翻訳家・株式会社リベル代表取締役
山本知子さん の「マイ・ストーリー」
流れを受け入れて、翻訳の道へ

 振り返ってみると、人生の転機と言えるようなときはいつも、「おもしろそう!」という自分の気持ちに正直に、そのときの自然な流れを受け入れてきたように思います。ですから、なにか新しいことを始めるときに不安になるということもあまりなかった気がします。
 フランス語の翻訳をするようになったそもそもの始まりは、通っていた高校でフランス語を教えてくれたので、英語ではなくフランス語を選択したことでした。先生に「フランス語で受験できる大学は少ない」と脅されたりもしたのですが、同級生のほとんどが英語を選ぶ中、学年で10人ぐらいしかいないフランス語選択の方がなんだかおもしろそうに思えたんですね。大学4年生のときに就職活動せずフランスに語学留学したこと、アルバイトをきっかけにフリーでフランス語の実務翻訳の仕事を始めたこと、そして書籍の翻訳をするようになって同業者と会社を立ち上げたこと……どれも思いがけず人生に舞い込んできたことを「おもしろそう!」と選んできて、それが今につながっているという感じがします。
 結婚後に会社勤めもしましたが、子どもが生まれるとフルタイムで働くことが難しくなり、また実務翻訳の仕事に戻りました。翻訳は自宅でできて時間の融通も利くし、仕事の出来さえよければ、性別も年齢も子どもがいるかどうかも関係ないので、育児との両立もしやすかったです。それでも「世の中で私ほど忙しい人はいない!」というくらい毎日フル回転で、小学生の長女の手も借りないと、とてもやっていけませんでした。長女は赤ん坊だった次女をおんぶしてピアノの練習をするなど、まるで「平成のおしん」状態でしたね(笑)。
 多言語の翻訳者仲間と立ち上げた今の会社も設立から16年が経ちました。出版不況にもかかわらず、おかげさまで年間100冊近くの依頼をいただいています。世界各国の書籍を通して、「今、時代はAIね」「北欧のライフスタイルが人気なのね」など、時代の動きをダイレクトに捉えられるこの仕事は、とても刺激的で興味が尽きません。

 外国語で書かれた本を日本語にするとき、訳す人によって文体はもちろん、空気感のようなところまで違ってくるので、翻訳者との相性はとても大切です。『マイ・ストーリー』の翻訳は、やはり働き盛りの女性に任せたいと思い、ノンフィクションを得意とする30代のふたりの女性翻訳者に訳してもらいました。ふたりとも、「ぐいぐい惹き込まれました!」「この本の翻訳ができて本当に嬉しいです」と心から楽しんで仕事をしてくれたのですが、これは翻訳者にとっても作品にとっても幸せなことだったと思っています。
 ミシェルの人柄は、彼女の英語にも表れていると感じます。とても優秀な人ですから、もちろん非常に知的できちんとした英語なのですが、それと同時にけっしてお上品すぎない、等身大の言葉なので親しみを持てます。とても自然体で、いい意味で普通の感覚を持った女性なのだと思います。

 これまで何冊もアメリカ大統領ファーストレディーの回顧録は出版されてきましたが、これだけのボリュームの本はほとんどないと思います。それでも全世界で1000万部超という大ヒットとなったのは、やはりそれだけミシェルは特別な存在感を持つファーストレディーだったということでしょう。本書は、アメリカ史上初の黒人大統領の時代を記した歴史的証言です。ただ、黒人であることがミシェルにとって大きな意味を持つのは間違いないとしても、それは彼女の人生の一部であって、女性であることも含めた様々な要素がミシェルという人間を形づくってきたことが本書を読むとわかります。そんなバランスの良さは『マイ・ストーリー』が世界的ベストセラーになった大きな理由だと思いますし、誰が読んでもどこかに必ず「そうそう!」とうなずきたくなる共感ポイントがあるんです。

 この本は、自分の人生を生きようとする女性たちの、世代を超えた物語でもあると思います。たとえば、ミシェルが高給が保証された職を辞めるかどうか悩んでいるとき、彼女のお母さんがくすりと笑って「幸せについてくよくよ考えるのはお金を稼いでからにしなさい」と諭すんですよね。自分の食い扶持は自分で稼ぐということも含め、自立して生きていくことの大切さをミシェルはお母さんから学び、そんな母の教えをふたりの娘たちや次の世代に手渡していっているはずです。私もきっと、ふたりの娘に知らず知らずのうちに伝えていることがあるのだろうと思いました。もし、ミシェルと話をする機会があれば、女性として、母として、いろんな話で盛り上がれるような気がします。

文/加藤裕子 写真/佐賀章広