教養としての脳科学 茂木健一郎

第1回

脳の複雑さ

更新日:2022/07/26

1.自由になるための脳科学

 私は、しばらく前から一つの質問を繰り返し受けて、そのたびに困ってきていた。
「脳科学の本を、なにか一冊推薦してください」
 そう言われても、なかなか自信を持って推薦できるものがなかったのである。

 しかも、これぞという脳の本がないのは、日本語の著作だけでなく、英語の出版界を見ても、同じような状況であるように思われた。

 もちろん、アカデミックな本としてはすぐれたものがある。たとえば、脳科学の研究を始める人がみな読むと言っても良いエリック・カンデルらが編集した『Principles of Neural Science』(1981年)は、唯一無二の教科書として知られている。カンデルは、アメフラシの神経ネットワークにおける記憶のメカニズムを解明して2000年にノーベル生理学・医学賞を受けたが、同時に、世間で「カンデル」と愛称されるこの教科書を編集したことが偉大な功績とされている。

 大学院に入った学生さんは、だいたい、神経科学の研究を始めるときにまずは「カンデル」から読み始める。枕にするにはやや背が高いくらい厚く、片手で持つと落としそうになるくらい重い。漬物石にも使えそうだ。神経科学への入門者は、カンデルと出会って、学問の「重み」を身体で感じるのだろう。

 しかし、「カンデル」は脳科学に興味を持つ一般の方に勧められるような代物ではない。値段も高い。英語版は第6版が2021年に出ているが、翻訳するのは大変な作業で、日本語版『カンデル神経科学』が出たのは2014年である。アップトゥデイトな内容に触れようと思ったら、英語に本格的に取り組まなくてはならない。研究者の卵にとっては当然の行為だが、一般にはハードルが高いだろう。

 さらに言えば、次に述べるような意味で、「カンデル」でさえ、現代における脳科学の本としては十分ではないと言える。むしろ、大いに不足である。

「カンデル」は、どちらかと言えば生物学的な視点から脳の機能や仕組みを解き明かしている。そのことは、とても大切な視点である。

 しかし、人間の「脳」をとらえる上で、生物学的な視点は重要ではあるが、唯一の観点ではない。議論の余地はあるだろうが、おそらくは最高の視点でも、最も深みのある視点でもない。脳を理解する上では、生物学に加えて、たとえば、認知科学、心理学、情報科学、コンピュータサイエンス、社会学、ネットワークサイエンス、物理学、化学、熱力学、言語学などの学問領域が参照されなければならない。これらの学問分野は、残念ながら、「カンデル」ではカバーされていない。さらには芸術も関係してくるかもしれない。

 ノーベル賞受賞者が編集したスタンダードな本でさえ、不足である。なぜ、脳についての適切な「一冊の入門書」は存在しないのだろうか? それは、脳をめぐる探究が、未だ名付け得ない未知の視点、世界観、方法論に着地しなければならないからだろう。

『カンデル神経科学』Eric R. Kandel他編 金澤一郎他日本語版監修 メディカル・サイエンス・インターナショナル 2014年

 哲学者のルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインは、死後に出版された『哲学探究』の中で、言葉の意味や、意識の性質など、人間にとっての知のフロンティアに取り組んだ。前期の偉業である『論理哲学論考』では、世界や存在についてのさまざまな命題を並べたあとで、最後に、「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」と結んだ。後期ヴィトゲンシュタインは、まるで、その「語り得ぬもの」について「沈黙」せず模索する行為であったように思われる。

 脳を理解しようと試みることは、ヴィトゲンシュタインの探究に似ている。現時点で語り得ぬものをも、語るように努力しなければならない。
 もちろん、「カンデル」の立場は、ある意味では正しい。脳を理解することは、確かに、「生物学」の領域である。忘れてはいけない出発点である。しかし、それがすべてではない。

 脳のことをきちんと話そうと思ったら、総合知を忘れてはいけない。それは、つまりは究極の「教養」である。

 脳を知るということは、人間を知るということだろう。

 かつて、私は35歳の時に『生きて死ぬ私』というエッセイを出した。

 その冒頭にある「本気になること」という文章の中で、私は、福岡県の飯塚市で行われた国際学会の夜の「飲み会」のことを書いた。たまたま入った店で、二人の先輩研究者と出会い、コロナビールを飲みながらいろいろとお話ししたのである。

