教養としての脳科学 茂木健一郎

第3回

記憶の不思議

更新日:2023/02/15

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1.人間の脳の幅

 人間の脳を研究する上では、その働きの「幅」が常に問題になる。

 もちろん、研究をする際、いわゆる「普通」の脳に注目することは大切である。神経学的に典型的な事例は、ある意味では脳の神経回路網の働きがもっともバランス良く機能している状態だということができる。従って、脳の働きを考える上では、統計的な分布においてもっとも中心的な位置を占める集団を考えるのが第一選択になる。

 一方、そもそも脳は原理的にどのような働きを見せ得るのかを考える上では、脳が持つ可能性をすべてその「スペクトラム」においてとらえる必要がある。

 たとえば、「記憶」は人間の脳にとって大切な機能だが、その仕組みを理解する上で、人間の持つさまざまな記憶力のタイプを把握する必要がある。世間では、記憶力のすぐれた人が頭の良い人というイメージがある。勉強ができるためには、記憶力が高い必要があるという思い込みも強い。しかし、人間の脳は私たちが日常出会う典型的な人の記憶力の範囲を超えて、驚くべき能力を示す可能性を秘めている。これらの人たちを前にすると、学校で勉強ができるとされる人たちも色褪せる。

 とりわけ、「サヴァン」と呼ばれる人たちは、異例な能力を持っている。文字列や数字、音楽など、さまざまな情報に一度接すると基本的に忘れない。その驚異的な記憶力は、通常の意味で「学校の勉強ができる」というレベルをはるかに超えてしまっている。

 私は、異例な記憶力を持つ人物何人かと会ったことがある。その中でも特に印象的だったのは、映画『レインマン』 (1988年)でダスティン・ホフマンが演じるサヴァンの主人公のモデルとなった、キム・ピーク(1951~2009年)だった。映画ではトム・クルーズが主人公の弟役を演じた。アカデミー賞の作品賞、監督賞、主演男優賞(ダスティン・ホフマン)、脚本賞に輝き、興行的にも成功した。

 2008年、テレビ番組「ザ・ベストハウス123 特別企画スゴい脳スペシャル」(同年7月2日 フジテレビ系列)の取材でアメリカのソルトレイクシティにキム・ピークとお父さんのフラン・ピークを訪問した。キム・ピークが住む郊外の住宅のドアを開けた時から数時間、その挙動を見た経験が忘れられない。

キム・ピーク

 映画の中で、ダスティン・ホフマンが演じる主人公は、人とのコミュニケーションが苦手な一方、際立った認識能力と記憶力を持つ存在として描かれている。たとえば、誤って床に落としてしまった爪楊枝の数を一瞬にして当ててしまう。レストランのウェイトレスの名札を見て、彼女の家の電話番号を即座に言う。前日に、地元の電話帳を読んで覚えてしまっていたのである。

 モデルとなったキム・ピークは、ある意味では映画よりも驚異的な能力を持つ人物だった。一部、事前の公開情報で知っていたこともあったが、本人を前に、お父さんのフラン・ピークから直接話を聞くことは貴重な機会だった。

 重い障害を持って生まれてきたキム。フランは、ある日、家にある本の一部が逆さまになって置かれていることに気づいた。どうやらキムの仕業らしい。どうしてなのかと尋ねたフランは驚愕した。なんと、キムは本を読んですべて記憶しており、「スキャン」が終わった本はその印に逆さまに置いていたというのである。こうして、キムの驚異的な記憶力が明らかになった。

 映画に描かれているように、キムの愛読書は、まさに「電話帳」であった。取材では、キム、フランといっしょに市内の図書館を訪れた。そこは、キムのお気に入りの場所だったが、一番好きな本が電話帳だという。住所と名前、電話番号が並んでいる、一般人にとっては意味のない、無味乾燥な文字列を、キムは何よりも好んだのである。

 すでに死去していることもあり、また、後に述べる理由によって、キムの異例な記憶力を支える脳の仕組みは完全には解明されていない。ただ、生まれつき左右の大脳皮質をつなぐ脳梁が欠損していたことが、その能力の発達と関係しているのではないかと考えられる。脳梁がないことで、キムの脳は左脳と右脳の機能の独立性が増し、それぞれ情報処理を行うことができた。実際、キムは、本を読む時に左目で左側のページを、右目で右側のページを同時に「スキャン」することができたのである。

 キムは日常生活で必要なことを、ほとんど自分一人ではできないと聞いた。フランと二人で暮らしていたキムは、着替えなど、さまざまな所作をフランに助けてもらっていた。そのような「サポート」があって初めて、キムの才能は開花したのである。

 キム・ピークと一緒だった時間は、私が今まで経験した中でも限りなく不思議なものだった。キムはいつも動き回り、落ち着きがなかった。そして、一つ質問すると、そこから連想されることを、延々と喋り続けた。

 確か、世界のホームラン王、王貞治さんのことを話したのだと思う。そうしたら、キムは、そのことから連想されることをずっと喋り続けた。

 その内容を正確に再現することは(私はキム・ピークではないので)不可能だが、趣旨においては、こんな感じだった。

「王貞治がハンク・アーロンの記録を抜いて通算ホームラン数の世界新記録を打ち立てたのは1977年だけれども、そう言えばその同じ年にジミー・カーターがアメリカ大統領に就任したのだった。ジミー・カーターは海軍兵学校を卒業したのだけれども、それがあるメリーランド州アナポリスは、首都ワシントンDCにもっとも近い州都だ。ワシントンD.C.を流れるポトマック川はネイティヴ・アメリカンのアルゴンキン語派の呼び名に由来するけれども、オポッサムという動物の名前もアルゴンキン語だ」

