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読むダイエット 高橋源一郎

第17回  食べる本

更新日:2023/03/29

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最後の聖戦

 前回も書いたように、放っておくと体重が減ってしまうようになった。だから、食べる量を増やした、というか、栄養バランスにだけ気をつけて、量はほとんど気にしなくなった。一時、1日1食のことさえあったが、いまは逆に、1日3食のこともある。さすがに、そのときは腹がもたれる。そして、胃が小さくなったなあ、と実感するのだ。
 最近の「新作」は、料理で余った野菜を「かけるカンタン酢」(ミツカン)に漬けこんで「カンタンピクルス」をタッパーに作り、そのまま冷蔵庫に保管してあるもの。おやつ代わりに食べる。調理器具も調味料も、いつの間にか増えた。冷蔵庫に常に野菜の在庫はあるし、冷凍庫に肉も野菜も海に住んでいるみなさんも揃っている。味噌汁に入れる味噌の量も、目分量で問題ない。料理を始めた最初の頃は、いつも味が濃かった。というか、計って投入しても、味はなかなか定まらなかった。最近では、料理の味つけは、ほぼ即興。ほとんどジョン・コルトレーンである。いや、彼みたいに長いアドリブはやりませんが。
 最近は食材としてアボカドをよく使う。サラダに使うことが多いが、マグロアボカド丼を筆頭に、丼に、つまり和食にも合う。はっきりいって、アボカドは和食の基本食材ではあるまいか。もしかしたら、と思って、アボカドを味噌汁に投入してみた。これが美味しいのなんのって。その後で、いろいろ調べてみたら、やはりアボカドを味噌汁の具材にしている人が多いようだ。わたしの料理の導師(グル)である土井善晴先生も、アボカド味噌汁を提案されていた。やっぱり。アボカドはベーコンやトマトを道連れにして洋風味噌汁にしても、干し魚やワカメを同行させて海産物の味噌汁にしてもオッケーだ。ちなみに、胡椒やオリーブオイルを参加させてもいけるのである。すごいぞ、アボカド。
 おそらく、想像もつかない具材がまだまだあるのだろう。暇な時間ができたら、またアドリブで作ってみようと思う。

 ところで、ダイエットや運動では、現時点では新たにやるべきことが、あまりなくなってしまった。なので、最近とりくんでいるのが「減酒」である。
 タバコをやめてから20年以上が経過した。これはもしかしたら書いたことがあるかもしれないが、胃潰瘍になったとき、医者から「酒かタバコかどちらかをやめてください」といわれたのである。そのときには、「じゃあ、タバコをやめます」と即答した。禁煙するのにどれほどの苦しみがあるか、と思われたが、意外にあっさりやめることができた。いまでは、タバコの匂いがするだけで気持ち悪い。ほんとうにムカツク。好きじゃなくなったら、「無視」ではなく「嫌悪」に変わってしまうのだ。気をつけよう……。
 あえて書かなかったが、酒はずっと飲んできた。といっても、ほとんど外出しないので、「家飲み」。しかも、昼間も食事中も飲まないので、「寝酒」専門だ。だから、自分ではアルコール中毒ともアルコール依存症ともまったく思わなかった。飲みすぎで二日酔いになることもない。健全そのものだ。
 しかし、よく考えてみた。「寝酒」をしないと寝られないのである。正確にいうと、「寝酒」をしないと、寝つきが悪い。ざっくりいうと、完全「断酒」は、月に2日程度。だいたいは、ワイン1本を2日半で空ける。ワインのボトルを半分空けると、翌朝、若干酔いが残っている感じがする。これでいいのだろうか。仕事が終わりかけて、そろそろ寝ようかと思う頃にはいつもそわそわしている。「酔い」への期待である。しかも、飲みながら、つまみを食べる。
 午前3時に、ワインを飲みながら、ナッツを食べている。ワイン(赤)は心臓にいい、ナッツも健康にいい、とおまじないを唱えながら。正直にいって、そんな欺瞞はやめたいのだが、この時間帯には、はっきりいって空腹になっている。
 すいません。「1日2食」と書いていたが、この「深夜のつまみ」のことは書いていなかった。なんとかセーヴしたいところだが、「腹が減っては眠れない」と強行突破してきた。「1日2食」を実行するのには、「早寝早起き」が不可欠だ。しかし、それ、作家の仕事と相性が悪い組み合わせでもある。いろいろ調べてみたが、「深夜のつまみ+寝酒」に関してポジティブな見解は、どんな本にも見つけることができなかったのである。もしかしたら、この「寝酒」こそ、最後に残った、克服すべき生活習慣なのではあるまいか。そんなことをずっと心の底で考えていた。