 大学院を出て、脳の研究を始めたばかりで、まだまだ様子がわからなかった私。初めて参加した「神経回路網」を研究する学会で、少し酔った頭に二人の碩学たちの言葉がしみ込んでいった。

「脳を研究する人は、人間を扱っているのだということを忘れては駄目だよね。冗談じゃない。人間の喜びも、悲しみも、すべての感情は、脳の中にあるんだ。人生のすべては、脳の中にあるんだ。それを忘れちゃいけない。」(『生きて死ぬ私』より引用)
 その時お話ししたのは、相澤洋二さん(早稲田大学)と、合原一幸さん(当時は東京電機大学、後に東京大学)だった。


 人間や世界のあり方を理解するための、「教養としての脳科学」というものがあって良いと思う。これから、21世紀の人間にとっての、「教養としての脳科学」を追求していきたい。

 ここで、教養と言っても、余裕のある趣味という意味ではない。教養に当たる英語は、「リベラルアーツ」、つまりは、自由になるための技術、ないしは芸術である。
 今日の世界は混迷を深めている。一人ひとりの人間が置かれている状況も厳しい。そんな中で、どうしたら、自由になれるのか。自分たちの成り立ちを深く知ることは、自由への道であろう。

 人間は、果たして自分の未来を決定する「自由意志」を持つのだろうか? 科学的な立場からは、否定されざるを得ないと言われている。自由意志は、脳がつくりだした最大の「幻想」であるともされる。実際には自由ではないのだけれども、自由であるという幻想を抱いているというわけである。

 たとえ、幻想であったとしても、私たちには自由が必要である。哲学者のダニエル・デネットは、「自由は私たちが呼吸する空気だ」と看破した(『自由は進化する』山形浩生訳 NTT出版 2005年)。次第に不自由になっていくようにも見える世界の中で、私たちは、「教養としての脳科学」を「自由」という「空気」の製造装置としたい。
 では、脳をめぐる驚くべき旅に出ることにしよう。

(なお、この連載「教養としての脳科学」の構成は、東京大学大学院広域科学専攻[駒場キャンパス]で2022年4月から7月にかけて全13回行われる筆者による授業「広域システム科学特別講義II」と連動している。講義で用いたスライドを使った、日本語、英語によるサマリー動画[東京大学大学院講義 認知神経科学]も筆者のYouTubeチャンネルで公開しているので、興味がある方はそちらも参照してみて欲しい)

2.ペンローズの怒り

 私が脳科学に興味を持つきっかけは、博士課程の時に出会った書物だった。理学部物理学科の大学院で生物物理の研究をしていた私は、1989年、イギリスの数理物理学者ロジャー・ペンローズが書いた一冊の本に衝撃を受けたのである。

 ペンローズは、アインシュタインの一般相対性理論に基づく時空には「ブラックホール」があることを理論的に予言した仕事により、2020年のノーべル物理学賞を受けている。

 本のタイトルは『皇帝の新しい心 コンピュータ・心・物理法則』(林一訳 みすず書房 1994年)。当時の楽観的な人工知能研究の考え方に強烈な異議申し立てをして、そのようなやり方では人間の脳の働きや意識は理解できないし、再現できないと断じたのである。

 本の表題がそもそも過激であった。『皇帝の新しい心』は、『皇帝の新しい服』という寓話をもじったものである。日本では『裸の王さま』と訳されることが多いこの物語では、実際には「服」などないのに、「馬鹿には見えない」という文句に脅かされた人々が、次々と「素晴らしい服だ!」などと称える。皇帝(王さま)が実際には裸だと看破して、そのことを指摘したのは、正直者の子どもだけだった。

 ペンローズの『皇帝の新しい心』は、同じように、皇帝(王さま)が新しい人工知能を開発した、というところから始まる。みんながその人工知能には心がある、意識がある、人間のように考えることができるとすっかり騙されてしまう中、その空虚な実体を見抜いている者がいた……。

