羆文学の金字塔を打ち立てた直木賞作家、キャンプにハマる【後編】
──河﨑秋子さんのソロキャンプ密着記

聞き手 中村計(ノンフィクションライター)

『ともぐい』で猟師とボス羆の対決を描いた、直木賞作家の河﨑秋子さん。インタビューの前編では、ヒグマをものともしない強靭な精神力や、百戦錬磨のサバイバル達人を想起させる作風とは裏腹に、意外にも日が浅いキャンプ歴や、慎重すぎるほどのヒグマとの向き合い方が明らかになった。
後編では、ときに事実よりもリアルな羆との死闘を描き切った作家の想像力や、河﨑さんが大切にしてきたという「農家の価値観」に迫る。

──前編はこちら──

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大きな塊を買ってきて、豪快に焼く

――今年1月、直木賞を受賞した『ともぐい』は山で狩猟をして暮らす熊爪という男が主人公でした。ヒグマの描写を書くために山で野生のヒグマを見てみたいと思うことはないのですか。

河﨑 おっかないじゃないですか。動きを見たくて、動物園に行ったりしたことはありますけど。創作のためにそこまで危険を冒すことはないと思います。さっきも話しましたけど、農家で生まれ育ったので、動物とのやりとりの中で自分の命と引き換えにしなければできないことのラインみたいなものは自分の中にあるので。たとえば、昔、山菜を採りに山に入るときも1人では行かないようにしていましたし、ラジオとかをがんがんかけていました。本当にやばそうなところはそもそも入りませんでしたし。

――ちなみにキャンプではどんなものを食べるのですか。

河﨑 やはり肉が多いですね。今日もそうでしたけど、牛とか鶏とか。あとは羊ですね。なるべく大きな塊を買ってきて、豪快に焼くのが好きなんです。

――肉はそのままドンと乗せていましたもんね。ジャガイモのホイル焼きも絶品でした。


七輪を使った調理だけではなく、魚介も豪快に網焼きする

河﨑 今使っている平べったい七輪は私のキャンプ道具の中でいちばんのお気に入りなんです。編集者の方からいただいたカタログギフトで交換したものなのですが、そこそこ焼く面積が広いので半分のエリアで焼き肉を焼いて、もう半分のスペースでイモを焼くというのもできるんです。

クマにやられて、顔がぐじゅぐじゅになっていたとしたら……

――こういう雰囲気の中で人と話していると、話の深度も変わってくる気がしますね。河崎さんは作品を書くにあたりインタビュー取材みたいなことをするときもあるのですか。

河﨑 もちろんするときはします。でも『ともぐい』のときは、あまりしなかったですね。昔の文献にあたって熊撃ちの体験談なんかを読んだりはしましたけど。小説自体、現代の話ではないので、ワンクッション、ツークッションくらい時間を置いたエピソードの方がフィクション化しやすいかなとも思って。

――『ともぐい』の中でいちばん衝撃だったのは、主人公の熊爪が山中でヒグマに襲われた男の応急処置をするシーンなんですよね。

熊爪は男の頭をがっしり両手で掴むと、潰れた右目の辺りにむしゃぶりついた。間髪入れず、腫れた瞼の間から中身を吸い上げる。
言葉にならない、獣じみた悲鳴が上がった。
「何すんだ!」
男は痛みと驚きと混乱から、両手を無暗に振り回す。熊爪は吸い上げた目玉の一部をぺっと川に吐き捨てると、男の両腕を掴んだ。 (新潮社刊『ともぐい』より)

河﨑 あそこはけっこうみんな「ひーっ!」って思うらしいです。

――文章の破壊力をもっとも感じる部分ですよね。あれは実話なのですか。

河﨑 聞いたことはないんですけど、クマの爪の雑菌ってすごいらしく、クマによる傷の治療って昔はものすごく困難だったようなんです。家畜だともはや安楽死させるしかないとか。なので山の中でクマにやられて、顔がぐじゅぐじゅになっていたとしたら、この方法しかないだろうな、と。消毒液もない状態なので。

――想像なんですね……。

河﨑 はい。

――やはり小説家って、すごいんですね。想像であんなリアルな世界を描ける。


河﨑さん愛用、キャンプ必携品の数々。七輪とラグがお気に入りだ。

河﨑 羊飼いになるためにニュージーランドに留学していた頃、羊の頭の解体とかはしたことがあるので何となく動物の顔の構造はわかっていたので。

農家の出身だから、農家の価値観で生きてきた

――食事のあとはいつもは何をしているのですか? やはりお酒ですか。

河﨑 読書ですね。

――火を見ながら読書をしたら没入感がすごそうですね。以前、自然写真家の星野道夫さんが好きだとおっしゃっていましたよね。

河﨑 昔から大好きで全集も持っています。でもキャンプで星野さんの本を読むことはないでしょうね。内容的に仕事と接続してしまうので。キャンプにきたら、なるべく仕事とまったく関係ないジャンルの本を読むようにしています。

