『沸騰大陸』刊行記念ロングインタビュー

三浦英之さん

いま最も注目されるルポライターである三浦英之さんの最新刊『沸騰大陸』が好評発売中です。『沸騰大陸』は、三浦英之さんにとって4作目のアフリカ取材作品。『日報隠蔽 南スーダンで自衛隊は何を見たのか』(布施祐仁さんとの共著)では当時アフリカに派遣されていた自衛隊PKO活動にまつわる闇を、『牙 アフリカゾウの「密猟組織」を追って』では日本も関与する象牙密猟の実態を、『太陽の子 日本がアフリカに置き去りにした秘密』ではアフリカに進出した日本企業の社員らが残した残留遺児について、いずれも我々が知り得ぬ衝撃的な「真実」に迫り、それぞれの本で著名なノンフクション賞を受賞されました。
新刊『沸騰大陸』の話題を中心に、それぞれアフリカをテーマにした作品群について、詳しくお話を聞かせていただきました。

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残された大量の未発表メモ、「感情」と「空気」の真空パック

――三浦さんのアフリカ4部作のうち、最初の3作はそれぞれ大きなテーマ、いわばアフリカで隠蔽されてきた「不都合な真実」に光を当てた力作でした。一方、今回の『沸騰大陸』は、それらの闇の近くに確かに存在する、見落とされがちな現地の人々の生活、小さな生の輝きに焦点を合わせた作品です。三浦さんの中で『沸騰大陸』はどのような位置づけですか?

三浦 『日報隠蔽』『牙』『太陽の子』といった大きなテーマでは描くことができなかった、アフリカで暮らす、市井の人々の生活を描きたかったんです。集英社の情報サイト「イミダス」で連載を始めるとき、押し入れの奥に押し込まれていた、アフリカ特派員時代の資料を詰め込んでいた段ボール箱を開けてみたら、大量の未発表のメモや写真が出てきた。汗にまみれたメモ類に1日がかりで目を通した後、「ああ、これは行けるな」と思いました。当時の「感情」や「空気」が真空パックされたようにそのまま詰め込まれている。僕がアフリカにいたのは7年以上も前のことですが、今読んでもまったく古びていない。それらを再結晶化したのが今回の『沸騰大陸』です。

――「生け贄」として埋められる子どもや、78歳の老人と結婚させられる9歳の少女、銃撃を逃れて毒ナタを振るう少年などなど、印象的な短編ルポ・エッセイが34編収録されており、構成の点でも過去の3作品とは趣が違います。

三浦 アフリカ特派員時代はサハラ砂漠以南の49カ国を担当していました。結局行けたのは35カ国前後。そのうち『沸騰大陸』には25カ国のエピソードを詰め込んでおり、アフリカという多種多様な人々が生きる大陸を、なるべく多角的にとらえられるよう構成しています。

――作品の隅々から、現地に生きる人々のリアルな息遣いが伝わってくるようです。未発表の取材メモを元にした作品ということでしたが、驚くほどに生々しく感じました。

三浦 僕は2000年に新聞記者になって以来、その日に取材したり見聞きしたりした出来事については、「マイ・ルール」としてできる限り、その日のうちにメモにして残すようにしています。その際、「メモには絶対、嘘は入れない」というのが鉄則です。後日、メモを作ろうとすると、どうしても記憶があやふやになって、人間って自分の都合のいいように記憶を作り変えちゃうんですよ。だから、できる限りその日のうちに、自分で見たこと、聞いたこと、思ったことだけをメモに書く。A4の1~3ページぐらいにして、写真をプリントしたものや資料も含めて全部、ポケットファイルに入れておく。そんな大量のメモ・ファイルが、僕の机の上にはあと8冊ぐらい並んでいます。

――『日報隠蔽』『牙』『太陽の子』という大きな作品を完成させながら、その間で『沸騰大陸』につながる膨大なメモを残しつつ、新聞記者としての日常業務をこなす。これほどの活動をしていながら、特派員としてのアフリカ滞在はたったの3年、という点にも驚きます。

三浦 3年間、高校野球部員の「しごきノック」のように、全力でこっちに飛び込んでボールを取った後、すぐさま立ち上がって、今度はこっちに滑り込んでボールに飛びつくような日々を延々と繰り返していました(笑)。ひたすら全力でアフリカ中を飛び回って、サバンナにテントを張って泊まったり、ジャングルの奥に入り込んだりして、自由に取材をしていたんです。でも、アフリカ特派員の良いところって、そうした自由な動きをしていても、全然許されることなんです。当時はまだ、ほとんどの出張先で携帯電話の通話ができませんでしたし、東京からもあまりルーティーン的な記事の出稿を求められない。

――記事の出稿を求められない?