 キムは、本当に驚くべきスピードで連想の輪が広がっていってしまうのである。目の当たりにした私は驚き、あきれ、そして感動するしかなかった。私たちの日常の雑談においても、王貞治の話が、いつの間にかオポッサムに移っていってしまうことはあるかもしれない。しかし、それには時間がかかる。相槌や、感嘆符、繰り返しなどを経て、10分後くらいにはオポッサムに到達しているかもしれない。一方、キムの場合、印象としては10秒くらいのうちに、このような連想のチェーンが完成している印象だった。

 キムとの直接対話は、私に通常の認知科学のアプローチの限界について考えさせた。キムのような驚異的な能力の性質を調べようとする場合、科学者は、通常、ある一定の条件の下でその人の能力を見ようとする。場合によっては、似たような状況でどれくらい答えられるか比較したりもする。

 しかし、キムの場合、そのようなコントロールが一切できない。実験の指示をしようとしても、聞いてくれない。また、仮に何らかの方法でキムを実験条件に従わせることが可能だったとしても、それではキムの能力の最も卓越した部分が欠けてしまう。キムは、コントロールできないからこそ「凄い」のである。そして、そのようなキムの卓越した能力は、実験で測ることができない。

 キム・ピークの驚異的な記憶能力についての科学的研究がないのは、このような事情による。ご本人が亡くなってしまった今、実際にどうだったのかを知る方法はもはやない。また、そもそも個性というものは科学的研究の対象にはそぐわないのかもしれない。

 キム・ピークを取材した際、とても印象的だったのは、お父さんのフラン・ピークがいつも付き添っていて、細々とした世話やアシストをしていたことだった。話によると、服を着たり、お風呂に入るといった日常の動作にもできないことが多いということだった。キムと街に出かけるとき、フランはいつもアカデミー賞のオスカー像を持っていた。「これは、史上最も多くの人によって握られたオスカー像に違いありません」とフランは言っていた。

 フランがオスカー像を持ち歩いていたのには、理由がある。『レインマン』でも描かれていたように、キムは行動が非典型的なために、周囲の人にいぶかしがられることも多かった。そのため、フランは「この子は実は『レインマン』のモデルになったんです」と言って、周囲の人に説明していたのだという。

 キム・ピークという存在は、そもそも科学とは何なのか、実験データにはどのような意味があるのかを根底から考えさせる。果たして、統計的な真理を扱う科学は、キムのようなきわめてユニークな個別性にどのように寄り添うことができるのか? ソルトレイクシティで生まれた疑問は、今も私の胸の中にある。

2.記憶の不思議

 キム・ピークのような驚異的な能力は、人間の記憶という巨大な未知の「密林」が示しうる性質のごく一部分に過ぎない。記憶力を始めとする人間の認知能力の不思議は、私たちが想定する範囲をはるかに超えた「多様性」を示す。

 記憶の能力一般は普通の人と変わらないのに、人生のさまざまな場面でどのようなことがあったかという「エピソード記憶」だけが特異的にすぐれている「超記憶症候群」(Hyperthymesia)と呼ばれる人たちがいる。記憶を支える神経回路が単一ではなく、さまざまな異なる部分からなっていることを示す事例である。

 アメリカのクリーヴランドに住むリック・バロン(2011年に53歳で永眠)は、この超記憶症候群の人だった。2010年にやはりテレビの取材「ザ・ベストハウス123 茂木健一郎vs世界のびっくり記憶脳! 驚異の記憶超人たち壮絶人生スペシャル」(2010年9月15日 フジテレビ系列)で訪れたリックは、一人暮らしをするごく普通の中年男性に見えた。

 リックは、キム・ピークとは違って、ごく当たり前に言葉を通したコミュニケーションが可能だった。実際、もしリックが超記憶症候群のケースだと知らなければ、普通のアメリカ人だと思っていたかもしれない。

 子どもの頃から、リックは何年何月何日に何をしたかを詳細に記憶していた。たとえば、初めてピザを食べたのはいつで、コカ・コーラを飲んだのはいつで、飛行機に乗ったのはいつかを記憶していたという。しかし、それは誰でも持っている能力だと思っていたというのである。

 リックは学校では平凡で、暗記を必要とするような科目やテストもごく平均的な成績しか残せなかった。そのこともあって、自分がごく当たり前のように持っている人生のあれこれを記憶している能力が特別なものだとは気づかなかったというのである。

 リックが自分の能力が典型的なものではないと気づいたのは、メディアが「超記憶症候群」の最初のよく知られた事例、ジル・プライス(1965年~)のことを報じたのがきっかけだったという。人生のさまざまな時にどんなことがあったかを忘れない驚異的な記憶力を持つ人がいるというニュースで、リックは初めて自分の能力が「普通ではない」ことを知ったのだという。

 ジル・プライスは人生についての詳細な自伝的記憶を持ち、その著書『忘れられない脳 記憶の檻に閉じ込められた私』(バート・デービス共著 橋本碩也訳 ランダムハウス講談社2009年 ※原著は2008年刊行)でそのことを詳細に記述している。ジルは、14歳以降の人生の詳細な記憶を持っている。キム・ピークの驚異的な記憶は、彼の反応がコントロール不能であったため研究することが難しかったが、ジルは普通のやり取りが可能であり、カリフォルニア大学アーヴァイン校の研究者による調査が行われた。2008年に刊行された本は、このような経緯を受けたものである。

 私がリックを取材した2010年の時点では、「超記憶症候群」のケースはジル・プライス、リックをはじめとして全米で数件しか知られていなかった。その後事例報告は増えているようだが、依然として稀なケースであることに変わりはない。

 ジルとリックのケースが、どの程度似ているのかはより詳細な調査を経ないとわからない。私がリックを訪問した時には、いくつかのテストを行った。たとえば、リックは何年何月何日が何曜日に当たるかといういわゆる「カレンダー計算」をすることができて、テレビカメラが回っている前で実際に正確に答えた。このようなリックの記憶力が、暗記科目を始めとする学業の成績になぜ反映されなかったのかは謎である。

