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これからを生きる君たちへ~内村鑑三のことばを読む

川口好美

文芸批評家・川口好美が、内村鑑三がのこしたことばを読み解き、これからを生きるヒントを探る。

分かち合うことって何?

 神様はいるの? 宗教を信じるってどういうこと?
 かつて、そんな問いに全身で向き合った人物がいた。
 それが内村鑑三――。
 彼は後世に伝えたいことばをたくさんのこしていた。
 文芸批評家の川口好美が内村のことばを読み、十代の君たちへ向けてこれからを生きるヒントを探る。

〝こども〟と〝おとな〟の区別はどこ?

〝おとな〟ではないことを〝こども〟と表現しますね。でも、〝おとな〟〝こども〟って、ざっくりした、テキトーなことばだと思いませんか。親や先生は、みなさんになにかを強制したい時には「あなたはもう〝こども〟じゃないんだから」と言うけれども、いざ、やりたいこと、やりたくないことをみなさんが自分自身で決めようとすると、「あなたはまだ〝おとな〟じゃない」と言います。みなさんの意思を尊重しないための理由にしている。そんなふうに見えることが時々あるでしょう。
 それなら、〝おとな〟って、〝こども〟って、いったいなんだろう。〝おとな〟はきちんと基準を理解したうえで、この ことばを使っているのでしょうか。だいたい、〝おとな〟は、いつ〝こども〟でなくなったのでしょう。その時のことをはっきり覚えているのでしょうか。そうじゃない気がします。
 もしも〝こども〟と〝おとな〟の区別が、 ほかのひとの考えや行動を都合よくコントロールするために使われているのだとすれば、それはとても 残念なことですね。他人を自分自身で判断する能力がない〝こども〟だと決めつけて、〝おとな〟に従わせる。そんなことが昔から当たり前のように行われてきました。話し合いもせずに、勝手な線引きによって、他人の自由を奪ってしまう。それは、ちょっと難しいことばで言えば、「自己決定権」をないがしろにされている、ということです。でも、〝おとな〟だって、しょっちゅう間違ったことをするし、自分で決められずに他人の顔色をうかがっていますよね。どこかにほんものの〝おとな〟がいるのでしょうか。多くの場合、自分より力の弱そうな他人を〝こども〟扱いして、自分は〝おとな〟だと思い込んでいるだけなのではないでしょうか。

 たぶん、このような矛盾に傷つけられる機会が多いのが、いわゆる十代なのだと思います。とくに、この国の学校制度で中高生にあたる時期ですね。わたしがこの文章で、みなさん、と呼びかけるときにおもに思いうかべているのは、〝おとな〟がなにげなく口にする、もうとまだにひきさかれながら生きている、あなたなのです。これから先、わたしはなるべくわかりやすいことばでみなさんに呼びかけ、語り合いたいと考えています。それは けっしてみなさんを〝こども〟扱いすることではありません。
 やっぱり気になります。〝おとな〟って、〝こども〟って、なんでしょうか……。しっかりした考えを持っているのが〝おとな〟。そうじゃないのが〝こども〟。なるほど、そうかもしれません。ですが、〝おとな〟の考えってどんなものでしょう。たしかに〝こども〟とくらべて、〝おとな〟はたくさんのことを知っていますし、答えを出すスピードが速いですね。でも、それでほんとうに、自分の考えを持っていることになるのでしょうか。わたしは、むしろ反対じゃないかと思います。

 自分で考える、自分の考えを持つというのは、知っている範囲の知識でかまわないから、それを使って、シンプルに、じっくり、考えることだと思うのです。たとえるなら、車や飛行機に乗るのではなく、 ゆっくりと歩くように、考えを進めること。ウシやヤギ(反芻(はんすう)動物といわれます)が、すぐに食べ物を消化せず、何度も何度も かみしめて柔らかくしてから消化するように、知識を栄養にかえていくこと。時間をかけて物事を味わい、ひとつひとつ〝わかって〟いくこと。それが、「自分で考える」ということです。近ごろ は、インターネットの発達で、多くの知識を瞬時に集めて、答えにたどりつきやすくなりました。そのぶん、そんなふうに自分で考えることが難しくなっているなと感じます。