三浦 たとえばワシントンやニューヨークの特派員であれば、米大統領選や国連の記事など、日々大量に出稿が求められます。一方、アフリカ特派員はどんなに原稿を出しても、紙面に載らないことがほとんどなんです。たとえば、あるとき、西アフリカで大雨が降り、川があふれそうになって数百人がガソリンスタンドに避難していたんですが、そのうちの一人が火がついたままの煙草をポイ捨てしたら、漏れ出ていたガソリンに引火して大爆発し、100人以上が犠牲になるという事故が起きた。「大事故だ」と思って東京のデスクに電話をしたら、「いや、いらないかな……」と。それでも僕は3年間、各地を旅しながら、見たもの聞いたものを残らず拾って、せっせとメモを作り続けた。今回の「沸騰大陸」は、僕のその3年間の「旅行記」でもあるんです。

――そもそもアフリカへの最初の取材は、ご自身で会社に企画書を出して実現したと。もともとアフリカに、何か特別な思いがあったんでしょうか?

三浦 いや、最初はあまりありませんでした(笑)。もともと日本の安全保障に興味があって、最初に会社に出した企画書は自衛隊のPKOについてでした。アフリカに行きたいというよりは、PKOの現場を取材したかった。それで当時、自衛隊が派遣されていた南スーダンに出張で行ったんです。


文庫化にあたり、副題を『自衛隊が最も「戦場」に近づいた日』に改題

――でも当時、スーダンは内戦中ですよね?

三浦 アフリカに到着して一番初めに味わった出来事が、強制送還ですよ(笑)。空港に降りて陸上自衛隊からの招聘状とパスポートを出したら、入国審査官がニヤニヤしながら「100ドルよこせ」と言ってくる。でも、こちらにはそんな賄賂まがいのカネは出せない。困り果てていたら、空港所長がやって来た。所長だったらなんとかしてくれるはずだ、と期待してついていったら、所長室に入るなり、今度は空港所長が「俺に500ドル渡せ。何とかしてやる」と。それを固辞したら、警備兵を呼ばれ、兵士4人にカラシニコフ銃を突きつけられて強制送還。もうビックリしましたけど。会社に電話をしたら、「抵抗せずに戻ってこい」と。

――そんな理不尽なことがまかり通るんですね。

三浦 そのときに乗っていたのはドバイ系の航空会社だったんですけど、仕方なく飛行機へ戻ったら、キャビンアテンダントが笑顔で「ウェルカム・バック」と(笑)。そしてビジネスクラスのとこに座らせてくれて、シャンパンが出てきました。「年に何回かあるのよ」って。

――まるでフィクションのような話です。

三浦 まったく信じられない話です。飛行機についてはもう一つ面白い話があって、こっちは『太陽の子』に少し書いたのですが、アフリカ中部の紛争国・コンゴ民主共和国で、ある鉱山王に同行して地方のレアメタル鉱山を取材したことがありました。コンゴでは国内移動でもパスポートや荷物の検査があるのですが、鉱山王はそれぞれ係員に100ドル札を手渡し、すべてノーチェックで通過していく。同行した僕たちがそれ以上に驚いたのは、途中で飛行機のルートを変えさせたことです。鉱山王は通常、プライベートジェットで移動しているのですが、その日は運悪くそのプライベートジェットが点検中で、通常の旅客機で移動するしかなかった。往路こそ、所有するレアメタル鉱山がある地方への直行便があったのですが、復路では前後2日間、その地方空港には発着便がなかった。日本でたとえるなら、鉱山王は東京に住んでいて、所有するレアメタル鉱山が秋田にある。行きは秋田への直行便があったが、翌日の秋田発着の便がない。そこで彼がどうしたかというと、言わば札幌発東京行きの航空機を急遽、秋田空港に一時着陸させ、東京に戻るという強引な手を使ったんです。鉱山王は「カネさえあれば、コンゴでは何でもできる」と豪語していましたが、アフリカといえど、ちょっととんでもない話です……。


1970~80年代の経済成長期、資源を求めた日本がアフリカ大陸に残した「闇」に迫る。

アフリカにおける民族と国家

――我々はすぐに「アフリカ」と一言で言いますが、『沸騰大陸』を読むと、国や地域によって驚くほど多様性があるのがわかります。

三浦 アフリカ大陸ってメルカトル図法(赤道付近が小さくなる)の影響で、世界地図的に見ると比較的小さく見えてしまうのですが、面積は日本の実に80倍もあり、とにかく広いんです。アフリカ特派員時代はよく、南端の南アフリカから、所属新聞社の中東総局がある北部のエジプトに通っていたんですが、南アとエジプトとの距離、たとえば日本からだとどれぐらいの距離に相当するかわかりますか?

