角田光代さん
インタビューinterview

角田光代さん

苦悩の小説家だからこそ生まれた
かけがえのない愉悦の表現

角田光代(作家)

開高 健のアマゾンへの二カ月に及ぶ旅から生まれた『オーパ』。刊行から40年以上経過した今でも、多くの人を引き付けてやまない。その復刻版の発売にあたり、開高 健ファンでもある、角田光代に改めて『オーパ』の魅力について聞いた。

わたしが、はじめて開高 健の小説を読んだのは28歳のとき。『輝ける闇』でしたが、たまたま小説の舞台でもあるベトナムを旅行したときに読んだこともあって強い感銘を受け、以来、開高作品を次々と読みあさってきました。『オーパ』も若い頃に文庫版で読みましたが、今回、開高 健の生誕90周年を記念して大きな書籍版が復刻されるということで、改めて読み直してみました。
『オーパ』をはじめて読んだときに感じたのは、とにかく「楽しそう!」ということ。わたしは釣りのことをまったく知らないのですが、それでも読者をグイグイとアマゾンの奥地へ、『オーパ』の舞台へと引き込んでいくのは、まさに開高 健の筆力のなせる業です。そして、その文章の向こうに彼が童心に返ってピラルクーやドラドといった怪魚に挑む姿がはっきりと浮かび上がってきたのです。しかし自分が、アマゾンに行ったときの彼の年齢を越え、また小説家という同じ職業に就いて30年という歳月を過ごしてから読み返すと、楽しげな冒険旅行を繰り広げながらも、彼は苦悩とともにあったのではないかと考えさせられます。
やはり、開高 健という作家は、苦悩と小説、あるいは苦悩と芸術を不可分のものとして捉え、創作活動を続けてきたのだと思います。そして、その苦悩を背負いながらの、かけがえのない愉悦をストレートに表現していることが『オーパ』の魅力になっていると思います。

旅でも書くことからは逃れられない

たとえば、『オーパ』の第八章「愉しみと日々」に次のような文章があります。
《飲むだけ飲み、食べるだけ食べ、人びとは眉をひらきにひらいて微笑して手をふり、東西南北へ散っていった。空と地平線にそそりたっていた、塔のような、帆船のような、大爆発のような積乱雲は輝かしい白皙を失い、たれこめる雨雲に犯されて、夕陽があちらこちらに傷のように輝いている。私はナイフの刃についた脂と血を新聞紙でぬぐって革鞘に納める。(中略)これからさき、前途には、故国があるだけである。知りぬいたものが待っているだけである。口をひらこうとして思わず知らず閉じてしまいたくなる暮しがあるだけである。膨張、展開、奇異、驚愕の、傷もなければ黴もない日々はすでに過ぎ去ってしまった。手錠つきの脱走は終った。》2カ月にも及んだ旅の締めくくり、お世話になった人たち100人を招き、日系人の方が経営する牧場から譲ってもらった若牛一頭を屋外で丸焼きにして、ブラジル名物のシュラスコを振る舞ったあとの記述─。ここにある「手錠つきの脱走は終った」という一文を、若い頃にはスーッと読み飛ばしてしまっていました。しかし、読み返してみて「そうか、開高 健という人は21歳で牧羊子夫人と同棲を始めて、その年のうちに長女が生まれて、以来、ずっと生活と向き合い、仕事から逃げられずに書き続けてきたのか」と思いが巡ったのです。
〝旅する作家〟として知られた開高 健は、『オーパ』以前にも毎年のように、多いときには年に2度、3度と世界各地に赴いてきました。ベトナム、中国、旧ソ連、東欧、アフリカ……。
しかし、それらの旅も取材のため、書くことを目的としたもの。つまり、バカンスなどではなく、仕事の出張だったのです。もしかすると開高 健は、なにもせずに過ごすバカンスとしての旅は一度もしたことがなかったのかもしれません。ただ、わたしは、そんな旅を彼は望んでいなかったはずだとも思っています。ベトナム戦争を取材し、九死に一生を得た旅に比べれば、『オーパ』の旅は大好きな釣りが目的なので、開高 健もおおいに楽しみ、それが文章にも表れているのは当然でしょう。しかし「手錠つきの脱走は終った」という一文は、大好きな釣りが目的であっても、やはり書くこと、すなわち生活につねに追われていた開高 健を浮かび上がらせるのです。
このシュラスコを大盤振る舞いした場面には、譲ってもらった若牛がビール代も込みで15万円だったことも書かれています。その金額について「ケタが一つ違ってるんじゃないか、そうでなかったら遠慮してらっしゃるのでは、と何度もダメをおしたけれど、その数字はうごかなかった」と。この文章も、わたしは今回、読んで泣きそうになりました。
開高 健はグルメ、大食漢としての〝伝説〟を数多く残していますが、その背景には少年時代の飢餓体験があったはずです。戦時中に12歳で父親を喪い、学校に弁当を持参することもできず、昼食時にはひとりで教室を抜け出し、水道水で腹を膨らませていたことを彼は幾度となく回想しています。そして、その飢餓体験と、のちの食通・開高 健は、作家としての成功を境に隔てられたものではなく、やはり不可分のものなのです。