 リックのような能力は、他のさまざまな脳の働きと関係しているのだろうか。ジルの場合、本人は強く否定しているが、自分の人生の記録をつけ続けずにはいられない「強迫性障害」と関係しているのではないかと考える研究者もいる。つまり、自分の人生の詳細を日記のようなかたちで記録し続けずにはいられないというジルの性格傾向が、その驚異的な記憶と結びついているのではないかということである。

 リックの場合も、そのような相関する認知的傾向があるのだろうか? 私が取材当日に見た彼の家の様子には、きわだった特徴があった。まずは、部屋の中が異常なほどきれいに掃除されていたことである。まるで、ピカピカのモデルルームを見ているかのようであった。ジェンダーによるステレオタイプな見方は避けるべきだろうけれども、世間で中年男性の一人暮らしから思い浮かべる部屋の様子からはかけ離れていた。

 もうひとつ、ある意味ではさらに非典型的だったことは、部屋の中にあるものが完全に左右対称に置かれていたことである。テーブルの上のオブジェや、椅子や、花瓶などが、きれいな幾何学的秩序を持って置かれていた。ひょっとすると撮影隊が来るというので片付けたのかもしれないが、それにしてもあまりにも完璧で、むしろ息が詰まるほどだった。リックの潔癖で細部にこだわる性格が伝わってきた。ひょっとすると、そのような認知的特性が彼の「超記憶症候群」と関係していたのかもしれない。また、そのような「こだわり」が、「強迫性障害」の傾向があるジル・プライスと共通しているように見えることも興味深い。

3.無自覚な「非典型」

 脳科学は、すべての人間に共通の認知機能、能力があるということを第一仮説として研究を進める。男女の差や、年齢差なども研究対象とはなるが、やはり、普遍的な「脳」の研究に比べると二次的な関心になる。

 ところが、リック・バロンの事例からもわかるように、実際には人間の能力は多様で、実にさまざまな個性を持った人たちがいる。記憶一つをとっても、短期記憶、長期記憶、エピソード記憶(自伝的記憶)、意味記憶といったさまざまな記憶のモダリティのそれぞれについて、それぞれ、異なる発達を遂げている人たちがいる。そのすべてが、この世界における「多様性」の証しである。そして、一つひとつが、脳の機能の可能性という普遍的な問いに対する「回答」でもある。

 そして、興味深いことに、そのようなユニークな能力を持った人は、自分が統計的な「外れ値」であることに自覚的ではないことが多い。リック・バロンも、「中年」と呼ばれるような年齢になるまで、自分の人生の詳細な記憶を持っていることが特別だとは気づかなかったのである。

 リック・バロンが、自身の非典型的な記憶能力のユニークさに気づいていなかったように、神経学的に個性的な人たちの多くは、自分が例外的な存在であることを認識できない。あたかも、水の中にいる魚が水を感じないように、あるいは空気の中にいる私たちがそれを意識しないように、その人にとって自然な認知の個性は、なかなか特別なこととして認識できないのである。

 特定の数字を見ると色を感じるなど、本来独立した別々の認識の間に結びつきが生まれてしまう「共感覚」は、非典型的な脳の個性の一つである。通常、たとえば「7」という数字は抽象的な概念であり、特定の色とは結びついていない。「7」が赤で書かれていても、青でも、黄色でも、典型的な認知の人にとっては変わりがない。

 ところが、「7」という数字が、常に「青」の色とともに感じられる共感覚の人にとっては、数字と色の結びつきは任意ではない。むしろ、「7」が赤や黄色で書かれていると、それは自然ではなくなってしまう。その人の固有の共感覚と矛盾する数字と色の組合せで表現されていると、その数字の処理が遅れてしまうのである。

 脳科学をめぐっては世間では不思議な現象が起こっていて、神経科学的に非典型的な人が特別な才能がある存在として称賛されることもある。そのようなご時世もあって、時には、ある人が「共感覚」を持っているということが望ましいことのように見られることもある。共感覚を持っていると、その人がこの世界の中でユニークな存在であるかのように感じられるのである。

 すると、場合によっては、敢えて「私は共感覚を持っています」と主張するケースもあるかもしれない。そのような時に、本当にその人が共感覚を持っているかどうかを検証する方法がなくてはならない。

 ある被験者が共感覚を持っていることを客観的に確認する方法として、「ストループ課題」がある。もともと、アメリカの心理学者ジョン・ストループ(1897年~1973年)によって考案されたこのテストは、たとえば、色の名前(「赤」、「青」、「黄」、「緑」)がその指し示す「意味」と一致する「色」で示されている場合と(例:「赤」という文字が赤いインクで書かれている)、一致しない色で示されている場合(例:「赤」という文字が青いインクで書かれている)で、正答率や反応時間がどれくらい変わるかをテストするものである。文字の意味とインクの色が一致していない場合には、正答率が下がったり、反応時間が長くなったりする。

 共感覚のストループ課題では、例えば「7」という数字を、いろいろな色で表示する。神経学的に典型的な被験者の場合、「7」が何色で提示されていても、正答率や反応時間は変わらない。一方、「7」という数字が青く見えるという共感覚の持ち主の場合、その人にとって自然な色(青)で「7」が書かれているケースと、不自然な色(赤や黄や緑)で書かれている場合では、正答率や反応時間が有意に異なる。こうして、「あなたは共感覚を持っていますか?」と直接聞くのとは異なる方法で、ある人が共感覚者であることを検証することができるのである。

 もちろん、ある人が、自分が共感覚者であると偽りの印象を与えようとして、正答率や反応時間をフェイクする可能性もある。しかし、そこまで細かい統計的な傾向を偽装するのは実際には困難である。したがって、このようなテストはある人が共感覚者であることを実際に示すものと見なされる。