 自分で決められないこと、他人から決めつけられること、しかも、根拠のない〝おとな〟と〝こども〟の線引きによって、そうされること。これはとても大変で、辛いことですね。でもそういう時にこそ、みなさんには、たくさんのことを速く考えるのではなくて、 少しずつ、出来るだけゆっくりと考えてみてほしいのです。そうすれば、あせって無理をして〝おとな〟になるのとも、〝こども〟でいつづけるのともちがう、豊かな生き方の可能性が開けてくるのではないかと思うのです。
 先ほど、具体的に中高生と言いましたが、この学び合いに年齢は関係ありません。考えるという営みに〝おとな〟と〝こども〟の区別はないからです。だからこそ考えることにおしまいはありませんし、誰とでも共有することが出来るのです。自分なりのやり方で一生懸命考えている 時、あなたは〝おとな〟でも〝こども〟でもありません。ちょっとかたいことばを使いますが、あなたはその時、〈個〉なのです。わたしが思う豊かな生き方の可能性というのは、あなたがあなたとして、〈個〉として考えられるということです。まずは、それが大切なことです。

 ここまでの話を読んで、こんなふうに感じた人がいるかもしれません。自分は恵まれた環境で生きていて特別な悩みはないし、自分のやりたいことを自分で決められるから大丈夫だ、って。ひょっとすると、さらにこう考えているかもしれません。恵まれている自分は、恵まれていないひとの力になるべきだ。だから、そのために、正しい知識をたくさん身につけて、成長しなければならない、って。
 それは素晴らしいことです。でも、そんなあなたにも、時々立ちどまって大事にしてほしいのが、やはり〈個〉のことなのです。〝おとな〟を見ていて、不安になることはありませんか。社会の常識を身につけて、複雑な計算をして、正しい答えを導き出せるようにならないと、自分の存在を認めてもらえないのかもしれない、って。でも、そうではないんです。あなたが生きる意味は、あなたが〈個〉であるという、ただそれだけの事実のなかにあります。あなたが誰かの力になれたり、逆に誰かがあなたの力になってくれたりするのは、〈個〉と〈個〉が出会い、向き合った結果なのであって、けっして知識や計算によるものではありません。
 あなたという〈個〉がこの世界に生きていて、同じ世界にあなたとはちがう誰かが〈個〉として生きている。出会うこともあれば、出会わないこともある。たまたま協力し合えることもあれば、協力出来ないこともある。そんな出来事の積み重ねのなかで、ゆっくりと、自分の考えが形づくられていく。生きていくことは、それだけで十分なはずなのです。
 さて、わたしは、少なく、ゆっくりと考える時間を、みなさんと共有したいと願っています。知識を伝えるのではなく、それぞれ異なる〈個〉が共に学び合う経験を、みなさんと分かち合いたいのです。その理由がわかってもらえたでしょうか。

〝考える〟ことは不思議で楽しいことだ

 次回以降のために、具体的な話もしていきましょう。
 わたしはこの連載を、内村鑑三という人の生き方やことばを参考にしながら進めていくつもりです。内村鑑三は江戸時代の終わり頃(1861年 万延2年)から、昭和という時代のはじめ頃(1930年 昭和5年)まで生きた人です。歴史の授業で名前を聞いたことがあるかもしれません。彼が有名なのは、熱心なキリスト教徒として様々な活動をし、およそ百年もたった今読んでも面白い本を書き遺(のこ)したからですね。
 キリスト教には、『聖書』という本があります。キリスト教徒は『聖書』を大事にし、そこに書かれている神を信じています。みなさんは疑問に思うかもしれませんね。ついさっき、自分で考えることが大切だと言ったばかりじゃないか。本に書かれたことを信じ、目に見えない神なんてものを信じるのは、自分で考えることと正反対じゃないのか、って。
 とても鋭い指摘です!  少し、遠回りさせてください。
 一生懸命なにかを考えるのが楽しいのは、わからなかったことが〝わかる〟ようになるからです。ためしに〝わかる〟の、漢字を思いうかべてみましょう。「分」「別」「解」……。〝わかる〟っていうのはつまり、かたまりをばらばらにし、くらべて、それぞれの違いをはっきりさせることなのですね。そうすることで、細かくものが見えるようになる。それが〝わかる〟ことです。この説明だと、冷たくて、さみしい感じがありますね。じっさい、〝わかる〟ことと「別」れることには、深い結びつきがありそうです。「別」れたからこそ、そのひとやそのものの本質がよく理解される。そんなことがときどき起こります。