角田光代さん オーパ!単行本

「書くこと」と苦闘する人生

わたしが「開高 健とパリ──解説にかえて」という一文を添えさせていただいた『開高 健のパリ』には、以下のようなエッセイが収録されています。
《両極端は一致するという定理がそろそろうごきはじめる。これは私の永いあいだにしらずしらずつけてしまった癖である。ほとんど病気といってよろしいものかと思われる癖である。戦中・戦後の窮乏期のことをつい、つい、思いあわせずにはいられなくなるのである。御馳走を食べると、きっとどこかで、昔のドン底を思いださずにはいられなくなるのだ。》(1974年初出『続・思いだす』より)ここにあるように、飢餓とグルメという「両極端」は、開高 健のなかでは「一致」しているのです。それを思いながら若牛一頭のシュラスコを大盤振る舞いして、これで15万円は安いデと言っている彼と文章のなかで出会うと、どうしても眼頭が熱くなるのです。
『開高 健のパリ』は、画家・ユトリロの作品を追いながら、パリについて書かれたエッセイを収録した書籍ですが、そこにはユトリロの「街景」という作品についての、こんな文章もあります。《ユトリロの創作力の質的な限界はだいたい1925年頃からである。その頃から彼は実人生においてめぐまれだし、リュシー夫人の保護をうけて、いわば、幸福な馬鹿になりだした。(中略)けれどこの作品には転回直前の光輝がうかがえる。雨あがりの道で女たちはうつくしく輝き、樹木も、空も、壁もぬぐいとったように新鮮で華麗である。》
要するに「ユトリロは、若いときはいい絵を描いていたけど、年をとって生活が安定してからの作品はつまらない、ぼやけた、平凡なものしか描けなくなった」ということですが、これを読んだときに、この人は「芸術家が金持ちになって、美食を楽しみながら安穏に暮らすことは許されない。それは創作活動とは相容れないものだ」という強い信念を持っているのだと感じました。
それが、冒頭で申し上げた「開高 健にとって苦悩と芸術は不可分のもの」ということの理由でもあります。そして、そういった開高 健を巡る読者体験を経て、すごく楽しそうに釣りに熱中し、その楽しさが伝わってくる文章を書いた『オーパ』からも、改めて読み直してみると、やはり書くこととの苦闘が滲み出ていることに気づいたのです。
開高 健の小説では『青い月曜日』も好きですが、やはり、わたしのなかでは『輝ける闇』が彼の最高傑作です。海外での評価も含めて一般的には『夏の闇』を代表作として挙げる方が多いようですが、個人的には『輝ける闇』がいちばん。やはりベトナム戦争という、当時、世界中が注視していた歴史的事件の現場に身を投じて、自身も戦場で九死に一生を得るという体験を通じて書かれた作品ですから、命のぎりぎりで書いた切実さを、どうしても読み取ってしまうのです。
開高 健は苦悩と創作を不可分とした作家で、『夏の闇』もテーマは苦悩と言っていいでしょう。しかし『夏の闇』で取り上げている苦悩はなにかというと、わたしには『輝ける闇』を生んだベトナムの戦場を体験してしまったこと、小説家として『輝ける闇』という頂点に達してしまったことの苦悩のように思えるのです。