――いえ、ちょっと想像がつかないですね。

三浦 日本からだとちょうどフィンランドに行く距離とほぼ同じなんです。それぐらい遠いし、広い。そしてそこには無数の民族が混在しているのですが、彼らにとってまず民族が先で、国家という概念はどちらかというと、後から押しつけられたものという認識がある。面白かったのは、ケニアの奥地に取材に行ったとき、現地の古老に「いまのケニア政府についてどう思うか?」と尋ねたら、古老は笑いながら「ケニアって誰だ?」って聞き返してきたんです。半ば冗談だったのかもしれないけれど、そういうところっていまだアフリカにはあるんです。最初に民族があり、次に国家という枠組みが存在している。

――国家という概念が乏しい?

三浦 アフリカって、国境地帯にも一面のサバンナが広がっていて、国境自体がよくわからないですしね。その中で、地域によっては人々が民族という集合体でしか物事を考えていないようなところがある。彼らはGPSとかを持ってるわけでもないし、国の境目を意識せずに行ったり来たりしている。税金だってほとんどの人が払っていないし……。だから、国民という意識がすごく希薄なんじゃないかと感じます。たとえば「内戦」と言っても、国家の枠内で戦っているというよりは、たまたまその国家の枠内に居合わせた、異民族同士の諍いだったりするんです。

――狭い島国でいろいろなものに縛られて生きている我々には、想像が難しいところがあります。

三浦 そうですね。日本という小さな島国であまりにも多くのものを背負いながら生きている僕らからすると、対極にいる「最も遠い人たち」と言えるかもしれません。でも、彼らにはある意味、うらやましいぐらいに人間っぽさがある。愛や憎しみといった感情がものすごい激しいんです。喜ぶとゲラゲラ笑うし、夜などは焚き火を囲み、太鼓をドンドンドンドンやりながら、歌って踊る。そういう根源的な楽しみは、ひとたびその喜びの輪の中に入ると、本当にワクワクするし、楽しかったりする。同じように、空を見上げて「わっ、こんなにも星が見える」という感動や、ヌーの大群がものすごい勢いでガーッと川を渡る姿を見た時の、体が震えるような瞬間とか。それはたとえば、日本で夜の8時半にビールをカチャッと開けてNetflixを見る、そうした楽しさとは次元の違う、僕らのDNAに深く刻まれた「生きる喜び」みたいなものを日々、感じながら生きているんです。

――その一方で『沸騰大陸』には非常に残虐な、目を覆うようなエピソードも出てきます。

三浦 確かにそうですね。誘拐した女の子に爆弾を巻きつけて、市場に誘導して爆破したりとか、大きなビルを建てるために、建設現場に子どもを生贄として生き埋めにしようとしたりとか、そういうことが平気で起こる。法律もあまり機能しているようには見えないし、犯罪行為に歯止めのかかりにくい社会であるのは事実です。その大きな理由のひとつは、平均寿命が短いからではないかと思うんです。内戦もあり、事故もあり、病気があるのに、病院も医師もものすごく少ない。ちょっとしたことで人が亡くなる。自分もいつ死ぬかわからない。我々と比べると、相対的に「命が短い」という認識があって、だからみんな欲望のままに、激しく生きようとする。過激な暴力に加担する人もいるし、人を激しく愛したりもする。

――ひたすら長寿を願い健康を気遣う我々の世界とは対極的です。

三浦 ただ、そんな真逆の世界だからこそ、僕らが学べることってすごくあると思うんです。一言で言うと、僕ら日本人は、もっともっと楽しく生きていい。もっと喜んでいいし、もっと悲しんでいいし、もっと自分の中にあるものを爆発させていい。人目を気にして型にはまって生きることに、どれほどの価値があるのか。いつも組織や上司の評価を気にして、その家畜のような人生をまっとうしたときに、誰に「評価」してもらうのか? ばからしい。自分の人生は自分で選び、自分の評価は自分で決める。アフリカの人々の自由に生きる姿を、僕らはあらためて見つめ直す必要があると思うんです。