 ある日、「よし」と思った。次に戦う場所は、ここだ。いや、「最後の聖戦」は、ここなのかもしれない。そう思った。目標ができれば、あとはやるだけである。
 かくして、3週間前から、「寝酒」の量と回数を減らし始めた。1回の量は今までの半分、回数は隔日である。とたんに、睡眠が断続的になった。2時間寝て起きる。起きて少し仕事をする。そしてまた寝る。こんな具合だ。身体が抵抗しているのである。生意気なやつだ。宿主に抵抗するとは。
 もちろん、無理矢理、「寝酒」を禁止してはいけない。身体は敵ではないからである。「寝酒」を必要とする身体にしたのは、わたし自身なのだから。
 いま朝6時。1時間前に起きた。睡眠時間は4時間半。連続して眠れたので悪くない。今日で「断酒」4日目である。厳しい締め切りがここ1週間はないので、なんとか、「断酒」もできている。よく眠れるように、歩く時間を増やし、湯船につかっている時間も増やしている。とりあえず、身体は適応しつつある。もちろん、無理をするつもりはない。なんとか「寝酒」を減らせていけそうだ。乞ご期待。

 ダイエットを開始して、4年以上。この連載を始めてからも、丸3年以上が過ぎた。その間に、わかったことがいくつかある。もっとも大切だと思えるのは、「自分の身体にお伺いをたてる」ことの必要性だ。
 人間というものは、物質的な身体でできている。それがすべてといっても過言ではない。しかし、そのことに気づかない。頭脳もしくは精神と呼ばれる「宿主」は、自分が完全な存在で、身体はたまたまそこを借りているだけだ、と思いがちだ。少なくともわたしはそうだった。
 そうではない、と感じるのは、身体が不調になったときだけだ。病気になる。ケガをする。調子が悪くなる。そのとき、ヤバいと感じる。しかし、それは一瞬で、また身体のことを忘れるのである。
 わたしがダイエットを開始したのは太ったからだった。だから、ダイエットを始めた。いま思えば、それはちょうどわたしの身体が明白に「老化」を始めたころでもあった。太らなくとも、「自分の身体にお伺いをたてる」べきときは近づいていたのだ。
 当たり前のことだが、自分の身体というものに関して、「当事者」は本人しかいない。どんなに親しい家族ですら、このわたしの「身体」に関しては他人事なのである。どこが痛むのか、どこがかゆいのか、どこがどんな具合に不快なのか、はたまた、どんなときに気持ちがいいのか。そのことは、この世界の誰も知らないのである。もちろん、「精神」も同じことなのだが。

 スクワットをきちんとやっているせいで、歩くことにはなんの差し障りもない。ふだんはぐいぐい歩いている。けれど、低い姿勢から立ち上がるとき、よろめくことがある。筋肉ではなく、おそらく神経に問題があるのだろう。身体のあらゆる部分が、少しずつ着実に老化しているのである。通常は突然気づくことなのだろう。けれども、「自分の身体にお伺いをたてる」ことが当然になったせいか、早く気づくことができたのだ。
 毎日のように散歩をする。途中で海岸を歩く。街中を通過した川は海にたどり着くあたりで小さな、あるかなきかの細い流れになっている。その僅か数十センチの幅の細い流れを飛び越すのに苦労する。かけ声をかけないと飛べない。着地のショックで膝が痛むかもしれないし、身体が重く感じるのだ。もちろん、体重は30代の頃に戻っている。ただ機能が衰えているだけだ。
 そんなふうに黄昏れてゆく身体に向き合うのは苦痛ではない。それもまた初めての経験なのだ。そう考えられるようになったのも、この数年間のダイエットのたまものなのだと思う。そう、ダイエットとは、身体と向き合うことだ。そのことによって、より自分を知ることができるようになるのである。
 この連載は、今回、そして次回で終わる予定だ。みなさんがみなさんの身体と深く付き合えるためのお手伝いができればうれしいと思って書いてきた。いくらでも書きつづけられるが、同時に、必要と思えることはだいたい書いたような気がする。あと少しおつきあいください。

著者情報

高橋源一郎(たかはし・げんいちろう)

1951年広島県生まれ。横浜国立大学経済学部中退。1981年、『さようなら、ギャングたち』で作家デビュー。『優雅で感傷的な日本野球』で三島由紀夫賞、『日本文学盛衰史』で伊藤整文学賞、『さよならクリストファー・ロビン』で谷崎潤一郎賞を受賞。
主な著書に『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』、『恋する原発』、『銀河鉄道の彼方に』、『今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史 戦後文学篇』などの小説のほか、『ぼくらの文章教室』、『ぼくらの民主主義なんだぜ』、『ぼくたちはこの国をこんなふうに愛することに決めた』、『お釈迦さま以外はみんなバカ』、『答えより問いを探して』、『一億三千万人のための『論語』教室』、『たのしい知識──ぼくらの天皇(憲法)・汝の隣人・コロナの時代』、『「ことば」に殺される前に』、『これは、アレだな』、『失われたTOKIOを求めて』、『居場所がないのがつらいです』『だいたい夫が先に死ぬ これも、アレだな』など、多数ある。

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