ノンフィクションを書くということ

今回、『オーパ』が開高 健にとって「どんな時期に書かれた作品か」を知るために年譜も改めて検証してみました。開高 健は小説家として文学史に残る作品を書き、いっぽうで多くのすぐれたノンフィクション作品も残しました。「ふたつの顔を持つ作家」と言えるかもしれませんが、年譜を通じて開高 健のキャリアを俯瞰すると、『オーパ』をはじめとするノンフィクション作品が書かれた時期というのは、彼にとって、もしかすると〝小説が書けなかった時期〟と重なるのではないでしょうか。
1958年に『裸の王様』で芥川賞を受賞して以降、『日本三文オペラ』(59年)などを発表した数年間が小説家として最初の充実期だったと言えるかもしれません。その後、68年に『輝ける闇』、71年に『夏の闇』を発表した頃が第二の充実期と言えるでしょう。そして、この最初の充実期から『輝ける闇』へと向かう期間に、開高 健がノンフィクションの分野で最初に世間を刮目(かつもく)させた『ずばり東京』(63~64年)が発表され、ベトナム戦争を取材した『ベトナム戦記』(65年)が書かれました。つまり、開高 健は「頭の地獄に堕ちたら、とにかく手足を動かせ」という自身の言葉通り、現地を取材し、ノンフィクションを書くという作業を通じて小説家として次のステージに上がっていったように思えるのです。
わたしは、開高ファンを自称しているわりには、自分ではノンフィクションを書きたいという願望が皆無と言っていいほど、ありません。また、自分には書けないだろうな、とも思います。もちろん、文学の世界でノンフィクションが大きな意味を持つジャンルであることは承知しています。開高ファンであることを公言しているからなのか、前回の東京五輪を目前に控え、激変していく東京を開高 健が『すばり東京』というノンフィクションにして残したように、わたしに2020年の東京五輪をレポートしてくれというお話は、いくつかありました。しかし、そもそも、わたしにはノンフィクションを書く前提となるべき「これを記憶しておかなければ」という意識がないのです。
ただ、結局、五輪は延期になって、2021年に開催できるかどうかも危うい状況です。この状況、本当ならば若いアスリートたちの活気で充(み)ちていたはずの選手村が無人のままといった異常事態は、誰か優秀なノンフィクション作家が書けば貴重な記録になると思います。
『オーパ』もノンフィクション、また釣り紀行で新境地を拓いた作品です。わたしは、この作品を開高 健が残せたこと、この旅に2カ月も身を投じていたことは、彼にとって至福のことだったと思います。『輝ける闇』は、ベトナム戦争を取材した『ベトナム戦記』というノンフィクション作品があって、同じ体験をもとに生まれた小説です。しかし、『オーパ』の旅をベースにした小説を彼が書くことはなかった。やはり、その時間は、あまりにも楽しく、苦悩の作家が小説にしようと考える対象ではなかったのでしょう。それだけ、純粋なよろこびに充ちていたのだと思います。
2010年に発行された『直筆原稿版 オーパ』も読みましたが、わたしも同じように文筆で身を立てている人間として本当に驚きました。なにがというと、加筆・修正の少なさです。創作と苦悩を不可分としていた作家ならば、原稿用紙にその格闘の痕跡が残されていても当然のことです。わたしも含めて、いまパソコンを使って原稿を書いている作家も、何度も削除キーを押したり、文節を入れ替えたりという作業をしていますが、原稿用紙にインクで文字を書いていた時代には、そういった作業の痕跡がアナログの形で残されているのが普通なのですが、それが驚くほど少ない。
開高 健の文体の特徴は、作品を愛読している人なら誰でも知っている通り、言葉を重ねて表現することです。前掲したシュラスコの場面の記述でも、積乱雲のことを「塔のような、帆船のような、大爆発のような」と形容詞を幾重にも重ねて表現しています。もちろん、同じような形容詞が重複されているようでありながら、じつは無駄なく、少しずつアングルを変えながら対象物のイメージを鮮明に浮かび上がらせるための仕掛けなのですが、それを読者を退屈させることなく意図通りに実現するには言葉の吟味・厳選が必要です。そんな文章をスラスラと、ほとんど書き直しもなく、整然と原稿用紙に記していたことは同じ小説家として驚くほかありません。
おそらく、開高 健は「対象物を無駄なく、正確に表現する文章を書く」ということでは、ほとんど苦労しなかった作家なのだと思います。しかし、小説に関してはつねに苦しんでいた。
その苦悩の闇の深さが、『オーパ』という閃光(せん こう)の輝きを生んだと言えるかもしれません。

