Nonfiction

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Photo Essay 惑星巡礼 角幡唯介

今年の羆

更新日:2021/10/27

 野生動物は人との無益な接触を避ける性質があり、三十年近く山登りをつづけてきた私も、熊と遭遇したのはほんの数えるほどしかない。ただし、その数えるほどしかない実例は、すべてここ十年以内である。とくに日高山脈では去年、今年と二年連続で目の当たりにした。
 去年見た羆(ひぐま)は、その日の行動をおえてタープを張って焚き火をおこそうとしたときに、小さな谷間の対岸の五十メートルほど先の笹藪のなかをごそごそと登っていった。今年は春別川(しゅんべつがわ)を遡行中、大きなカーブを右にまがったときに、百五十メートルほど先の河原をのそのそ歩いていた。写真は広角レンズなので小さな粒にしか見えないが、かなり大きな熊だったように思う。
 こちらに気づかずにやってくる熊にむかって、私はホーホーと裏声で警告音を出した。低い声より裏声のほうが発声が楽で、沢中の見通しの悪い場所では、いつも熊と鉢合わせしないように裏声を出している。だが、ホーホーの裏声では羆はいっこうに気づかない。そこで喉から低い声を出して「おーい、おーい」と呼びかけると、これには羆は反応し、顔をあげて、ああ、人間だ、みたいな動きで踵をかえしてゆっくりと藪に消えていった。逃げるというより、面倒な相手があらわれたので道をゆずるという感じである。仕方がなさそうな気持ちが動きからにじみ出ていた。ともあれ、人間を見たら避けたほうがいいという行動指針が、羆たちのあいだで伝承されている気配が、その動きのなかにあった。
 北海道で山登りをしている人と話をすると、羆なんて見たことがないという人が多い。もちろん山に羆がいないわけではなく、羆のほうが先に人間に気づき、場所をゆずってくれているのである。しかし私は二年連続で目撃した。糞や足跡の数から見ても、生息数は増えているのだろうとは推察される。

著者情報

角幡唯介(かくはた・ゆうすけ)

1976年北海道芦別市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大探検部OB。2010年『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』(集英社)で第8回開高健ノンフィクション賞、11年同作品で第45回大宅壮一ノンフィクション賞、第1回梅棹忠夫・山と探検文学賞。12年『雪男は向こうからやって来た』(集英社)で第31回新田次郎文学賞。13年『アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極』(集英社)で第35回講談社ノンフィクション賞。15年『探検家の日々本本』(幻冬舎)で毎日出版文化賞書評賞。

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