 でも、それだけではないと思います。たとえば、小さな子どもが、ことばと世界の関係を〝わかる〟場面を観察すると、生き生きしていてとても楽しそうです。花の名前をあたらしく覚えた子どもが、散歩中にその花に出会うと、目を輝かせて指さし、覚えたての名前を呼びます。幸せそうに、一度ではなく何度も繰り返します。なにがそれほど嬉しいのでしょう。
 指さし、名前を呼ぶことは、目の前の風景からその花を切り「分」けることです。その子は、こう感じていたのではないでしょうか。魔法を使うみたいに、自分がこの花に命を「分」け与えたんだ。だから、これまでは風景のなかにぼんやり溶け込んでいた花が、ぐっと鮮やかに輝いたんだ、って。もちろん、この瞬間、輝いているのは花だけではありませんね。子どもの命も、つよく輝いています。おたがいが、輝きを分け合っているように思えます。
 ちょっと大げさかもしれませんが、〝わかる〟っていうのは、こんなふうに命の輝きを「分」かち合い、「分」け与え合う経験のことだと思うんです。それぞれが「分」かれ、「別」れながら、それでもたしかに、この世界のなかで結ばれ合い、たがいに命を分け合っている。そのことを喜び合うのです。日々の勉強に追われて大変なみなさんには、とても呑気な話だと思われるでしょう。それでも、みなさんの考えることの根っこに、いつも、こういう〝わかる〟喜びがあってほしいし、あるにちがいないと、わたしは信じています。
 わたしは、本を読んで考えることが好きです。深く考えながら生きた他人の人生とことばに触れて、その他人と共に考えている時に、〈個〉としての自分をはっきりと感じることが出来るからです。そしてそれは、他人の人生とことばを輝かせ、他人を〈個〉として強く感じ取ることでもあるのだと思います。子どもが、花の名前を 呼んで、その花を輝かせるみたいに。だから、たとえば内村鑑三の本を読んで、彼の人生やことばについてなにかが〝わかる〟ことって、内村鑑三からなにかを与えられるだけではないんですね。こちらからも内村鑑三になにかを与えることになるのです。

 こんなふうに、考えることって、〝わかる〟ことを他人と共有する不思議な、楽しい経験なのです。
 さて、『聖書』という本は、様々な時代の人たちが、神について書いたたくさんのことばを集めたものなんですよね。その人たちはみんな、神を見たわけではないけれども、心で神を感じたのだと、内村は言っています。それだから、内村はこう考えるのです。『聖書』はとても大切なんだけれど、あくまでも人間が書いたものだから、ただ崇拝して満足してはいけない。『聖書』は、ちゃんと利用してこそ意味があるんだ、って(内村の『宗教座談』という本の、「第三回 聖書の事」を参照しています)。
『聖書』を利用するって、どういうことでしょう。内村はよく「実験」という言葉を使って説明しています。本で読んだり、話で聞くだけではなく、自分でじっさいに経験してみる、ということですね。知識として神を知るのではなくて、まず神を「実験」する。つまり、神を信じ、神を感じながら、生きてみる。その「実験」の後から『聖書』を読めば、色々な事柄が確かめられて、納得してまた新しい「実験」を行える。そういうことのようです。

 どうでしょう。これって、本を読んで考えることがただ単に知識を得ることではないのと、つながっている気がしませんか。『聖書』は、ゆっくり考えながら生きていく自分と、神との分かち合いの場所であり、神と共に生きようとしたたくさんの人たちとの分かち合いの場所なのだ。内村は、そんなふうに言いたいのではないでしょうか。
 いや、それでも、神のようなよくわからないものを先に信じろなんて言う人が、自分自身で考えることを大切にしているはずがない、とみなさんは思うかもしれません。これは貴重な疑問ですので、この先もずっと忘れないようにするつもりです。

宗教って何だろう?

 わたしが、みなさんと一緒に神や宗教について考えてみたいと思った直接の理由は、2022年7月に発生した、安倍晋三元首相の銃撃事件なんです。覚えていらっしゃいますか。山上徹也という人が、演説をしていた安倍晋三を手づくりの銃で殺した事件ですね。山上徹也は、自分のお母さんが「統一教会」(現在は「世界平和統一家庭連合」と名前がかわっています)という宗教組織に入ったせいで自分の人生がめちゃくちゃにされてしまったと考え、「統一教会」を恨んでいました。「統一教会」は朝鮮で生まれた宗教で、信者の人たちは、キリスト教の『聖書』を大きくアレンジした教えを信仰しています。朝鮮でキリスト教や、キリスト教をアレンジした宗教が盛んなのには、日本が朝鮮を侵略し、朝鮮の人々を虐げてきた長い歴史が関係しています。そして、山上が安倍を狙ったのは、「統一教会」が日本に進出するきっかけを作った岸信介という昔の政治家(この人も首相でした)の孫である安倍が、「統一教会」をサポートしていると考えたからです。このような山上の観察は正しかったと、わたしは思います。