 ペンローズがこの本を書くことを決意したのは、オックスフォード大学にいた彼がある日見たイギリスのテレビで、人工知能研究者が自信ありげに「人間の脳などすぐに再現できる」「人工意識などすぐにでもできる」などと断言していたからだという。それを聞いて、義憤にかられたのである。

 ペンローズは、当時の人工知能研究のやり方では、人間のような思考能力を持つことができないこと、意識を生み出すこともできないことを確信していた。その理由は、『皇帝の新しい心』に書かれている。ペンローズの議論に納得したり、インスパイアされる人もいれば、否定したり、反発したりする人もいる。

『皇帝の新しい心』は大論争を巻き起こした。そして、それは今も続いている。果たして、人工知能研究が将来人間の思考の再現に成功するのか、それともそこには原理的な限界があるのか、最終的な答えはまだ出ていない。

 ただ一つ、はっきりしていることがある。それは、人工知能の研究開発が前提としている脳のモデルが、実際の脳に比べるとあまりにも単純であるということである。

 今日でも、人工知能によって脳の働きは簡単に再現できる、あるいは凌駕できると考える人たちがいる。人工意識の実現可能性について、楽観的な考え方もある。しかし、おそらくそう簡単には行かないだろう。

 ペンローズが言うように、ものごとはそんなに単純ではない。安易に人工知能で脳の機能が再現できる、意識を生み出すことができると考える人は、アインシュタインがかつて用いたフレーズを使えば「神々の嘲笑によって難破させられる」だろう。

 では、つまずきの石はどこにあるのか? ペンローズが『皇帝の新しい心』で書いたように、量子重力に関する未知の理論が関係している可能性もある。これは現代科学における最も重要で、しかも解決が困難なテーマでもあるが、同時に、その実用性はすぐにはわからない難題でもある。もし、意識や思考の起源がペンローズの言うように量子重力理論に関係しているのだとするならば、その解明にはまだまだ時間がかかるだろう。

3.脳の複雑さ

 一方、脳にまつわる別の見方に基づけば、現時点で私たちはいくつかはっきりとしたことを明言できる。それはすなわち、脳の「複雑さ」に関する視点である。

 知性にせよ、意識にしろ、脳の働きが簡単に再現できると考える人は、脳の複雑さを十分に考慮していないケースが多い。

 人間の脳は、しばしば、これまで人間が向き合ってきたものの中で最も複雑なものだと言われる。複雑さはわかっていても、その複雑さをモデルに取り入れるのは難しい。結果として、簡略化した「トイモデル」(おもちゃのようなモデル)を立てて、それを解析することも多い。しかし、そのようなトイモデルで知性や意識の本質を説明できると仮定するとするならば、それは単純化の錯誤というものだろう。

 脳を神経細胞のネットワークとしてとらえた場合、その複雑さはとびっきりである。典型的な推測では、脳の中には1000億程度の神経細胞があると言われている。それらの一つひとつが数千から1万程度の「シナプス結合」を通してお互いに影響を与えあっている。

 シナプスにおいては、さまざまな「神経伝達物質」が放出されて、結合している相手の神経細胞に影響を与えている。重要な神経伝達物質としては、興奮性の物質であるグルタミン酸と、抑制性の物質であるGABAがあって、それぞれ、放出された場合、相手側の神経細胞が、より活動しやすく、あるいは活動しにくくなる。

 グルタミン酸やGABAに加えて、セロトニンやドーパミン、エンドルフィンといった神経伝達物質のことについても聞いたことがあるかもしれない。それぞれ、気分の調整や、学習のメカニズム、そして幸福感といったことに関わっている。

 しかし、これらの「有名な」神経伝達物質で終わりではない。脳の中に、いったい何種類くらいの神経伝達物質があるかと言えば、研究者コミュニティの中でも定説がない。同定されているリストで「これで終わり」というわけではなく、まだまだ発見される可能性がある。現時点で、少なくとも100種類の神経伝達物質が知られている。そのすべての作用がわかっているわけではない。まだ発見されていない伝達物質があるかもしれない。

