
第1回
「気づくと、穴に落ちていた」
更新日:2026/10/07
この4月半ばから6月までの1カ月半、内戦からの復興のさなかにある中東のシリアへ取材に向かった。シリアは今、歴史の大きな転換期にある。武力衝突や空爆によって荒廃した街に、10年近い避難生活を終えた人々が帰還している。こうした故郷での生活再建を目指す人々の姿を見つめ、私はカメラのシャッターを切った。

(内戦によって荒れ果てた街に住民が戻り、復興が進むシリア中部パルミラ。2026年5月)
そのシリア取材から日本へと帰国した後のことである。私は穴に落ちた。突然、そこにあった穴に落ちたのではない。歩いているうち、あっ、これは穴に落ちている、となんとなく自覚しながら、底まで落ちてしまったのだ。そしてそのまま深みにはまったままだ。これがどんな穴なのか、全貌もわからずにいる。何度ももがいて抜け出そうとしたが、どうやら簡単に這い上がれそうにない。これはひょっとすると、「日常」という名の穴なのではないか――。
私はドキュメンタリー写真家として、この15年近くシリア難民の取材を続けてきた。しかしフリーランスとしての取材活動は、収入に繋げることが困難で、取材を重ねるほどに生活は困窮した。
中東地域での1カ月近い取材には、100万円ほどの取材費が必要で、取材内容をさまざまなメディアで発表させていただいたとしても、得られる収入は、良くても支払った取材費の5分の1ほどだった。取材の継続に苦労し、カンパを募りながら現地に向かった。自分の取材は自分のお金で行くべきだ、と批判を受けたこともある。だがカンパを募ることで取材現場に立てるなら、批判を受け止め、恥をしのんででも、私はそこに向かいたかった。その分、誰にもできない取材をし、価値ある報道ができたなら、そのほうが建設的だと思うのだ。
自分が足を止めている間にも、世界は刻一刻と変化していく。だからこそ、その〝瞬間〟を捉えなければ、という信念から、現場に足を運び続けてきた。
その私の「現場」であるシリアは、2011年以降、泥沼の内戦へと突入し、500万人近くにのぼる膨大な難民を生んだ。発端は、1970年代から独裁体制が続いていたシリアに、中東の民主化運動「アラブの春」が波及したことだった。政治改革を求める市民運動は大規模なデモへと発展したのだが、アサド政権はこれを武力で徹底的に弾圧した。多数の死傷者が出たことで市民側も武装し、各地での衝突が激化していったのだった。
始まりは、自由な政治参加や改革を求める市民の運動だった。しかし、イスラム過激派組織ISなどの台頭や、アサド政権を軍事支援するロシア、イランなど、さまざまな思惑を持った外部勢力の介入が、事態を一層複雑化させた。激化する武力衝突や空爆によって人々の暮らしは奪われ、おびただしい国内避難民や難民が生まれていった。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)などの報告によれば、内戦前のシリアの人口約2200万人のうち、その半分以上が生活を失ったとされる。
フリーランスの写真家として、シリア難民の取材現場に立ち続けることが金銭面で決して容易ではなかったと書いたが、実はもう一つ、私にとって取材現場に立つことを難しくしていることがある。子育てと取材の両立だ。私には、10歳と7歳になる二人の息子がいる。長男が1歳になったタイミングで子連れ取材を始め、以来、毎年のように現地に足を運んできたが、難民の取材と子どもの世話を同時にこなさなければならない日々は、まさにパニックだった。

(シリア難民の女性のための学校で、大泣きし、皆にあやしてもらう長男サーメル。2017年、ヨルダン北部ザータリ村)
しかしそれでも取材現場へと通ったのは、その内戦が、写真家としての私の関心事である以上に、私自身の家族に起きた、人生を大きく左右する出来事だったからだ。
というのも私の夫は、シリア中部のオアシス都市パルミラ出身の男性である。彼とは内戦が始まる前、2008年のシリアで出会った。夫自身も国を逃れた難民の一人であり、その家族もまた難民となっていった。
夫の名はラドワン。アラビア語で、七層あるとされる天国のひとつを意味する名だ。その実家であるアブドゥルラティーフ家は、3世代前まで沙漠に生きた遊牧民ベドウィンで、70人近くがともに暮らす大家族だった。

(夏の日、自宅中庭の日陰でくつろいでいたアブドゥルラティーフ一家。2009年、シリア中部パルミラ)