内村鑑三

 事件の後、テレビや新聞にあふれていたことばが、わたしはイヤでたまりませんでした。自分自身で真剣に考えたことばが、全然なかったからです。多かったのが、〈安倍晋三がどんなに悪いことをしたとしても、直接攻撃するのは絶対によくない〉という意見。ほんとうにそうでしょうか。なぜそう考えるのでしょうか。政治家を直接攻撃するのは、ひとびとが選挙をつうじて自分の意見を表明し、物事をかえていく「民主主義」をこわすことになるからでしょうか。では、その「民主主義」という仕組みをうまく使って悪いことをする政治家があらわれた場合は、どうすればいいのでしょう。これはとても難しい問題ですね。しかし、そういうところまで考えたうえ での意見は、見当たりませんでした。

 宗教についても、そうです。宗教の話題は出来るだけ避けるか、「統一教会」ってこんな困った組織なんだよと面白おかしく伝えるか、そのどちらかばかり。わたしが小さい頃、オウム真理教というグループが事件を起こした時も、同じような感じだったんですよ。なぜ神を信じる人たちがいるのか。どんな人が宗教を必要としているのか。そもそも神って、宗教ってなんなのか。すごく気になりましたが、わたしの周りにいた〝おとな〟はあまり考えたくなさそうでした。 それはよくないことだな、と思います。
 山上徹也は、自分なりによく考えて、あんなことをしたのではないか。わたしは徐々にそう考えるようになりました。山上には〈個〉としてのことばがあるのではないかと思ったんですよね。彼がSNSに書き込んだ文章を読むとわかりますが、どうして自分の人生がこんなふうに辛くなったのか、そこにはどんな理由が絡み合っているのかを、探しているんですね。彼の問いは、少しずつ深くなっていった。その先に事件があった。そんな気がしたのです。

 わたしがとくにそう感じたのは、山上がTwitter(現在はXです)というSNSに書き込んだ、こんなことばでした。「だがオレは拒否する。『誰かを恨むでも攻撃するでもなく』それが正しいのは誰も悪くない場合だ。明確な意思(99%悪意と見なしてよい)をもって私を弱者に追いやり、その上前で今もふんぞり返る奴がいる。私が神の前に立つなら、尚の事そいつを生かしてはおけない」(※註)
 自分の不幸の理由をよく考えてみて、誰も悪くないとわかれば、他人を恨まないようにする。でも、誰かの悪意の結果なら、自分は怒り、たたかうんだ。それが正義なんだ。そういう決意を書いているんですね。殺さないことよりも、殺すことのほうが大事な場合があるはずだ、と考えたのです。しかも、「私が神の前に立つなら」って言うのです。どういうことでしょう。なぜ、正義について真剣に考えて、いきなり神という言葉が出て来たのでしょうか。山上は、神の存在を信じる宗教に、嫌な思いをさせられたはずなのに。
 みなさんのごく当たり前の暮しや悩みについてゆっくりと考えていくうちに、そんな難しいことも〝わかる〟といいな、と思っています。
 ではみなさん、さようなら。

(※註)
「だがオレは拒否する」というのは、杉田俊介という批評家がインターネットの記事で書いた、「弱者男性」と呼ばれるような人間でも、誰かを恨んだり攻撃したりせずに生きていけるんじゃないか、それが未来の人々の希望や勇気になるんじゃないか、という意見を受けてのものです。つまり山上は、杉田俊介の言っていることもわかるけれど、でも自分はその意見を受け入れられないと言って、その理由を書いているんですね。
 山上徹也がSNSに書き込んだことばについては、五野井郁夫と池田香代子が書いた『山上徹也と日本の「失われた30年」』(集英社インターナショナル)という本でくわしく紹介されています。よければ参考にしてください。また、「弱者男性」は、人によって様々な捉え方がある概念です。気になる方は杉田俊介の『男がつらい!――資本主義社会の「弱者男性」論』(ワニブックス)などを読んでみてください。

川口好美 (かわぐち よしみ)

著者プロフィール

川口好美 (かわぐち よしみ)

文芸批評家
1987年大阪生まれ。2016年、「不幸と共存──シモーヌ・ヴェイユ試論」(『群像』2016年12月号、第60回群像新人評論賞優秀作)でデビュー。2021年から、静岡県川根本町の小集落・沢間で「本とおもちゃ てんでんこ」を家族で営む。著書に『不幸と共存 魂的文芸批評』(法政大学出版局)がある。

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