 1000億程度の神経細胞が、それぞれ数千から1万のシナプス結合でつながっている。そのシナプスにおいて、少なくとも100種類の神経伝達物質が放出されている。これだけ考えても、その組み合わせから来る複雑さは大変なものになる。

 それだけではない。神経細胞は、一つひとつが、文字通り「細胞」である。細胞は、生きている。その中でさまざまな複雑なプロセスが進行している。

 一つの神経細胞の中で起こっているさまざまな分子の化学反応や、拡散のプロセスだけを考えても、その複雑さは気が遠くなるほどである。たとえば、細胞核の中でDNAがどのようなタイミングでmRNAに転写され、さらにはタンパク質の合成へとつながるか。細胞膜の上で、多種のチャンネルがどう拡散してシグナルが伝わっていくか。マイクロチューブル(微小管)の上を、キネシンやダイニンといった「モータータンパク質」がどうやって移動していくのか。そのようなさまざまな複雑さは、神経細胞を単位として考えるやり方では全くとらえるこができない。

 しばしば用いられる「トイモデル」は、神経細胞の活動を「0」と「1」の2状態で表し、神経細胞どうしを結ぶシナプス結合を「w」といった変数で表すというアプローチである。細かい設定の違いはあっても、近年注目されてきた「ディープラーニング」のモデルも、基本的にそのような簡略化を行っている。

 しかし、そのような「トイモデル」で本当に知性や意識が表現できるのか、誰にもわからない。脳が複雑であることには、それなりの理由があると考えられるからだ。その複雑さを安易に捨ててしまっては、本質を見失う。

 そもそも、脳が複雑であることには、どのような意味があるのだろうか?

 情報論的に見ると、脳の複雑さは、「生きる」という課題自体の複雑さに呼応している。私たちが向き合っている環境は複雑である。さまざまな状況に対応するためには、ある程度の複雑さが脳の中になければならない。一つの目安として、環境の中にある複雑さと同じくらいの複雑さが、脳の中になければならないだろう。そうでなければ、さまざまな課題に対して柔軟に対応することができない。そこに、神経細胞をつなぐシナプスが変化する「学習」が関わってくる。

 このような視点から見ると、脳が複雑であることには、それなりの意味がある。私たちは容易に理解できないくらい複雑な脳を持っているからこそ、時時刻刻と変わる環境の変異に適応することができるのである。

4.複雑さと予測不可能性

 一方、脳が複雑であることは、困った問題ももたらす。その一つは、「複雑系」に一般的に見られる「容易に予想ができない」「微小な初期状態の差が大きな差異につながる」といった性質である。

「複雑系」とは、そのシステムに内在する要因により、あるいはシステム間の関係性や、環境との相互作用などにより、そのふるまいが簡単には予測できないような対象を指す。生命現象やインターネットの上の情報の流通など、さまざまなものが「複雑系」であると考えられる。

 アメリカの気象学者、エドワード・ノートン・ローレンツは、「バタフライ効果」と呼ばれる現象を発見したことで知られている。1972年、「ブラジルにおける一匹の蝶の羽ばたきは、テキサスで竜巻を生むか?(“ Predictability : Does the Flap of a Butterfly’s Wings in Brazil Set off a Tornado in Texas? ”)」と題された講演の中で、コンピュータ「LGP-30」を用いたシミュレーションの結果、システムの初期状態が微小に異なるだけで、時間が経過すると大きな違いにつながることがわかったと発表した。すなわち、例えばブラジルのアマゾンのジャングルの中で、一匹のモルフォチョウがどのように羽ばたくかということが、めぐりめぐって、テキサスで竜巻が発生するか否かを左右することがあり得るということを、数学的に示したのである。

 ローレンツは、気候変動を研究する中で、1963年には、「ローレンツ方程式」と呼ばれる一連の常微分方程式の複雑系としてのふるまいを発表していた。比較的シンプルで決定論的な方程式が、初期状態が少しでも変われば時間とともに大きな違いに到達する「カオス」をもたらすことは衝撃を持って迎えられた。そして、それらの「カオス」な解が、フラクタル構造を持つ「ストレンジアトラクター」の一例としての「ローレンツアトラクター」の軌道の上に乗ることも新鮮な驚きだった。興味深いことに、ローレンツアトラクターは、パラメータの設定によってはまるで大きく羽を拡げた蝶のようにも見えるのである。