4.努力によって非典型の能力を獲得する

 時には、意識的な努力を通して非典型な脳が生み出されることもある。

 記憶の能力を競うメモリースポーツの代表的な大会、世界記憶力選手権は、10の種目からなる。1時間の中でランダムな数字を覚えること。5分間でできるだけの数を覚えること。1秒に一つずつ読み上げられる数字を覚えること。0と1からなる文字列を、30分以内で覚えること。1時間のうちに、できるだけ多くのトランプのカードを覚えること。15分以内で、ランダムな単語の列を覚えること。15分以内で、名前と顔を覚えること。5分以内で、歴史的出来事の起こった年号を覚えること。5分間でできるだけ多くの写真の並びを覚えること。そして、ランダムにシャッフルされたトランプのカードをできるだけ早く覚えること(「スピードカード」)。

 さまざまな競技の中でも「花形」と言えるのは、必ず最後に行われる「スピードカード」で、現在の世界記録は12.74秒で52枚のカードの順番を覚えた2018年の大会の一つでのモンゴル選手のパフォーマンスで、驚異としか言いようがない。

 2004年と2008年、2009年の二年連続で世界記憶力選手権の優勝を遂げたベン・プリドモア(1976年~)をイギリスで取材したことがある。ベンは会計士で、私が取材した2010年時点では大手スーパーで働いていた。

 ベンは、もともと特に注目すべき記憶の力は持っていなかったのだという。しかし、あるきっかけによって、世界記憶力選手権のことを知るようになった。それから、一念発起して、記憶力を鍛える訓練をした。そして、世界記憶力選手権のチャンピオンになった。

 中でも、スピードカードは、ベンが最も力を入れた種目の一つだった。ランダムに並んだ52枚のカードの順番を記憶するということは、人間の能力の限界に挑戦することである。人間の脳には大きな可塑性があり、さまざまな限界もある。その限界を超えるためには、かなりの犠牲を払わなければならない。

 ベンは、来る日も来る日も、スピードカードを記憶するために努力したのだという。ベンは、カードの順番を記憶するために、驚くべき手段に出た。カードを順番に2枚ずつのペアに分け、52×51=2652通りの組み合わせそれぞれに、自ら決めたルールで一つずつイメージを割り当て、それを憶え込んだのである。そして競技では、52枚の順番を覚えるために、26組、26のイメージをまずは頭の中に入れる。次に、それらのイメージを動画のように並べて、一つの物語をつくる。

 たとえば、最初の5組、5×2=10枚のカードがそれぞれ「あひる」、「木」、「湖」、「オートバイ」、「虹」というイメージに結びつくとすれば、ベンは、「アヒルが木で遊んでいる。湖のほとりにオートバイが停まっていてその上に虹が出ている」というように脳内変換し、それに対応する映像が記憶されるのである。後は、その記憶している26のイメージが連続した映像から、26×2=52枚のカードの順番を再現して、正解すればいいということになる。

 このように書いているだけでも煩雑な認知プロセスを獲得するために、ベンは日夜努力を続けた。インタビューした際には、72時間ずっとトレーニングをしていたこともあると言っていた。もともと、ベンが記憶をする上で特別な資質を持っていたかどうかはわからない。しかし、少なくとも、超人的な努力を継続する能力を持っていたことは確かである。

 その結果、ベンは世界記憶力選手権を三度制覇するだけの実力をつけた。現代においては、それは一つの壮大な「徒労」だとも言える。スピードカードに限らず、問われているのは今のデジタルコンピュータならば簡単にできる課題ばかりである。人工知能が発達し、コンピュータと人間の共存のあり方が進化している現代において、このような能力を身につけることに果たしてどのような意味があるのか、疑問を持つ人も多いだろう。

 とにかく、ベンは努力することを選び、そしてそれを達成した。そのことは、人間の可能性を広げるという意味で、素晴らしいことではなかったか。世界記憶力選手権は、将棋や囲碁と同じように、頭脳スポーツである。たとえ、今では記憶の量とスピードにおいてコンピュータや人工知能の方が人間をはるかに凌駕することがわかっていたとしても、生身の人間が脳を用いてパフォーマンスすることに価値がある。

 もっとも、特定の能力に集中して徹底的に伸ばすことは、つまりは脳の使い方のバランスを失うことでもある。脳の神経細胞の回路の計算的容量は有限であり、ある使い方を立てれば、別の機能が失われることになる。

 ベンの場合、スピードカードのような記憶課題の鍛錬への徹底した傾倒が、日常生活の一部分を破綻させているようだった。

 取材当日、郊外の住宅地にあるベンの家を訪れて、スピードカードの訓練に使っているという部屋を訪れた私と取材班は、様子をひと目見て絶句した。日本にも、片付いていない家や部屋はあるだろう。「ゴミ屋敷」と呼ばれるほどひどいケースもある。しかし、そのような事例と比較しても、私たちが目にしたベンの部屋は想像を絶していた。

 床の上に、雑誌や本が、高さ数十センチの厚さで散乱している。しかも、あちらこちらで「雪崩」を起こしている。結果として、文字通り「足の踏み場もない」状態になっていて、部屋に入ろうにも、どこを歩いていいのかわからないありさまだった。

 それにもかかわらず、ベンは全く動じている様子がなかった。カメラクルーが、部屋の入り口で呆然として立ち尽くし、これじゃあ諦めるしかないという素振りをしている時にも、なぜ入って来ないのかと純粋に疑問に思っている風だった。その堂々とした様子に、逆に感動するほどだった。

 普通に考えて、他人が家に来る時には少しは片付ける素振りを見せるはずだ。しかも、遠く日本からテレビの取材が来るのである。普段どんな状況であれ、体裁を整えようとするのではないか。

 しかし、ベンはそれをしなかった。なぜか? 考えられる説明は、世界記憶力選手権の課題にあまりにも集中していたがために、それ以外のことはどうでもよくなってしまったということである。その結果として、ベンは、非典型な「変人」になった。おそらくは最初からそういう人だったのではない。過度の集中を通して、ベンの脳はバランスを崩し先鋭化していったのである。