(ラクダの放牧中、お気に入りのラクダに話しかける夫ラドワン。2009年、シリア中部パルミラ)
私は彼らを通し、沙漠に生きる者の伝統的なあり方を教えてもらった。彼らにとって沙漠は、単なる過酷な荒野ではない。自分たちをオアシスへと導いてくれる開かれた世界なのだという。彼らは砂粒の色や形、自生する草の種類から、広大な沙漠のなかでも正確な現在地を知ることができた。生業(なりわい)としていたのは、沙漠でのラクダの放牧だ。群れの100頭ものラクダを顔や体格で見分けるだけでなく、数世代前まで遡って血統を記憶していた。
祖先から受け継いだ知恵とともに沙漠に立ち、それをさらに次の世代へと手渡していく。彼らはその営みに、誇りと喜びとを抱いていた。しかし、そうした穏やかで満ち足りていた暮らしは、内戦によってたった数年で崩壊していくこととなった。
アブドゥルラティーフ一家にとっての生活の崩壊の始まりは、2012年5月、夫の兄である一家の六男サーメルが逮捕されたことだった。彼は2011年に民主化運動に参加したことで反逆罪に問われ、収容施設へ送られたまま行方不明になったのだ。この事態を受け、サーメルとともに運動に参加して逃亡生活を続けていた九男ジャマールもまた、ヨルダンへと逃れて難民となった。
こうして穏やかで満ち足りた日々を送っていた大家族は、内戦によって離散していった。さらに2015年以降、パルミラの街が激しい空爆に晒されたことで、彼らは生活の基盤そのものを奪われてしまうこととなった。

(世界遺産パルミラ遺跡と、内戦によって荒れ果てたナツメヤシの庭園。2025年、シリア中部パルミラ)
歴史に「もし」は存在しない。それでも、考えてしまう。もしパルミラで夫に出会っていなかったら。そしてアブドゥルラティーフ家の人々が故郷を奪われていく痛みを間近で見つめていなかったらーー。私は今、シリアの地で写真を撮り続けてはいなかっただろう。偶然の巡り合わせに導かれるように、私はシリアの歴史の渦中に身を置くこととなった。
難民となった人々を支えていたのは、かつて故郷で過ごした幸福な日々の記憶と、〝いつか必ずそこへ帰る〟という信念だった。2020年以降の新型コロナウイルスの流行や、2023年のトルコ・シリア地震の被災、避難先でのシリア人差別に晒されながらも、人々は故郷を想い、幾重もの苦難を耐え抜いてきた。だからこそ、10年以上続いた内戦の末にアサド政権が崩壊し、人々の帰還への道が開かれたとき、私は言葉を失うほどの衝撃を受けた。ついにその日がやってきたのだ、と。
アサド政権の崩壊は、当のシリア人ですら予想していなかった突然の出来事だった。そのとき私は、シリア人移民を取材するため、当時8歳の長男を連れてイギリスに降り立ったばかりだった。しかし居ても立っても居られず、急きょ行き先をシリアへと変更。日本で仕事をしていた夫のラドワンも呼び寄せ、家族三人でのシリア取材を敢行した。

(アサド政権崩壊から約1週間後、取材のためシリアへ入国。レバノン・シリア国境にて。2024年)
夫ラドワンとは、2013年から日本でともに暮らしてきた。彼は2011年、シリア政府軍に徴兵され、市民を弾圧する側に立たされた罪悪感から軍を脱走し、難民となった経緯がある。そのため、〝アサド政権が倒れない限り、二度と祖国の土を踏むことは叶わない〟と諦めていた。しかし、そのアサド政権が崩壊する。信じがたい日が本当に訪れたのだ。
二度と戻れないはずだった祖国シリアに立ち、歓喜に涙しながらも、変わり果てた故郷の姿に打ちひしがれるラドワン。その両方を、私はファインダー越しに見つめた。