 ローレンツが気候変動の研究で力学的なカオスを発見したことは、大きな意味を持つ。天気予報が容易に当たらない理由は、天気の変化が「今、ここ」の初期状態に依存するからである。ローレンツ方程式のようなシステムが天気を支配しているとすると、たとえば、あなたが今日うちわを使って風を起こすかどうか、起こすとしたらどれくらいの時間、どちらの方向にあおぐかで、何日後かの天気が変わってくるかもしれないという理論的な可能性がある。

ローレンツ方程式

ローレンツ方程式のグラフ例
(出典:https://jp.mathworks.com/)
パラメーターの値はσ=10,β=8/3,ρ=28、系は[x(0),y(0),z(0)]=[10,20,10] から始め、時間は0から100までの系の変化を表示

 2021年のノーベル物理学賞は、気候変動の研究を行った眞鍋淑郎、クラウス・ハッセルマンと、原子レベルから惑星レベルまでのさまざまなシステムのカオスな挙動を研究してきたジョルジオ・パリージに与えられた。二酸化炭素などの温室効果ガスが増えれば、地球大気の平均気温が上昇することは科学的にほぼ確実な事実である。眞鍋らのコンピュータ・シミュレーションは、そのことを初めて指摘したことが評価された。一方、パリージが行ってきた複雑系の研究の端緒を開いたのはローレンツである。2008年に亡くなったローレンツがもし存命だったら、当然ノーベル賞の対象になっていたことだろう。誰がノーベル賞を受けるかも、複雑系で一般には予想できない。

 人間が排出する温室効果ガスによる地球温暖化は科学的にほぼ確実である。しかし、さらに細かく、例えば数日後の天気がどうなるかは複雑系のカオス的挙動により、簡単には予測できない。

 どれくらい時間が経つと予測ができないかを知る目安として、ロシアの数学者、アレクサンドル・リャプノフの研究に基づく「リアプノフ指数」がある。これは、どれくらいの時間が経つとシステムの挙動が予想できなくなるかの目安を与えるもので、それ以上の時間が経つとふるまいがカオスになる。例えば天気予報の場合は15日程度とされており、それを過ぎると天気がどうなるのかはランダムと同じでわからない。

 恐ろしいことに、太陽系の力学的なふるまいのリアプノフ指数は500万年程度とされている。つまり、水星、金星、地球、火星、木星、……とまがりなりにも安定軌道で運行している太陽系の「秩序」は、500万年程度の時間が経ったらどうなるかわからないのである。

 私たちは、つかの間の安定という「水たまり」の中に震えながら生息している生命であり魂である。

5.脳は予想できるのか

 脳は、一つの「複雑系」である。そして、複雑系である以上、複雑系が一般的に持っている性質から逃れることができない。すなわち、脳のふるまいを予想することはできない。

 ある人の脳が数分後、数日後、数年後にどのような状態にあるかということを簡単に予想することはできない。

 一人の脳を単独で考えたときのふるまいが予想できないのはもちろんこと、二人の脳、三人の脳が影響し合うときのふるまいも予想できない。ましてや、社会の中で人々がどのようにふるまうとか、流行や時流がどんな変化を遂げていくかということも予想できない。だからこそ、ヒット作品を生み出したり、政治状況を予言することは難しいのだろう。

 脳のリアプノフ時間がどの程度かという研究は、私の知る限り行われていない。しかし、経験から、だいたいの推定をすることはできる。例えば、雑談の場合、数分後にはどうなっているかを予想することはなかなか難しいから、リアプノフ時間は数分程度なのだろう。感情の場合、リアプノフ時間は数時間程度かもしれない。

 脳が複雑系であるということは、私たち人間に関連のある事象にも当然影響してくる。例えば、人間には自身の未来を決定する「自由意志」があるのかという問題。人生設計から、経済、政治、文化まで、あるいは責任や法律のようなことまで、通常「自由意志はある」という前提(あるいはフィクション。この問題については連載において後に詳細に論じる)でなされているこの世の営みは、その本質において「幻想」であるのかも知れない。