――そうした何にも縛られない自由というのは、日本では特に難しく感じます。

三浦 ただ、誤解を恐れずに正直に言えば、日本は世界的に見ても断トツに平和で住みやすい国なんです。治安もいいし、食事もおいしいし、人々は優しいし、温泉もあって、文化はユニークで、サービスも素晴らしい。こんな国、世界中探したってありません。一方でひどく不幸に見えるのは、人々があまりにも周囲の目を気にして生きているということ。それは古くから続く家族制度のせいかもしれないし、学校の教育のせいかもしれないけど、これほど治安が保たれて統制がとれているがゆえに、そこから少しでもはみ出ると、「出る杭は打たれる」。今の日本で、生きづらさを抱えてる人とか、閉塞感を抱えてる人ってものすごく多いと思うんです。そういう人こそ、『沸騰大陸』を読んでもらうと、「ああ、人はこんなにも自由に生きられるんだ」と思っていただけけるんじゃないかと思うんです。アフリカには問題もいっぱいあるけれど、生きるヒントもいっぱいある。ガラクタも宝石もゴチャゴチャになって詰め込まれている、まるで「おもちゃ箱」みたいな大陸です。

写真家・三浦英之として

――三浦さんの著作の大きな特徴の一つが、著者本人が撮影した写真です。今回の『沸騰大陸』にも、表紙カバー含めて、多数の貴重な写真が収録されています。

三浦 海外メディアと日本メディアの大きな違いの一つに、ライターとカメラマンの分業制があります。海外メディアの多くは、ライターとカメラマンがそれぞれ完全に分業されているのに、日本では現場の記者が大抵、現場の写真撮影も担うことが多い。クオリティーとしては、前者の方がだいぶ良いものができるのですが、僕自身としては、後者の方が有り難く感じています。

――なぜでしょうか?

三浦 僕はそもそもカメラマン志望なんです。大学院を卒業した時の第一志望は、無謀にも米ナショナル・ジオグラフィックでした(笑)。僕はネイチャー・カメラマンになりたかったんです。職業記者になって感じることは、国内外のどの現場でも、やはりカメラマンは最前線に行く。一番危険なところ、一番ホットなところに、両肩に大きなカメラをガチャガチャぶらさげて行くんです。実にかっこいい。ライターは、そこからだいぶ離れた安全なところで記者会見に出たり、人々の話を聞いたりする。弾丸の飛び交うようなところで、人々の話は聞けませんから。でも、僕自身は現場の最前線に行きたいんですよ。だからいつもカメラを持って、僕は「一番前」に行きます。

――取材の最前線の空気が、写真からも文章からも伝わってきます。

三浦 でも一方で、僕は写真の人間じゃなくて、文章の人間なんだと自覚しています。写真に関しては、やはりプロのカメラマンのほうがうまい。文章については、これまでの積み重ねもあり、「商品」として人に読んでいただけるものを書ける自信があります。でも、僕はカメラを手放さない。なるべく最前線に行って、写真を撮り、そこで見たものを、感じたことを、自らの文章に置き換えていく。僕はそういう現場では意図的にズームレンズではなく単焦点レンズを使ってるので、どうしても対象に寄って行かざるを得ない。それも自分の文章に良い効果を与えてくれていると信じています。

――一人で両役をやってると、煩わしく感じることはありませんか?

三浦 全くないですね。逆に、取材対象者に真正面から向き合い続けていると、ちょっと照れて恥ずかしかったりするんですよ。でも、カメラを構えると、いろんな角度で寄ることができたり、「あ、この人、こんな表情するんだ」とかっていう発見があったり、文章を書くための、すごくいいツールになるんです。僕が「ノンフィクション作家」じゃなくて「ルポライター」を名乗っているのも、絶えずカメラを抱えて、現場にできるだけ足を運び、写真を含めた作品を作っているから、というのが大きな理由の一つです。

先人たちの轍の上を歩く

――三浦さんの作品には共通して、取材対象に鋭く切り込む視点と、取材当事者としての思いがにじみ出る部分とが絶妙にバランスしており、そこがとても印象に残ります。このあたりに関して、ご自分ではどう感じていらっしゃいますか?

