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塵芥の声を聴く~インビジブル・ダイアリー

木村元彦

人間の集団があれば多数派が生まれ、少数派の声はかき消される。 権力に、社会に、時流によって圧しつぶされるひとたちが叫んでいることは何か。 ジャーナリスト木村元彦が現場に行き、当事者に会い、その言葉を聴いて伝えたい、マイノリティの記録。

バンクシーに先駆けた反戦平和の詩画人、四國五郎が描いたサッカーポスター

 五郎氏のサッカー熱は帰国後も醒めることなく、地元チームの東洋工業(現・サンフレッチェ広島)を熱心に応援していた。そして、『原爆詩集』が出された年にサッカー国際試合の宣伝物を書いていた。それは記念すべき戦後初の日本国内での国際試合であった。来日したのはスウェーデンの強豪ヘルシングボリ。戦前のベルリン五輪(1936年)で、日本代表は優勝候補の一角であったスウェーデンを3対2で下していたため、同国のクラブチームの来日は興行的にも盛り上がった。しかし日本代表は、リベンジに燃えるヘルシングボリにはまったく歯が立たず、11月25日に西宮球場で行われた第1戦(観客1万2000人)は0対3、12月2日の明治神宮競技場での第2戦(観客2万人)は0対5と連敗を喫している。
 ヘルシングボリは滞在中、この日本代表戦2試合を含む6試合を戦ったが、五郎氏が開催に向けて筆をふるった試合は11月28日に広島で行われた広島選抜との親善試合であった。これは原爆の被害に遭った孤児たちのためにチャリティマッチをしたいというヘルシングボリからの申し出によって、広島県立広島国泰寺高校(旧制広島第一中学校)のグラウンドでの開催が決まったものであった。
 イギリスのロックバンド、レッド・ツェッペリンが1971年に来日した際、原爆ドームと広島平和記念資料館を訪問したジミー・ペイジ以下全メンバーが衝撃を受け、コンサートの収益を全額原爆被害者に寄付したことがあったが、それより20年前に海外のサッカークラブチームが、自発的に広島での被爆者支援を提案していたのである。まだ資料館どころか、原爆関連の報道が厳しい検閲を受けていた頃である。北欧のフットボーラーたちの平和に向かう想像力の高さを感ぜずにはいられない。

 さて、広島選抜との試合開催に向けての宣伝グッズを制作しようとなったときに、サッカーと平和を繋ぐ仕事として、五郎氏に白羽の矢が立ったのは、当然ではあった。しかし、シベリア帰り故にソ連のスパイとしてGHQにマークされていたであろう人物にオファーを出した広島県サッカー協会も腹が据わっていたとも言える。五郎氏は1949年、国会でシベリア抑留時代の陸軍上級兵士たちの横暴極まる振る舞いを告発証言までしていたのである。
 四國さんが持つ五郎氏の日記によれば、広島県サッカー協会から依頼を受けたのが、11月9日と記されていたから、時間のない中での創作作業であったことがうかがい知れる。試合当日、招待された五郎氏の日記には、「午后三時からサッカーをみる スエーデン対全ヒロシマ ヒロシマのチームも前半は一寸○○○○(4字判読できず)ただ後半は実によくやって しかしスエーデンチームはすばらしく3:0 おわったのが五時」とある。


試合当日の日記(資料提供:四國光氏)

 サッカーライターの草分けである賀川浩氏は当時、来日したヘルシングボリを、キック&ラッシュではなく中盤を繋ぐ技術を活かしたチームと高評価しており、五郎氏の見立てと共通する(このヘルシングボリ観戦記がきっかけで賀川氏はサッカー記者になるのである)。
 竹腰(たけのこし)重丸監督率いる当時の日本代表メンバーには、まだ長沼健、岡野俊一郎の名前はなく、ウイングで名を馳せた木村現(あらわ)、長年にわたる記者活動からFIFA会長賞を受賞した賀川浩氏の実兄・賀川太郎などが中盤を担っていた。一方、広島選抜には地元東洋工業の渡部英麿、下村幸男、小畑実に加え、特筆すべきは、まだ高校生だった福原黎三(広島県立西条高校)がHB(ハーフバック)として先発メンバーに抜擢されている。福原はやがて、東京教育大学で伝説的なキャプテンを務めあげた後、埼玉県立浦和高校でサッカー部監督に就き、後に浦和レッズ社長、日本サッカー協会会長を歴任する犬飼基昭などを指導している。自身の高校時代のヘルシングボリ戦の貴重な体験を浦高生たちに伝えていたという。


先発メンバー一覧。『【栄光の足跡】広島サッカー85年史』(広島県サッカー協会発行、2010年)より抜粋
(資料提供:広島県サッカー協会)

 今年、日本代表は3月20日にアジア最終予選でバーレーンに2対0で勝利し、2位以上を確定させて8大会連続のW杯出場を決めた。もはやW杯の常連国となった日本サッカーであるが、先人たちが無償で築いてきたその礎の貴重な記録は驚くほど、残されていない。日本サッカー協会機関誌『蹴球』や『サッカー』などは、岸記念体育会館からの事務所移転の際に処分の対象となり、後になって個人所有のものを寄贈してもらって確保したという。はるか74年前に国内初の国際試合を宣伝した反戦詩画人、四國五郎氏の貴重な作品はどのようなものであったのか。キャッチコピーは? 字体は? デザインは? そこでは、戦後6年の復興の渦中でのサッカーや広島は、どう捉えられていたのか。作品が発見されれば、様々なものが可視化されるであろう。日本サッカー界が残すべき大切な資料としても未来に伝えるべきものである。

 四國さんは、ヘルシングボリ宛に問い合わせのメールを出した。
「74年前に貴クラブが来日した際に原爆孤児救済のために広島で試合をされました。そのときに持ち帰ったであろう宣伝グッズをお持ちではないでしょうか」
 同クラブにとっても歴史的な誉れであろうが、さすがに往時を知るスタッフはもういないのか、返事はまだないという。もしも日本国内でお持ちの方がいれば、広島県サッカー協会(https://www.hifa.jp/)までご一報いただきたい。
*写真の複写・転載を禁じます。

木村元彦 (ノンフィクションライター、ビデオジャーナリスト)

著者プロフィール

木村元彦 (きむら ゆきひこ)

ノンフィクションライター、ビデオジャーナリスト
1962年、愛知県生まれ。中央大学卒業。東欧やアジアを中心に、スポーツ文化や民族問題などの取材、執筆活動を続ける。著書に『誇り』(98年、東京新聞出版局)、『悪者見参』(2000年、集英社)、『終わらぬ「民族浄化」セルビア・モンテネグロ』(05年、集英社新書)、『蹴る群れ』(07年、講談社)、『社長・溝畑宏の天国と地獄』(10年、集英社)、『争うは本意ならねど』(11年、集英社インターナショナル)、『徳は孤ならず』(16年、集英社)、『橋を架ける者たち』(16年、集英社新書)、『無冠、されど至強』(17年、ころから)、『コソボ 苦闘する親米国家 ユーゴサッカー最後の代表チームと臓器密売の現場を追う』(23年、集英社インターナショナル)など多数。『オシムの言葉』(05年、集英社インターナショナル)で第16回ミズノ・スポーツライター賞を受賞。

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