 ベンの部屋を見て、私は、ケンブリッジ大学教授のブライアン・ジョセフソン(1940年~)の部屋のことを思い出していた。二十代半ばに大学の卒業論文で提案した「ジョセフソン素子」の業績により33歳でノーベル物理学賞を受けたジョセフソンは、その後、テレパシーや透視を扱う超心理学に興味を移した。私が1995年から1997年にかけてケンブリッジに留学していた当時は、すっかり「変人」の「天才」というイメージになっていた。

 科学者は、時に、超心理学のような標準的な世界理解から外れたテーマに対して距離を置いたり、敬遠したりしがちなものである。しかし、万有引力のアイザック・ニュートンや、DNAの二重らせん構造を解明したフランシス・クリックとジェームズ・ワトソンを生み出したケンブリッジは、さすがに懐が深かった。ジョセフソンの超心理学に関する見解に同意する人は少数派だったが、その意見はフラットに聞こうという姿勢が見られたのである。

 特に印象的だったのが、私が留学している時にジョセフソンがケンブリッジ大学内で行った講演会に、1963年にノーベル生理学・医学賞を受けたアンドリュー・ハクスレー(1917~2012年)が来て、最前列に座ったことである。名門ハクスレー家の出で、学問についても保守本流の中心にいたその人が、食い入るようにジョセフソンの話を聞いていたのは感動的な光景だった。

 ジョセフソンは、天才であると同時に、努力の人である。自分がその時々に興味を持っている問題に、全力で取り組む。その結果として、まるで森の妖精のような人柄を生み出していた。生涯ずっと困難なことを考え続けている人の表情だった。

 私が留学していた当時、ジョセフソンはケンブリッジ大学内の卓越の中心の一つであるキャベンディッシュ研究所にオフィスを持っていた。一度、ジョセフソンの部屋を訪問したことがある。そこに広がっていたのは、想像を絶する光景だった。

 部屋の中に、ぎっしりと本や論文が積み上げられていた。床にはもちろん、机の上も、隙間がないほどにさまざまな資料が山積していた。ベンの部屋と異なっていたのは、ジョセフソンの資料の積み上げ方は整然としていて、雪崩は一切なかったことである。

 資料の山の中で、ただ一箇所、マッキントッシュ・コンピュータの前にだけスペースができていた。キーボードの前、だいたい30センチ四方の空間だけが空いていたのである。ジョセフソンは、どうやらそこで仕事をしているらしかった。

 ジョセフソンの部屋の様子から伝わってきたのは、その、極度に集中した生活だった。考えること以外はすべて放棄して、整理整頓のようなことにエネルギーを使わない。ただ、実質的に仕事をするための、コンピュータの前のスペースだけは空けておく。

 それは、物理の中でも最も深遠とも言える「量子力学」の効果を用いた画期的な仕組みで、自身の名前がついた「ジョセフソン素子」を考案した人にいかにもふさわしい「選択」と「集中」の光景であった。

5.ムーアの法則と人工知能

 ベン・プリドモアやブライアン・ジョセフソンのように、記憶術や科学の分野で卓越した能力を見せる個人は興味深い。一方、ごく平凡な人でも、人間の脳の能力は十分に驚異的だと言うこともできる。

 コンピュータの世界では、集積回路がより細かい線幅で製造されることに伴って、メモリの容量が継続的に増加している。インテルの共同創業者であるゴードン・ムーア(1929年~)が、回路の集積度が1年ごとに2倍になると予言したのは1965年のこと。その後、「2年ごとに2倍になる」に修正したが、いずれにせよ、一定時間ごとに集積度が指数関数的に増えていくという「ムーアの法則」は、以来、半導体産業のイノベーションによって実現、維持されてきた。「ムーアの法則はいつか限界を迎える」と懸念されてきたが、その度にその「壁」が打ち破られてきた。

 2015年に書かれたムーアの法則のさまざまな限界を分析する論文(米国半導体工業会[SIA]「半導体国際ロードマップ」[2015年])では、その時点から30年から40年後、すなわち、2045年から2055年あたりに限界を迎えるのではないかと結論している。もっとも、今後どのような物理的な「計算」の方法が開発されるかわからず、ムーアの法則の終焉はまだはっきりと視野に入ってこない。

 半導体の集積度が上がることで記憶容量が増したり、計算が速く行われることには本質的なメリットがある。近年さまざまな驚異的な進化を遂げている人工知能の性能は、数学的手法やアルゴリズムの改善に加えて、ムーアの法則によって支えられていると言ってよい。

 将棋の藤井聡太が、ある時コンピュータを自作すると言って話題になった。通常の市販のコンピュータは、価格のだいたい10%程度がCPU(中央処理ユニット)に割り当てられているとされる。すると、たとえば30万円のコンピュータだと、CPUは3万円程度のものを使っているということになる。

 これに対して、藤井は、数十万円のCPUを用いてコンピュータを作ると報じられた。もし市販価格の上の目安を単純に割り当てると数百万になる。実際には、コンピュータを構成する他のパーツがそれほど高くなるわけではないので価格は抑えられるだろうが、いずれにせよ、売り出しても高すぎて需要がないかもしれないような「モンスターコンピュータ」を藤井は作ろうとしていたのである。

 なぜ、藤井はそのようなコンピュータの製作を考えたのか。現代将棋では、棋士たちは人工知能のソフトで指し手を研究するのが必須になっている。かつては七冠を誇った無敵の存在で、その後の時間の流れの中でついに無冠となり、勝率も低迷していた羽生善治が、藤井聡太に挑むことになった棋王戦挑戦者決定トーナメントの対局(第48期棋王戦コナミグループ杯挑戦者決定トーナメント敗者復活戦 藤井聡太竜王 対 羽生善治九段 2022年12月8日)が話題になったが、年齢を考えれば劇的な羽生の復活の背後に人工知能のソフトの活用があるとも言われる。羽生は、もともと藤井世代のように人工知能を活用することに消極的だったのだが、姿勢を転じて積極的にソフトを用いることにしたのである。