(実家の屋上から、荒れ果てた故郷を眺める著者の夫ラドワン。2024年、シリア中部パルミラ)
荒れ果てた故郷を前に、ラドワンは語った。「残りの人生を、故郷の復興に捧げたい」。その言葉に、自分や子どもたちの今後の暮らしへの不安がよぎらなかったといえば嘘になる。だがそれ以上に、彼が13年ぶりに故郷の土を踏み、あれほど夢に見ていた帰還を果たせたという事実に、私の胸は深く揺さぶられた。そうして私は、夫をその〝故郷〟へと送り出す決意をした。
政権崩壊から1年が経った2025年12月、ラドワンはシリアに帰還し、現地に生活と仕事の拠点を築くべく、仲間たちとともにパルミラ復興の第1号となる小さなホテルを建設。「シルクロードロッジ」と名付けた。かつてこの街は、東西を結ぶ要衝として、古くから多くの人々や物資が行き交った場所だ。その歴史のように、内戦からの復興を果たし、かつての賑わいを取り戻してほしいーーそんな願いが込められている。
そんな私が帰国後、〝穴に落ちた〟。それを自覚し始めたのは、取材に同行した二人の子どもたちの変化がきっかけだったかもしれない。二人は学校をサボり、真昼間からサングラスと夫の時計を身につけ、まるでチンピラのような格好で近所をうろつくようになっていた。
アサド政権崩壊から間もないシリアの変化を取材しなくては、という写真家としての思い。一方で、日本とシリアの二つのルーツを持つ自分の子どもたちは、シリア取材に連れて行くたび、日本の小学校生活に馴染めなくなっていく。思い描いていた理想と、突きつけられる現実との乖離に、私は戸惑っていった。
シリア取材の間、息子たちは朝から夜まで現地の子どもたちと行動をともにしていた。ゾロゾロとあっちの路地からこっちの路地へと移動し、ボールを追いかけ、危険な不発弾を探し、空爆で倒壊した廃墟を探検する日々。一緒に取材に行こうと声をかけても、2年ほど前からは頑なに拒むようになっていた。彼らには、現地の子どもたちとの世界があり、その結びつきのなかで、シリアの現実を学んでいったらしい。そうして迎えた帰国の日、二人は私に告げた。「もう、日本には帰らない」
彼らに言わせれば、日本の小学校生活はあまりにルールが多くて息苦しく、毎日が忙しすぎるのだという。シリアの子どもたちはもっと自由で、日常で縛られる決まりも少なく、ゆったりと生きている。
「どうして僕たちは、学校に行かなきゃいけないの? シリアのお友だちは学校に行かなくたってみんな大人になっている。僕も学校に行かずに大人になりたい」
私は何も、成績優秀になってほしいわけでも、名の知れた大学に進んでほしいわけでもない。自分自身の人生を歩んでほしい。しかし、人はどこで生きていくにしても、学び続けなければならない。「学ぶ」という姿勢と、それを継続することの価値を理解してもらいたいのだ。「学校に行かなくても大人になれる!」と言い張る子どもたちに、私はこんな話をした。
これは以前、どこかで目にして以来、ずっと頭に残っていた話を私なりにアレンジしたものだ。我々はなぜ、学校でさまざまな学科を学ぶのかという問いに対する答えだった。
「確かに、学校に行かなくても大人にはなれる。でも学校で学ぶと、いろいろな視点から物事を見つめられるようになる。例えば、一頭のラクダがいる。国語を学べば、ラクダがどんな動物なのかを自分の言葉で分かりやすく説明できる。外国語を学べば、それを世界中の人たちに伝えられる。算数を学べば、頭数を数えたり管理ができる。地理や理科を学べば、そのラクダの種類や暮らしている環境がわかる。大切なのは『学校に通うこと』そのものじゃないんだよ。学校という場所でいろいろな学び方を経験し、友だちと一緒に考えたり、話し合ったりする。その積み重ねが大切なんだよ」
もちろん学校に行かなくても、ちゃんと子どもたちは成長するだろう。しかし東京の外れの新興住宅地で暮らし、地域とのつながりも極めて希薄な暮らしを送る今、私は子どもたちに、もっとさまざまな人たちと関わってほしかったのだ。
だが、シリアでのびのびとした暮らしを満喫した二人の子どもには、私の想いはなかなか届かなかった。「シリアに帰りたい」、「学校には行かない」と子どもたちの反発は強まるばかり。取材を終え、精力的に写真の整理や執筆を進めたい私の思いとは反比例するように、二人は登校を拒み、昼間から近所をうろつくようになり、母として頭を抱える日々が始まった。
そして気づいたときには、私はいつの間にか「穴」に落ちていた。
一体どうしたのだろう。これまでだって私はでこぼこ道を歩いてきた。だが今回は、ちょっと凹んだどころではない。ここは、一旦歩みを止めなければならない「穴」なのである。
やるべきことは目の前に山積みだ。少しずつでも進まなければならない。向かうべき方向だって見えている。しかし、穴の底に足をとられた私は、体を動かすことができない。そんな心境だった。
当初私は、そんな場合ではない、と思っていた。今は大事な時期だ、早く這い上がらねば、と。しかし、ここにはそのための縄もハシゴも見当たらない。「おーい」と穴の外に声をかけてみたものの、周囲には誰もいないようだった。
やがて一人で穴の底に立ち尽くすうち、だんだんと私は考えるようになった。穴に落ちたからこそ見えるものがある。それを直視しない限り、ここから抜け出すことはできないのではないか、と。
そもそもこの穴は、いつできたものなのだろう。はっきりとは分からないが、まだ幼い子どもたちを連れて取材現場へと向かい、あるべき母親としてのあり方と、写真家としての情熱との間で葛藤しながら、なんとかその日その日を送ってきたなかで、時間をかけて口を開いた、私の心の中の穴なのではないか。
その穴を、これまではうまく避けて通り過ぎることができていた。しかし穴は次第に深く大きくなり、日常との境界さえ曖昧になって、私は落ちるべくしてここに落ちたのだ。底から見上げると、小さな空がポッカリと見える。考えなければ。ここからどうやって外へ抜け出すのかを。
これは、穴に落ちてしまった私が、なんとか這い上がろうとあがく、切実な模索の記録(になるはず)だ。

(10年近く廃墟となっていた実家を歩く著者の夫ラドワン。2024年)

- 著者プロフィール
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小松由佳(こまつ・ゆか)
ドキュメンタリー写真家。1982年、秋田県生まれ。2006年、世界第2位の高峰K2(8611m/パキスタン)に日本人女性として初めて登頂し、植村直己冒険賞を受賞。風土に根ざした人間の営みに惹かれ、草原や沙漠を旅しながら写真家を志す。12年からシリア内戦・難民を取材。著書に『人間の土地へ』(20年/集英社インターナショナル)など。25年『シリアの家族』(集英社)で第23回開高健ノンフィクション賞を受賞。日本写真家協会会員。