 自分の脳がどうなるのかも予想ができない。どんなことを夢見て、目指し、実行できるのかできないのかわからない。ましてや、他人の脳など、さらには人の働きが積み重なって生まれる社会の流れなど、予想ができるはずもない。

 世界のありさまを見ていると、「自由意志はない」「未来がどうなるのかは予想できない」という前提でものごとを考えた方が、実際にあっていると思えてくる。少なくとも、精神衛生上は良いように思う。

 最近、養老孟司さんとお話ししていて印象的なことがあった。ロシアのウクライナ侵攻に対して、「戦前の日本を思い出す」とおっしゃった養老さん。国際的な孤立をもたらすような行為に走る理由は、歴史的な経緯とか国民性、政治文化などが積み重なった複雑な要因の結果であって、他から安易に決めつけられるものでも、自由に選択できるものでもないというお考えのようだった。

「複雑系」という言葉こそ使われないにせよ、養老さんの見解は、脳は複雑系で簡単には予想できないという事実に合っている。

 脳は複雑系である。そのふるまいは、自分にせよ、他人にせよ、簡単には理解も予想もできない。自由意志は幻想である可能性が高い。たとえ自由意志があっても、自分自身も他人も、どんな選択をするのか簡単にはわからない。

 ましてや、私たち人間が知る最も複雑なシステムである人間の脳が生み出す「意識」を、私たちが理解できるかどうかはわからない。イギリスの哲学者であるコリン・マッギンは、意識の問題は人間には解決できないという「認知的閉鎖」の論を唱えている。
 それでは、このような複雑さを超えて、私たちは脳を理解できるのだろうか?

 一つの可能性あるいは希望として、私は、「アインシュタイン仮説」というものを抱いている。

 アインシュタインは、1905年に発表した「特殊相対性理論」において、時間や空間の根本に立ち返って前提を問い直し、物理学に革命をもたらした。とりわけ、エネルギーが質量に光の速度の二乗をかけたものに等価であるという式E=mc2は、世界でもっとも有名な方程式になった。

 これらの革命は、アインシュタインが、「時間」や「空間」について、私たちの暗黙の前提を問い直すことで行われた。とりわけ、ある事象ともうひとつの事象が「同時」であるとはどういうことかについての洞察が重要であった。

 脳の複雑さを理解するには、とりわけ、脳から意識やその中のクオリア(赤が赤であるなど、心の中に浮かぶ質感)の起源を理解するには、脳のみかけ上の複雑さを超えて、その背後で働いている普遍的な原理を理解する必要がある。

 複雑さを安易に切り捨てて、トイモデルで足れりとするのではなく、複雑さのバックヤードで働いている、なんらかの普遍性の原理を探る。複雑系を串刺しにしている、一つのプリンシプルを同定し、白日のもとにさらす。

 そのような視点を得て、初めて、私たちは本当に「自由」になることができるのではないだろうか。それは、脳から意識がどう生まれるかというハードプロブレムの解決への道も開くはずだ。

 しかし、そのためには、たくさんの寄り道をしなくてはいけないかもしれない。何しろ相手は脳という複雑系なのだ。自由への道は、長くて曲がりくねった道である。
 さあ、それでは、自由になるための芸術、教養(リベラルアーツ)としての脳科学の旅を始めよう。

 

著者プロフィール

茂木 健一郎 (もぎ けんいちろう)

1962年東京生まれ。東京大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理学博士。脳科学者。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経てソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。「クオリア」(感覚の質感)をキーワードに脳と心の関係を研究するとともに、評論、小説などにも取り組む。2005年『脳と仮想』(新潮社)で第4回小林秀雄賞を受賞。2009年『今、ここからすべての場所へ』(筑摩書房)で第12回桑原武夫学芸賞を受賞。著書に『生命と偶有性』(新潮選書)、『記憶の森を育てる 意識と人工知能』(集英社)、『クオリアと人工意識』(講談社現代新書)ほか多数。

著者近影/中野義樹
タイトル背景/sugimura mitsutoshi/Nature Production /amanaimages

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