〈 刊行記念 特別寄稿 〉
『失踪願望。 コロナふらふら格闘編』
椎名 誠
Special Essay
「失踪願望。」第二幕へ—
当ウェブサイトで連載中の人気コンテンツ、椎名誠さんの「失踪願望。」。
連載14回分の日記に「三人の兄たち」「新型コロナ感染記」の書き下ろし2編を加えて『失踪願望。 コロナふらふら格闘編』として書籍化されました。
連載スタートからまもなく新型コロナに感染し入院。生死をさまよい生還した椎名さんの日々の日録は、ままならぬ自分と世界への哀感を漂わせながらもユーモアと希望を失わない、これぞ老境の筆致ともいうべき新境地。
きっと、読み手ひとりひとりのパンデミック下の営みを—この異常かつ平凡な日々の記憶を—呼び覚ますことでしょう。
刊行に合わせ、当連載の構成ライターでもある竹田聡一郎さんが、作家に伴走した2年を振り返ってくれました。
椎名を囲む「チーム失踪」の3人
椎名さんが単行本『失踪願望。』のあとがき「真夜中の『とおりゃんせ』あとがきにかえて」の冒頭で触れているが、この「失踪願望。」というweb日記は、ちょうど2年前に上梓された『遺言未満、』の連作、つまり続編の意味合いを持つ。
椎名さんの盟友のひとりである書評家の目黒考二さんは「椎名誠 旅する文学館」(公式HP)内のコンテンツ「椎名誠の仕事」の中で『遺言未満、』と連載中の「失踪願望。」という両作のタイトルについてこう語っている。
〈閉じたものと開かれたものの対比かな、と思ったわけ。それとも、閉じようとする心の動きと、繋ごうとするゆらめきの対比かな。いやあ、奥行きのあるタイトルで素晴らしいよ〉
このタイトルをつけたのが集英社の編集Tさんだ。日記パートにも頻出するように椎名誠という作家への尊敬と気遣い、「シーナの知られざる内面をもっと書かせたい」という編集者の欲、そしてシーナ作品の読者としてのピュアな喜びと驚きなどをチャンプルーしたディレクターでもある。椎名さんはあとがきで「チーム」という言葉を用いているが、「チーム失踪」を結成したのも彼女だ。酒も好きで、前作の『遺言未満、』のカバー写真は八丈島でのロケだったのだが、無事に撮影を終えた夜に安心感からかうわばみのように島酒をあおり、八丈ビューホテルのロビーで派手に転倒していた。
椎名さんの事務所「オフィス・シーナ」からはWさんがチームに加わってくれた。椎名さんのスケジュールや原稿の管理を担当するマネージャー兼秘書のような存在として30年近く、辣腕をふるっている。
例えば、冬季鬱(うつ)を抱える椎名さんは年明けから春までは外での活動を好まなくなる。爬虫類みたいだが、「冬は寒いからなあ。嫌だよ」とか爬虫類のくせにワガママなので、その間は取材より執筆メインでスケジュールを組んだり、少しでも腰を上げやすい怪しい雑魚釣り隊の取材や酒席込みの打ち合わせなどを巧みに配置している。この冬はどんな采配が冴えるだろうか。
ちなみにこの人も酒は飲む。もともとは飲めなかったようだが、椎名さんと関わるようになりおのずと酒席が増え、鍛えられた。日本酒を好み、物静かにいつまでもちびちびやっているタイプの呑助だ。
そして私、不肖竹田が記録係として多くの場面に帯同させてもらった。例えば2021年12月13日の日記では角川武蔵野ミュージアムを取材したことが書かれているが、そこで見学した作品「浮世絵劇場 from Paris」なんていう固有名詞は椎名さんが覚えているはずもない。酒田に本店を構えるワンタンメンの名店「満月」が2020年に東京の三鷹に出店した、という出来事をネット検索をしたことがない椎名さんは知る術もない。そういう些末なことを、せっせと記録し続けてきた。
2022年5月の北東北旅の取材ノートはこんな感じだ。
「宮古市街 多良福 中華そば 650円 4人家族が無言」
椎名「テレビなんか出ないでほしいよなあ」
こういった具合に単語やメモを並べたり、椎名さんの発言や感想を拾うだけの大雑把なデータ原稿をWさんに献上しているのだ。光栄なことに私は前述の「椎名誠 旅する文学館」の館長でもあり、「怪しい雑魚釣り隊」の副隊長でもあるので、恐縮ながらシーナの近侍としてはそれなりに適役だったと自負している。酒はなんでもやる。世界でいちばん美しい言葉は「飲み放題」だと信じている。椎名さんの現場は最後に必ず乾杯できるのが素晴らしい。
6月15日の日記が極端に短い理由
このメンバーで椎名さんに内在する「失踪願望」に触れる。
それが「チーム失踪」の大テーマであり、それは彼が憧れる宮沢賢治や傾倒するつげ義春とリンクしてくるのか。あるいは他の何か、本人もまだ気づかない要因が働いているのか。
あとがきで椎名さんは〈思考の地すべりのようなものに飲み込まれていく脆弱性〉と自己分析をしているが、そのリスクもあった。椎名さんの根幹にある感情を探りながらも、本人がネガティブな精神状態に陥らないように取材を続ける。「チーム失踪」はそんな注意を払いながら、椎名さんの日常を掘り下げていくはずだった。