 将棋の人工知能のソフトでは、アルゴリズムに基づいて指し手を探索する。できるだけたくさんの可能性を、さまざまな分岐を経て検索することで、より良い指し手を見出すことができる。

 同じアルゴリズムでも、CPUのパワーが改善されてメモリが大きくなり、計算が速くなると、それだけ将棋ソフトも強くなる。棋士が勉強する際に参考にする人工知能の指し手も、より高度化する。

 近年になって、英語や日本語などの「自然言語」、そして画像や動画を処理する人工知能の性能が劇的に改善された背景には、CPUのパワーの増大、すなわちムーアの法則がある。もちろん、背景にある数理モデルやアルゴリズムの改良も大きいが、その動作を支えるのはやはりムーアの法則に従う半導体の性能の改善である。

 今後も、先に引用した論文が予想するように2045年から2055年あたりまで半導体の性能向上が続くとすれば、人工知能の機能の改善も続くことになる。技術研究者のレイ・カーツワイル(1948年~)を始めとする何人かの論者は、2045年あたりに人工知能がシンギュラリティ(人類の知性を遥かに超える爆発的発展)を迎えると予想する。それに伴って人類は劇的な進化を遂げるとともに、存在論的危機を迎えるともされる。シンギュラリティの定義についてはさまざまな議論があり、また、関連する技術のこれからもかんたんには見通せない。いずれにせよ、今後20年あまりの半導体の性能向上と人工知能の機能の改善には、重大な関心を寄せ続ける必要があるだろう。

レイ・カーツワイル
©polaris amanaimages

 ムーアの法則に象徴される半導体の能力の量的な拡大が、人工知能の質的な改善につながる時代。それに伴い、大量の計算資源を用いて、高速なCPUを駆使して行われる現代の人工知能研究が次第に「課金ゲーム」になっていることも確かである。すぐれた斬新なアイデアで画期的な人工知能の機能を実現するというよりは、物量作戦で、いわば力ずくで新機能を生み出している傾向があることは否定できない。

 将棋の加藤一二三は現役時代、対局中の昼食にうなぎを食べることで有名だった。その食事のカロリーだけで、長時間将棋を指せる人間の脳は、エネルギー効率という視点から見ればやはり卓越している。実際、今後の人工知能の社会的実装の鍵は、人間の脳という資源をいかに効率よく使うかという点にあるという論文もある。

6.人間の脳の潜在能力

 人間の脳の記憶容量はどの程度なのだろうか? 2015年に発表された電子顕微鏡を用いた脳の神経回路の構造の再現研究によると、神経細胞をつなぐシナプス結合には少なくとも26の異なる強さの段階があり、そのことを考慮するとシナプスごとに4.7ビットの情報を貯蔵できることになる。

 人間の脳は、ムーアの法則のように一定期間ごとにその性能が2倍になるというわけにはいかない。しかし、人間の脳には未だ使われていない潜在能力があるという考え方は根強く存在する。

「意識の流れ」などの概念を提唱し、後世に影響を与えた卓越した心理学者だったアメリカのウィリアム・ジェームズ(1842~1910年)は、人間の脳の潜在能力はまだまだ使われていないと論じた。当時、神童として有名だったウィリアム・サイディス(1898~1944年)の調査から、膨大な潜在能力があるという考え方に至ったのである。

 サイディスは、生後18ヶ月で『ニューヨーク・タイムズ』を読むことができた。11歳でハーバード大学に入学し、25の言語、及び方言で話すことができた。それだけでなく、自分自身の架空の言語も生み出した。ネイティヴ・アメリカンのアメリカの民主主義への貢献を論じた文章を書き、この宇宙の中には地球上とは逆方向の時間に熱力学の第二法則が働く領域があるという予言をした。すなわち、地球上では時間とともにエントロピーが増大するのに対して、エントロピーが減少する領域があると主張したのである。

 多くの神童がそうであるように、サイディスもまた、人類の歴史に残るような偉大な業績を残したとは言い難い。その一方で、サイディスの存在が、ジェームズに人間の潜在能力についてのインスピレーションを与えたことも事実である。

 ジェームズ自身は、人間の脳の潜在能力のどれくらいが使われていないか、具体的に数字を挙げて論じることはなかった。時代が流れて、日本でもベストセラーとなったデール・カーネギー(1888~1955年)の『人を動かす』(初版1936年)の序文の中で、著名な映画・放送プロデューサー、著述家のローウェル・トーマス(1892~1981年)が、「ウィリアム・ジェームズ教授も言っていたように、人間の脳の能力はその10%も使われていない」と書いたことで、「人間の脳は10%しか使われていない」という俗説が広く流布されるようになったとされるが、科学的な根拠があるわけではない。私自身も、何度も、この点についての質問を受けたことがある。「10%」には根拠がないが、しかし人間の脳に潜在能力があることは確かなのである。

 近年になっても、人間の脳の潜在能力に注目し、それを解放しようという研究の事例がある。

 オーストラリアのシドニー大学で人間の認知能力の研究を続けているアラン・スナイダー博士(1942年~)は、人間には無意識に驚異的な能力があり、それが普段は抑制されているだけだという考え方から一連の実験を行った。スナイダーは、経頭蓋磁気刺激(TMS)と呼ばれる方法で、脳の前頭葉の一部の活動を抑えることで、キム・ピークのようなサヴァンの能力を引き出すことができると考えたのである。

 絵を描く時、私たちはたとえば花を見ると「花」という概念に基づいて対象をとらえて、それを表現しようとする。その結果、概念ではとらえきれない細部を見落としてしまったり、描けなかったりする。