作家が描く旅の普遍性

『オーパ』のような旅に行ってみたいかと問われれば、絶対に無理と答えます。それは、はじめて読んだときの感想でもあるし、当時のアマゾンはまさに〝秘境〟で、安穏と旅することはできそうもない。けれど猛烈にうらやましく感じます。そんな、わたしのような旅好きに「絶対に無理」と思わせる旅を優雅に、釣りに熱中しながら古代中国の大人(ターレン)を思わせる態度で書いた文章が、この作品の魅力だと思います。
わたしが『輝ける闇』という開高作品にはじめて触れたベトナムの旅を振り返ってみると、それは1995年のことで、旧南ベトナムのサイゴン(現ホーチミン市)が陥落して南北統一という形でベトナム戦争が終結してから20年。『輝ける闇』を生んだ開高 健のベトナム戦場取材からは30年が経過していました。また、86年に掲げられたドイモイ(経済刷新)政策がすでに進み始めていて、経済的には上昇気流にあったと思います。
しかしベトナムの市街にはまだまだ戦争の疵痕がそこかしこに残っていました。そんな町を歩いていると、まさに夜間外出禁止令が出されている『輝ける闇』の時代にタイムスリップしたような錯覚を抱きました。戦争の犠牲となった人たちの姿も多く見かけました。
手足を失った人がスケートボードに乗って移動していたり、米軍が試用した枯れ葉剤の影響で奇形児として生まれた赤ちゃんを抱いた母親が物乞いしていたり……。20年以上の時間を経ても、戦争の痕跡はこんなに残っているのかと驚きましたが、もしかしたら開高 健が描いた戦時の町を、無意識に重ねて見ていたのかもしれません。描かれたベトナムも、その時点でのベトナムも、同じ匂いがしたからです。
『輝ける闇』で開高 健は「匂いを書きたい」「匂いは本質だから」と幾度となく書いていますが、まさに開高 健は本質を描くことに成功したのだと思います。これは、フィクションかノンフィクションかを問わず、すぐれた作家が現地に取材して書いた作品に共通して言えることではないでしょうか。
特に『オーパ』は紀行文、旅行記ですから、小説以上に当時の取材地の現実を伝え、それは、時間を越えた普遍性を持つものだと思います。復刻された『オーパ』を読んでアマゾンに行ってみれば、アマゾンがすでに秘境でなくとも、きっと開高 健が書いたままの『オーパ』の世界に触れることができるだろうと思っています。

「kotoba 2021年冬号」より