を読むことも、脳の働きについての理解を醸成し、自分自身に対する「メタ認知」を形成するという意味で有意義な「教養」となり得る。

 一連の研究によれば、幼少期の環境が豊かであるほど、後に感情を再解釈し、コントロールする前頭葉の働きも改善される。何らかの理由で幼少期の環境に恵まれていないと、アンガーマネジメントなどの働きが不全になる。もっとも、脳には可塑性があるから、何歳になっても豊かな経験を積むことで「教養」を増やし、感情の再解釈の働きを高めることができる。決して幼少期の環境による宿命論ではないのだ。

 ところで、前頭葉を中心とする現実の「再解釈」の働きにおいて重要なのは、「後悔」という感情の扱いである。「後悔」は、自分の選択、行動が好ましい結果をもたらさなかった際に、時間をさかのぼってそのことを反省し、将来そのような失敗を繰り返さないように脳の回路をつなぎかえる機能である。その際、自分が選択した行動(「現実」)と、選択できたかもしれないのにとらなかった行動(「反現実」)を比較する必要がある。

 一般に、現実とは異なる状態を想像することはフィクションの作品をつくる上では欠かせない脳の働きである。「後悔」は、自分の選択という具体的な事例において、「現実」と「反現実」を比較するきわめて高度な脳機能だと考えられる。人間の脳の前頭葉にある「眼窩前頭皮質」が、このような意味での「後悔」の働きを支えていることが知られている。眼窩前頭皮質を中心とするネットワークで、「現実」と「反現実」の比較が行われているのである。

「現実」と「反現実」の間の関係を考えることは、フランスの哲学者のアンリ・ベルクソン(1859~1941年)が生涯にわたって探究した「偶有性」の問題につながる。「偶有性」とは、私たちの生を特徴づける、予想できることとできないこと、実際に起こったこと(「現実」)と起こったかもしれないこと(「反現実」)が密接に絡み合った有り様を指す概念である。

「偶有性」は、過去の体験の記憶が、脳の状態に必ずしも依存しないかたちで残っているという「純粋記憶」と並んで、脳と意識の関係を考える上で重要なベルクソンの概念である。「偶有性」や「純粋記憶」については、この連載の中でも再び検討することになる。

6.すべての可能世界の中で

「現実」と「反現実」の関係は、ミクロの世界を記述する量子力学の意味するところをめぐる議論において現在有力な説の一つとなっている「多世界解釈」とも関係してくる。たとえば、電子が2つのスリット(小さな隙間)のどちらを通るかという時に、量子力学ではどちらの可能性も否定できない。その際、電子が「スリット1」を通った世界と、「スリット2」を通った世界がそれぞれ存在して、全体として私たちが住むこの現実の時間発展を説明するというのが「多世界解釈」の前提である。電子がスリットを通るたびに、世界が分裂するのである。

量子力学に対する代表的な解釈2つの比較

 多世界解釈は、一見荒唐無稽のようでありながら、今日、物理学の理論的研究を進める代表的な論者のかなり多数が支持している。もっとも、科学の真理は多数決で決まるものではないから、多世界解釈が正しいかどうかはまだわからない。また、最近進展の著しい量子コンピュータの研究に多世界解釈がどのように関わるかという問題も注目される。

 多世界解釈は、そもそも、この世界のあり方としてどのようなものが可能なのかという「可能世界」の議論へとつながっていく。可能世界の問題は、近代の科学の文脈の中で議論されるだけでなく、それを含むより広い哲学的、思想的、そして神学的な側面における重要な問題である。

 ドイツの思想家ゴットフリート・ライプニッツ(1646~1716年)は、可能世界とこの現実の関係について重要な仮説を提示した。すなわち、ライプニッツは、「神は完全な世界をつくることはできなかったが、すべての可能世界の中で、最善の世界をつくることはできて、それがこの現実である」という論を展開したのである(『弁神論』1710年)。

 ライプニッツの論の意味は、慎重に検討しなければその真意はわからない。

 現代においては、神の存在を否定する「無神論」が知的な論者の中では主流である。そのうちの一人、イギリスの作家・俳優・コメディアン、スティーヴン・フライは、神がつくったこの世界は底意地が悪いと主張する。「もし神がいるとするならば、なぜ小児がんのあるような世界をつくったのか」「もしそのような世界をつくる神がいるとしたら、それは性格の悪い神だ」という趣旨のインタビューが公開されている(Stephen Fry on God/The Meaning of Life [YouTube])。

 この世界が不完全なものであること、さまざまな災害や病気、さらには「悪」が存在することは確かに不条理である。しかし、ライプニッツの「現実は全ての可能世界の中で最善」という論は、そう簡単に否定できるものではない。