 サヴァンと呼ばれる人たちの中には、一瞬見た像をその細部まで再現できる事例がある。有名なのは「ナディア」と呼ばれる女の子のケースで、3歳くらいから、たとえば走っている馬を見た後、細部までその様子を再現することができた。その描きぶりは、レオナルド・ダ・ヴィンチよりもむしろ見事だと思えるほどである。

 ナディアは自閉症と診断されていた。ナディアと神経学的に典型的な人の差は、たとえば馬を見た時に、「馬」という概念を形成して細部を捨ててしまうか、それとも細部に注意を向け続けるかという点にあると考えられる。典型的な人たちは、「馬」などの概念を獲得してそれに基づいて思考することができる。一方、ナディアは、あくまでも細部に注意を向け続けるので、概念や言葉でコミュニケーションをすることは苦手だけれども、詳細な部分まで描き込んだ絵を生み出すことができる。

 スナイダーは、TMSで概念の操作を行う前頭葉の活動を抑えることで、細部に注意を向ける無意識の脳活動に対する抑制を外すことができると考えた。この「脱抑制」のメカニズムを通して、普段は抑制されているナディアのようなサヴァン類似の絵を描く能力を引き出せると考えたのである。

 私自身、シドニーのスナイダーの研究室で自分の脳にTMSの刺激を受けて絵を描く実験をしたことがある。「今私はTMSを受けているから細部に注意を向けた絵が描けるはずだ」という思い込みによる効果を避けるために、全く同じ実験条件で、一方は実際にTMSをかけ、もうひとつはかけていない2つの条件を比較した。どれくらい細部が描けているかという定量的評価は難しいが、自分で描いた絵を見る限り、TMSをかけた方はやや細部にまで注意が行き届いているように見えた。

 スナイダーは、また、TMSをかけた条件とそうでない場合とで、空間内に散らばっているアイテムの数を瞬時に把握できる能力が向上するかどうかを検証した。ちょうど、キム・ピークをモデルとした映画『レインマン』で、主人公が誤って落としてしまった爪楊枝の数を一瞬にして当てたシーンのような能力を検証しようとしたのである。その結果、TMSをかけた(すなわち、前頭葉の活動を抑制することで、無意識の情報処理を脱抑制した)条件の方が、被験者が数を把握する能力が統計的に有意に向上したと報告している。

 言うまでもなく、脳の神経細胞の活動は複雑であり、繊細なバランスの上に成り立っている。TMSを用いた実験は医学的見地からさまざまな注意を払い、実験実施においては倫理委員会を通し、被験者からはインフォームドコンセントを得て慎重に行われている。そのような「安全」な領域を超えて、実際にサヴァンのような潜在能力を引き出すまで強い程度に前頭葉を抑制したら、脳に短期的、長期的にどのような影響をもたらすかわからない。

 ジェームズの言うように、人間の脳にはまだまだ驚くべき潜在能力が秘められているのかもしれない。しかし、それを引き出すための方法はまだ知られていない。サヴァンや天才たちの事績を通して、実際に脳の潜在能力が発揮された場合の成果を知ることができるだけである。

7.テクノロジーによる脳の能力の進化と退化

 人間の脳の潜在能力は驚くべきものである。そして、文明史的には、人間は、自分たちの脳単独というよりは、人工知能や情報関連技術といったさまざまなテクノロジーを中心とした外部記憶装置、情報処理装置を通してその能力を拡張する時期に来ているように見える。

 将棋の棋士たちが、人工知能を用いて自分たちの棋力を向上させているのはその一例である。ロンドンに拠点を持つディープマインド社の「アルファゼロ」などの人工知能に人間はもはや勝てない。しかし、生身の人間の脳が、将棋を指す能力を人工知能をうまく利用することで進化させる道筋は、むしろこれから開けていくものと思われる。

 一般に、人工知能や情報関連技術の発達によって、脳の機能が補足され、フィードバック回路を通して脳に還元されて認知機能が高まっていく可能性がこれから注目される。学習や創造的プロセスのアシストが進んで、脳の働きがこれまでにない段階に進化していくことも想定される。

 スペースXやテスラなどの経営で知られ、ツイッターも買収したことで注目されるイーロン・マスク(1971年~)が提案している「ニューラリンク」は、微小な電極を脳に刺して神経細胞の活動を計測するとともに、神経細胞を刺激してインプット、アウトプットに用いようという構想である。いわゆるブレインマシンインターフェイス(BMI)の分野の研究テーマだ。マスクは、ニューラリンクの説明で、外国語を学ばなくても辞書を外付けで増設することで理解できるようになるなどと説明しているが、実際には実現するのは難しいかもしれない。

 ニューラリンクの構想は、「ホワイトペーパー」の形式で書かれている。ホワイトペーパーとは、もともと日本語で言えば「白書」だが、これはある技術的テーマについて、問題の分析と適用可能なテクノロジー、それに解決すべき課題などを俯瞰的に記述したものである。マスクは、以前にも、地上を時速1000キロメートル以上で走行するシステム、「ハイパーループ」のホワイトペーパーを発表している。これらのホワイトペーパーは、通常の科学論文の形式をとっているが、査読などの手続きを経ずに、いきなりネット上にPDFファイルなどの形式でアップロードされるのである。

ホワイトペーパー冒頭。タイトルと要旨

 このようなホワイトペーパーの文化は、人工知能や情報関連技術などの分野において、ある研究計画を提案したり、あるいはスタートアップ企業が事業計画を公表して出資者を募る際の標準的な方式になりつつある。近年におけるホワイトペーパーで最も大きな影響をもたらしたものの一つは、「サトシ・ナカモト」という著者名で2008年に公表されたビットコインに関する論文だろう。ブロックチェーン上でトークンを構築する方法を記述したこの論文は、今日に至る仮想通貨、暗号資産をめぐるさまざまな社会的動きの先がけとなった。

 今後、人間の脳の機能の拡張についてどのような構想が提案され、実装されていくかはわからない。いずれにせよ、さまざまなホワイトペーパーがこれからも書かれ、多くの人やたくさんのエネルギーを巻き込んで発展していくことだろう。