しかし、である。日記のweb連載開始から2ヶ月で椎名さんは新型コロナウイルスに罹ってしまった。
2021年6月15日(火)の日記にある〈友人や編集者が喜寿のお祝い〉の参加者はつい2日前に千葉で釣りキャンプを張っていた雑魚釣り隊のメンバーが中心だった。私も編集Tも参加していた。もちろんキャンプの後に体調に変化があった者はいなかったのだが、それでも結果がすべてだ。予断は禁物だった。
その後の経過は日記パートでも「新型コロナ感染記」でも語られているが、椎名さんは誰も責めなかった。6月15日の日記が極端に短いのもそのあたりに理由があるのだろう。何人が感染したのか、最初に体調不良になったのは誰だ。そんな魔女狩りみたいな狂った世の中には嫌気がさしていたのかもしれない。「ぜんぶ自己責任だからなあ」とその頃、よく言っていた。
退院後の正体の見えない後遺症も辛そうだった。うまく心身と脳が働いていない焦りと苛立ち、そこから派生する夜の無聊(ぶりょう)をしずめるために増える酒量。それをもっとも近くで見てきて、優しくも厳しく寄り添った妻の一枝さんは何を思っていたのだろうか。もちろん今すぐでなくてもいいので、一枝さんから語られるコロナ禍もいつか読んでみたい気もしている。
たとえ椎名さんがコロナに感染していなくても昨今は取材旅行などにはなかなか出られなかったので、いずれにしても宮沢賢治やつげ義春の足跡が残る北への失踪取材は叶わなかった。その一方でまた、言論誌「kotoba」に載った目黒さんによる椎名さんへのインタビューから言葉を借りると〈七八(歳)の失踪ってのは奥行がある〉、(若い頃と比較して)〈どこにも行かない。それがすごくいいよね〉とのことだ。旅をしない期間が新鮮と捉えられるのも椎名誠という作家ならではのことなのかもしれない。
「どこか遠くへ行くこと」が含んだもの
現在は変わっているが、一時期の椎名さんの著書や記事のプロフィールの末尾には「趣味は焚き火キャンプ、どこか遠くへ行くこと」というフレーズがあった。
日記で何度か言及される「失踪名人」の寅さんへの思いをはじめ、楼蘭と井上靖さんの思い出の回顧、腰痛、酔いetc……。それらはすべて椎名さんにとっては「どこか遠く」なのではないか。そう読むこともできる。
一方で椎名さんは寅さんを抜きにしても映画や本の話をよくしてくれる。『ゴッドファーザー』、『アラビアのロレンス』、さらに『テルマ&ルイーズ』についての2月11日の記述などはヒヤリとする内容だが、映画の話をしている時は特に楽しそうだ。
ひょっとして映画や文学への心酔もここではないどこかへの逃避や敬遠を含んでいるのでは、と勘繰ってしまうのは飛躍しすぎだろうか。
ただ、はたと気づく。
失踪願望は多かれ少なかれ、誰もが抱いている憧憬なのだ。その理由は様々だろう。仕事や家庭の問題、人間関係の煩わしさにはどの時代でも誰でも直面する。
それに加えここ数年はずっと鬱屈した日々が続く。感染者の増減が連日報じられ、いまだ愚かな戦争は続き、ミサイルのアラートにも慣れてしまった。椎名さんじゃなくてもどこかへ失踪したくなる。軽バンでの車中泊やキャンプが流行ったり、漫画を超えるような投打二刀流の若者の活躍に沸き立ったりするのも根っこではその願望と関連しているのではないか。SNSの隆盛も匿名性あってこそで「自分ではない何者かに」というある種の擬態や投影なのだ。これも広義では失踪の範疇なのかもしれない。
『遺言未満、』の単行本オビには「その時、何を見て何を想い、どう果てるのか。」という一文があったが、今度の『失踪願望。』はそこから少し進み、「そこまでどう生きるか」を読み解く一冊になるだろう。
本作の日記は2022年6月まで収録されているが、webは引き続き連載中だ。9月には福島への旅にも出た。つらつらと冗長に書いてしまったが、やっと失踪旅の幕が本格的に上がる。コロナに足を引っ張られつつも、椎名さんが自身に燻る失踪願望を見つめる機会になったのかもしれない。どのくらい深くまでお供できるかは分からないが、チーム失踪のメンバーとして、椎名誠という作家の揺蕩(たゆたい)に少しでも同調できればいい。そう考えている。
◆目黒考二さんによる椎名誠さんインタビュー
「ぼくの昏く静かな失踪願望について」
掲載の「kotoba 2022年冬号」はこちら
撮影/近藤加津哉
竹田聡一郎(たけだ・そういちろう)
ライター。「椎名誠 旅する文学館」二代目館長。シーナ率いる雑魚釣り隊・副隊長でドレイ頭。
サッカーとカーリングを追って世界中を旅して書きたい1979年、神奈川生まれ。
著書に『BBB ビーサン!! 15万円ぽっちワールドフットボール観戦旅』(講談社文庫)など。
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