三浦 これは、これまでルポルタージュやノンフィクションという分野を築きあげてきてくれた先人たちの影響です。僕は学生時代からこうした分野の作品を読むのが大好きで、例えば、開高健さんだったりとか、児玉隆也さんだったりとか、沢木耕太郎さんだったりとか、近藤紘一さんだったりとか。朝日新聞でいえば、本多勝一さんや伊藤正孝さんかな。そんな作家やジャーナリストの大先輩たちが書いた素晴らしい本があり、それを何度も何度も読み返してきた。そこにはやはり、取材対象やテーマの話だけじゃなくて、僕がいま作品化しているように、酒を飲みながら仲間とこう語り合ったとか、銃弾の飛び交う戦場を鉄兜をかぶって駆け抜けたとか、それぞれ取材する自分たちの話がいっぱい出てくる。それがいつも脳裏にあるから、「ああ、開高さんも多分こうやって取材していたんだろうな」とか、「近藤さんならどんなふうにアプローチしたかな」と考えながら取材しています。

――これから先、今度は三浦さんの作品を読んだ若い書き手が、同様に影響を受けることもありそうです。

三浦 影響と言えば、最近とても驚いたことがあります。1994年のちょうどルワンダ内戦の後、共同通信のアフリカ特派員で沼沢均さんという方が、ケニアからコンゴに向かう途中、乗っていたチャーター機が墜落して死亡しているんです。沼沢さんは3年間ぐらいアフリカ特派員をしていて、日本に帰任間際だったんですが、死後、『沸騰大陸』と同じような本を出しているんですよ。

――同じような本を?

三浦 そうなんです。『神よ、アフリカに祝福を』(集英社、1995年)という本なんですが、今読み返してみると、本当に『沸騰大陸』とそっくりなんです。それはご本人が帰国したら本を出そうと思って、ワープロの中に原稿を書きためていたのを事故後、当時共同通信のデスクだった辺見庸さんらが見つけて書籍化したらしいんです。辺見さんは『もの食う人びと』のアフリカ取材で、沼沢さんとつながりがあったそうなんです。もちろん、僕もその本をアフリカの赴任前に読んでいて、先日たまたま、沼沢さんが亡くなって30年という節目で、当時の同僚などが故郷の青森市にお墓参りに行くというので、同行させてもらいました。その際、『神よ、アフリカに祝福を』を久しぶりに読み直したんですが、自分でもビックリするくらい『沸騰大陸』と手触りが同じだった。30カ国ぐらいをめぐるルポで、ひたすら現地の人々の生活を書いている。あまりに共通点が多くて、読んでいて「ゾーッ」とするほどでした。『神よ、アフリカに祝福を』という作品をかつて読んで、こういうのを書けたらいいなという思いがどこかに残っていて、それに引っ張られる形で『沸騰大陸』ができたんだな、と。沼沢さんが僕の中に確かに「いる」。僕も新たな世代の書き手へ何か残すことができれば、嬉しいです。

新聞記者とルポライターの両立

――三浦さんはいまルポライターとして活躍する一方で、新聞社に所属する現役の記者でもあります。どのように両立しているのでしょうか?

三浦 最近よく「三浦さんは組織内フリーランスでいいですよね」って言われるんですが、大間違いです(笑)。周囲からは、僕があたかも筑紫哲也さんや本多勝一さんみたいに、会社組織に所属しながら自由に取材しているように見えているのかもしれませんが、実際はまったく違います。僕は現在、朝日新聞の盛岡支局に勤務する地方記者なんですが、地方記者は今、本当に大変なんです。というのは、メディアの経営が大きく傾いてきて、特に新聞は地方からまず人を減らしている。かつての半分から4分の1ぐらいの人数で、回しているのが実情です。その中で、僕は今年で言えば、全国版に年間2~3シリーズの連載記事を書き、新聞に170本の署名記事を書き、それとは別にネットサイトに100本以上の記事を出しています。その合間を縫って、ルポライターとして年に1冊のペースで本を出せるように、取材と執筆を続けています。

――合計すると驚くべき数の執筆量です。

三浦 正直、睡眠時間と命を削っています(笑)。1日のスケジュールとしては、まず朝は4時半とか4時40分ぐらいに起きる。だいたい午前5時から午前9時とか10時ぐらいまではずっと書籍用の原稿の執筆です。午前10時からは会社の勤務時間で、夜8時とか9時ぐらいまで働いて、帰ってきてすぐ寝る。翌朝、起きたらコーヒーとマンゴー入りのヨーグルトを食べながら、また書籍用の原稿を書く。僕は書籍用の原稿はだいたい十数回書き直します。それを1年間続けて、ようやく人に読んで満足してもらえるような「商品」に仕上げられる。