 評論家の立花隆は、その生産的な生涯の中で多彩な問題をとりあげた。晩年は、自身が罹患したこともあり、がん研究の最前線を追いかけた。その中で、がん細胞の働きは、私たちの生命を成り立たせている細胞の機能一般と表裏一体のものであり、時にはがんになるような細胞が現れるからこそ私たちの生命も維持されているのだという結論に達したという。

 もちろん、将来、がんが克服される可能性はゼロではない。現在、がんのメカニズムの解明とその根絶を目指して多くの研究者が努力している。一方で、時折がんが発生するような世界だからこそ、私たちの生命も可能になるのだという視点は、ライプニッツの論とも関連し、興味深い。

 この世になぜ悪があるのかというのは人類を長年にわたって悩ませてきた問題である。もし神がいるとするならば、なぜ悪人がいるような世界をつくったのか。そもそも、その気になれば「悪行」を選択できるような「自由」をなぜ神は人に与えたのか? (これは当然「自由意志」の問題の根幹に関わる。)

 折に触れ神が介入する世界ならば、悪行が行われようとする時に神の「奇跡」が起きて阻止できるかもしれない。しかし、いったん世界ができたらもう神は介入せず、自然法則の進行に任せるという「理神論」の下では、時折悪人が出るような世界でなければ、人類に便益をもたらすさまざまなこと(たとえばリスクをとって新しいことに挑戦する、自らの存在を脅かす「敵」を倒す、など)も消えてしまう可能性が指摘できる。すなわち、ここでも、「現実は全ての可能世界の中で最善」というライプニッツの命題が正しい可能性がある。

 今回、冒頭にとりあげたように、「ニュートンはりんごが落ちるのを見て万有引力の法則を発見した」という有名なエピソードは、フランスの啓蒙思想家ヴォルテールが書き残したことで知られる。そのヴォルテールは、ライプニッツの楽観論に批判的だった。実際、その小説『カンディード』(1759年)の中で、ヴォルテールはライプニッツの楽観論を風刺している。何が起こっても「現実は全ての可能世界の中で最善」だと主張する哲学者パングロスが登場し、若者カンディードは洗脳されてしまう。しかし、やがて、カンディードはパングロスの教えに疑問を抱き始める……。

 ヴォルテールが『カンディード』を書こうと思ったきっかけは、1755年に起こったリスボン大地震だったとされる。この地震では、2011年の東日本大震災に匹敵する規模のマグニチュードの揺れにより、建物の倒壊や津波が起こり、数万人が死亡したとされる。

 大地震が当時のヨーロッパに与えた衝撃を、地震大国である日本に住む私たちは容易に想像できる。また、ヴォルテールがその経験に基づいてライプニッツの楽観論に疑問を持った知的誠実性にも共感できる。

 しかし、「現実は全ての可能世界の中で最善」というライプニッツの楽観論は、ヴォルテールの批判によって簡単に崩壊するものではない。確かに、この世に地震のような自然災害があることは人間にとって悲しいことである。しかし、地震を引き起こすプレート移動などの地殻変動は、私たちの生命を育むこの地球の営みの一部分である。地震が消えてしまえば、温泉もなくなるというような表層的な理屈ではなく、そもそも、地震が時に起きるような世界だからこそ、私たちの生命を育むような環境も生まれるという議論は、当然成立する。

 さまざまな批判にもかかわらず、ライプニッツの「現実は全ての可能世界の中で最善」という楽観論は、今日においても十分に成立し得る。このことは、そもそも人間には自由意志があるのか、幸福を導く条件の本質は何かといった議論に通じる本質的な論点であろう。

 ライプニッツの真逆の論を唱えたのは、ドイツの哲学者アルトゥル・ショーペンハウアーであった。ショーペンハウアーは、この世界のあり方に対して批判的であり、「世界が存在するよりも存在しない方が良かった」という主張を展開した。その主著『意志と表象としての世界』(1819年)は、その哲学にインスパイアされて楽劇『トリスタンとイゾルデ』(1857~59年作曲、1865年初演)を作曲したリヒャルト・ワグナーを始め、多くの人に影響を与えることになった。

 果たして、ライプニッツが言うように、「現実は全ての可能世界の中で最善」なのだろうか? このような問題を考えることも、「教養としての脳科学」に含まれることになる。

 

著者プロフィール

茂木 健一郎 (もぎ けんいちろう)

1962年東京生まれ。東京大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理学博士。脳科学者。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経てソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。「クオリア」(感覚の質感)をキーワードに脳と心の関係を研究するとともに、評論、小説などにも取り組む。2005年『脳と仮想』(新潮社)で第4回小林秀雄賞を受賞。2009年『今、ここからすべての場所へ』(筑摩書房)で第12回桑原武夫学芸賞を受賞。著書に『生命と偶有性』(新潮選書)、『記憶の森を育てる 意識と人工知能』(集英社)、『クオリアと人工意識』(講談社現代新書)ほか多数。

著者近影/中野義樹
タイトル背景/sugimura mitsutoshi/Nature Production /amanaimages

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