 科学技術の進歩は脳の機能の改善をうながすと同時に、一方では脳機能の退化をももたらす。それは、私たちが日常で経験するところでもあるが、実験でも裏付けられている。

 ある情報に接した時に、後にグーグルで検索できるとあらかじめ認識していると、関連する記憶の成績が有意に悪くなるという「グーグル効果」の論文は話題を呼んだ。また、美術鑑賞の際、作品の写真を撮った時には撮らない時に比べて有意に記憶が劣化することも示されている。

 脳のリソースは有限であり、必要なことにフォーカスするのはある意味では当然だと言える。これから人工知能が発達するにつれて、脳の機能のある部分は促進され、別の部分は退化していくことだろう。

 世界記憶力選手権のチャンピオン、ベン・プリドモアのように、ある特定のことに集中した時、人間の脳は驚くべき潜在能力を見せる。ブライアン・ジョセフソンのように、ノーベル賞級の発見もできる。一方で、そのことによって抜け落ちていく機能もある。たとえば部屋が片付けられなくなる。人工知能時代、私たちはみんながベン・プリドモアになり、ブライアン・ジョセフソンになるのかもしれない。

 これからの時代の人工知能と人間の脳の共生のあり方はきわめて興味深い。たとえば、文字列を与えるとそれに合致する絵や写真、動画を生成する人工知能を用いて、誰でも「監督」としてアニメや実写映画をつくれるかもしれない。文章を自動生成する人工知能によって、物語やエッセイを人間が「ディレクション」するような未来図があるかもしれない。私が今書いているこのような文章も、将来には人工知能と人間の共作によって生み出されるようになるかもしれない。

 人間の脳は、環境という「器」によって自由に形を変える「水」のような存在である。これから私たちの脳はどのように変化していくのだろうか。

8.世界と記憶

 ところで、人間の「記憶」のあり方は、世界がそもそもどう成り立っているかという理解に重大な影響を与える。記憶と世界の関係についての興味深い命題を提出したのは、一人の独創的な思索者だった。

 イギリスの数学者、哲学者であるバートランド・ラッセル(1872~1970年)は、さまざまな深い思考で知られた人だった。「ラッセルのパラドックス」は、記号やシンボルで数学の基礎をつくろうという試みに深刻な打撃を与えた。

「A」という集合を、「自分自身を含まないようなすべての集合の集合」と定義したとする。このようないかにも簡単な言明が、数学を根底から崩すような矛盾を導くことを示したのである。もしAがAに含まれるとすると、定義により、AはAに含まれない。もし、AがAに含まれないとすると、定義により、AはAに含まれることになる。こうして、集合Aについて矛盾が生じる。

 このようなパラドックスは興味深いが、「屁理屈」のようなものだと考える人がいるかもしれない。しかし、「すべての」「含まれる」「含まれない」などの、集合論では最も基本的な記号をつかって、ごく簡単な命題を構成した時に、その中に容易に矛盾が導入されてしまうということは、きわめて深刻な事態であると言えた。ドイツの数学者ダーヴィッド・ヒルベルト(1862~1943年)に始まる数学の形式化という現代的な取り組みが、崩壊しかねないのである。

 ラッセルは、この矛盾を解消するために「型理論」を構成した。さらに、ラッセル以外の数学者も解決に乗り出した。「集合論」に加えて、「圏論」などの取り組みと合わせ、数学の基礎を形式的に記述しようという試みはあるが、未だにすっきりとした解決はない。この問題は、そもそも記号やシンボルが何を指し示すのかという「意味論」や、意識の中で感じられるさまざまな質感(クオリア)の本質にもつながっていて、簡単な解決がない。

 数学の形式化という現代的な思考の形式の根底を揺らしたラッセル。リベラルな思想家として生涯独立の精神を保ち、ノーベル文学賞を受ける一方で、四十代に反戦運動で、そして89歳で核政策に抗議する座り込みで、二度投獄されたりもした。そのラッセルが、記憶と世界の関係を考える上で論じたのが、1921年に刊行された著書“The Analysis of Mind”(『心の分析』竹尾治一郎訳 勁草書房 1993年)の中で触れられた「世界5分前仮説」である。

 私たちは素朴に、世界はずっと以前から存在し続けていると思っている。しかし、私たちのそのような知覚は、この世界が、5分前にそれまでのすべての記憶とともに創造されたとしても、区別はできないだろう。ここで言う「5分」は、どんな時間でもいい。私たちが認識する世界が、「今、ここ」の感覚と、これまでの記憶から成り立っている以上、「世界は5分前に作られた」という仮説を簡単には否定できないことになる。

「世界5分前仮説」は、そもそも時間とは何か、記憶とは何かという根幹の問題に触れる。以上に議論してきたような記憶のより実際的な様相も、このような問題群と無関係ではない。

「世界5分前仮説」は、集合論における「ラッセルのパラドックス」と同様、一見素朴で単純な異議申し立てのように思われる。しかし、そこからこの世界の「深淵」が見える。私たちの記憶がその深淵に至る黒々とした「穴」の「門番」をしている。

 

著者プロフィール

茂木 健一郎 (もぎ けんいちろう)

1962年東京生まれ。東京大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理学博士。脳科学者。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経てソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。「クオリア」(感覚の質感)をキーワードに脳と心の関係を研究するとともに、評論、小説などにも取り組む。2005年『脳と仮想』(新潮社)で第4回小林秀雄賞を受賞。2009年『今、ここからすべての場所へ』(筑摩書房)で第12回桑原武夫学芸賞を受賞。著書に『生命と偶有性』(新潮選書)、『記憶の森を育てる 意識と人工知能』(集英社)、『クオリアと人工意識』(講談社現代新書)ほか多数。

著者近影/中野義樹
タイトル背景/sugimura mitsutoshi/Nature Production /amanaimages

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