――そうした日課の一方で、SNSでの発信をみると、いつも熱心に地方や国外に出かけていらっしゃるような印象があります。

三浦 たとえば昨日(当インタビューの前日)は勤務先の盛岡にいて、今日は新潟に行ってから東京(当インタビュー会場)に来ています。明日は講演で名古屋に行き、来週は福島と茨城に行く。来月は沖縄と台湾にも行く予定です。現場を見たり現地の人の話を聞いたりすることがなにより大事なので、移動の労を惜しんではいけないし、交通費を削っちゃいけない、といつも自分に言い聞かせています。地方記者なので、東北以外への移動・宿泊はもちろん自腹です。でも、それをケチると世界が小さくなる。フリーのジャーナリストの方々の場合は、経費はみんな自腹ですし、私はずいぶん恵まれていると思っています。

――三浦さんがこれまで書いてきた作品の世界を思い返すと、とても説得力があります。

三浦 僕は最近はどこか、そうした移動距離が原稿の質を決めているんじゃないか、と考えている節があります。走りながら考える、ビジネスホテルやドミトリーの狭いテーブルの上でメモや原稿を書く、それが僕のスタイルなんじゃないかと。思えば『沸騰大陸』も、当時の膨大な移動距離によって成り立っている本です。200ページちょっとの中に、20カ国以上の生活や人生がちりばめられている。僕が移動した距離と、自分の目と耳で確かめた「物語」を、ぜひ読んでいただけたらと思います。

――『沸騰大陸』では、その膨大な移動距離の先に見えたアフリカの雄大な景色も、印象的に描かれていました。

三浦 アフリカでは、見渡す限りの大地や壮大な夕焼けとか、テレビや映画や写真で見たことのあるような絶景を何度も目にしますし、それはそれでとても感動するんですが、ともすると紋切り型になってしまうため、新刊の『沸騰大陸』には盛り込んでいないのです。ただ、そんな中でも、いま改めて心からの感動を思い出すのは、やはりアフリカゾウのことです。たまたま夕暮れ時、広大な草原で車のエンジンを止めて地平線を見ていたんですね。アフリカの地平線って、本当に丸いんですよ。そしたら地平線の向こう側がこう、黒くて太い線になって、ところどころに点々が見える。何だろうな、と見ていたら、その線がだんだん太く、大きくなってくるわけです。ズン、ズン、ズンって。それらが、はるか遠くからこちらに向かってくるゾウの大群なんだと気づいたときには、本当に鳥肌が立ちました。まるで地平線が動いてるみたいなんです。草原を埋めた数百頭のアフリカゾウの群れが、ブワーンとこっちに迫って来る。しかも先頭にいるのが、メスの一番の長老のゾウなんですが、それが鼻を高く押し上げ、耳をバタバタしながら、こちらを威嚇しながら迫ってくる。これを見たときは、もう胸がいっぱいで、アフリカに来て本当によかったな、と思いました。

――それは一度、ぜひ見てみたい光景です。

三浦 ぜひ、見てみてください。ゾウという生き物は、あまりに雄大で、優しく、彼らそのものが「大地」なんです。だからできれば、動物園ではなく、アフリカに出向いて、野生のゾウたちを見てほしい。僕はよく、周囲から「一匹狼」と言われますが、実はオオカミは群れで生活する動物です。一方、アフリカゾウのオスは大きくなると、群れを離れて一頭で行動します。だから僕も、「一匹狼」ではなく、「一頭象」と呼ばれたいです(笑)。

プロフィール

三浦英之 (みうら・ひでゆき)

1974年、神奈川県生まれ。朝日新聞記者、ルポライター。『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』で第13回開高健ノンフィクション賞、『日報隠蔽 南スーダンで自衛隊は何を見たのか』(布施祐仁氏との共著)で第18回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞、『牙 アフリカゾウの「密猟組織」を追って』で第25回小学館ノンフィクション大賞、『帰れない村 福島県浪江町「DASH村」の10年』で2021年LINEジャーナリズム賞、『太陽の子 日本がアフリカに置き去りにした秘密』で第22回新潮ドキュメント賞・第10回山本美香記念国際ジャーナリスト賞を受賞。

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