――河崎さんも星野さんも自然と人の関わりが大きなテーマですもんね。星野さんは野生動物と人間の共生というものを考え続けてきた人だと思うのですが、今、日本各地でクマの出没が頻発し、自然といかに共生していくべきかという議論がさまざまなところでなされています。そのあたり、河﨑さんはどんな風に考えているのですか。

河﨑 私は農家の出身で、農家の価値観で生きてたところがあるので、共生は理想なんでしょうけど非現実的だなと思う面もあります。農家は資本主義のもと、お金のために自分が消費する以上のカロリーを生産しなければならないわけです。1人が生きていくためのものだけ生産すればいいのなら、環境負荷を極限まで減らすことは可能だと思うのですが、農家って結局、環境を破壊せざるを得ないんですよ。そこから目を逸らし、きれい事だけを並べることは私にはできませんね。ただ、農業も工夫次第で環境負荷を下げることはできると思うんです。人間同士、知恵を出し合えば、これからできることというのはいっぱいあるんじゃないのかなとは思いますね。


日が傾き、炊飯に取りかかる河﨑さん

今晩、クマが来たら……

――先ほど、クマが怖くて車中泊したという話をしていましたけど、そもそもはテント泊をするつもりだったわけですよね?

河﨑 そうです。そうしたら、暗くなってきて、デイキャンプの人が多かったみたいでどんどん人がいなくなってきて、管理人さんも帰ってしまって。肉なんて焼いちゃったもんだから、周りに臭いが残っているしな、と。しかも、その日の夜、雨予報だったんです。雨が降る中、クマに怯えて寝ることを考えたら、割とすんなり車で寝ようと思えましたね。テントもキャンプ道具もさっさと片付けて。

――なんか、わかりますね。いったん恐怖心が育ってしまうとダメですよね。夜は見えないぶん、想像がどんどん膨らんでしまいますし。

河﨑 自然の中でのエラーって、何かを甘く見ているときに起きるものだと思うんですよ。なので、基本的には常に臆病者のスタンスでいようと思っているんです。

――アラスカなんかだと調理場、食料を置く場所、テントとわけるよう指導されますもんね。よくよく考えたら、クマの生息域でテントの中に食料を入れておくのって、怖いですよね。

河﨑 今晩クマが来たら、どうします?

――想像させないでくださいよ、本当に怖くなっちゃうので。

河﨑 でも3人(編集者を含む)もいれば大丈夫ですよ。誰か1人が食べられてる間に逃げられますから。ふふふふふ。

――その「誰か」、自分になりそうな気が……。

河﨑 もう、やめましょう、この話題は。これから泊まる人間の話題じゃなかったですね。

――ソロキャンプを始めてから、小説を書く上で何かプラスになったなと思えることってあるのですか。

河崎 自覚できる変化は今のところないです。食いしん坊なので「肉、おいしいな」くらいなもので。何年か経って、この感覚はキャンプをやっていたお陰なのかなというものがあれば嬉しいですけど、そういうものを得ようとガツガツしたくはないんです。そうすると、自分が思い込みたいように思い込んじゃいそうで嫌なんです。だから今はおいしく肉が食べられて、読書の時間を確保できれば、それで十分なんです。

協力 スノーピーク十勝ポロシリキャンプフィールド

プロフィール

かわさき・あきこ

作家。1979年北海道生まれ。大学卒業後、実家の牧場で酪農従業員として働きながら養羊も行う。2012年「東陬遺事」で第46回北海道新聞文学賞を受賞。2014年『颶風の王』で三浦綾子文学賞を受賞しデビュー。同作でJRA賞馬事文化賞を受賞。2024年『ともぐい』で直木賞受賞。著書に『肉弾』(大藪春彦賞)『土に贖う』(新田次郎文学賞)『清浄島』など。2025年上旬、集英社新書より『父が牛飼いになった理由(わけ)』を刊行予定。

プロフィール

なかむら・けい

ノンフィクションライター。1973年千葉県生まれ。『甲子園が割れた日 松井秀喜5連続敬遠の真実』(新潮社)で第18回ミズノスポーツライター賞最優秀賞、『勝ち過ぎた監督 駒大苫小牧 幻の三連覇』(集英社)で第39回講談社ノンフィクション賞を受賞。

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