エリートたちの蹉跌 陸士16期と日本陸軍 軍司貞則

最終回

遅れてきた男

更新日:2023/07/26

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東條英機とその父

 大正10年(1921年)10月28日に、遅れてバーデン・バーデン駅に降りたったのは、東條英機である。
 説明するまでもなく、太平洋戦争開戦時の総理大臣兼陸軍大臣兼内務大臣。日本を戦争の泥沼に導いた男といわれる。
 戸籍の上では明治17年(1884年)12月30日東京生まれ。だが、事情がありいったん里子に出されてから出生届が提出されたため、実際は7月30日生まれだという。
 学習院初等科から城北中学を経て、明治32年(1899年)、東京陸軍地方幼年学校入学。明治38年(1905年)3月に陸軍士官学校を卒業した。17期である。大正4年(1915年)、陸軍大学卒業(27期)。
 “三羽烏”の1期下だが、陸士時代から彼らと交流が深かった。東條は陸大受験を二度失敗しているのだが、永田鉄山、岡村寧次らは小畑敏四郎の家の2階で東條に受験勉強を教えていたという。
 東條は大正10年7月からベルリンの大使館付武官としてドイツに駐在していた。
 東條をバーデン・バーデンに誘ったのは岡村のようだが、東條は会合参加に積極的で熱心だった。
 なぜか。
 東條は物心がついて以来、父・英教(ひでのり)から陸軍における山縣有朋と長州閥の横暴を、暗記できるほど聞かされて育ったからである。
 37歳になっても、父の長州閥への恨みのことばは忘れず、東條の胸の中で蘇り、思いはますます強くなるばかりだった。


東條英機
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)

 東條の父・英教は安政2年(1855年)11月、南部藩(現在の岩手県中部、青森県東部、秋田県北東部にまたがる地域が所領)のお抱え能楽師の家に生まれる。南部藩は奥羽越列藩同盟に参加、官軍に抵抗して最後まで戊辰戦争を戦った “賊軍”の藩である。
 廃藩置県・版籍奉還を経て南部藩は消滅。明治6年(1873年)、英教は上京し、陸軍教導団にはいった。
 陸軍教導団とは、下士官を養成する機関である。士官(将校)を養成する陸軍幼年学校・士官学校に対し、曹長・軍曹・伍長といった下士官を養成する教導団は、軍人養成機関として格下に見られていた。
 しかし、英教は優秀だった。
 教導団で1年半学んだ後、明治10年(1877年)に一等軍曹として西南戦争に従軍。戦場での働きが認められ、戦後の明治11年(1878年)には少尉に任官した。少尉は言うまでもなく士官である。ほどなく部隊勤務から陸軍省や参謀本部といった中央官庁へと引き上げられた。
 明治15年(1882年)に中尉任官。そして設立間もない陸軍大学校の第1期生として入校することを命じられた。同期14人の中には司馬遼太郎の『坂の上の雲』で有名な秋山好古(よしふる)らがいたが、教導団出身者は英教のみで、いかに優秀だったかがわかる。
 英教は大変な勉強家で、寸暇を惜しんで勉強した。有名なエピソードがある。
 英教が入浴時間まで惜しんで勉強したため、全身に垢がたまり、からだ中から異臭を放ち、部下や同僚も臭くて近づけなくなった。日常業務にも支障をきたし、周囲から白眼視されたが、本人はまったく気にしなかった。
 その甲斐あって、秋山らを抑えて陸大を首席で卒業。そのまま陸大教官に任命された。
 さらに、ドイツ留学を果たし、帰国後は陸大教官に復帰した後、参謀本部局員、参謀本部第四部長(戦史編纂や戦術の研究部門)などを歴任。日清戦争では参謀次長・川上操六の下で大本営参謀をつとめた。

 英教がつまずいたのは、山縣有朋を筆頭とする長州閥との確執だった。
 一説によると、英教はドイツ留学中、外遊でベルリンを訪れた山縣に対し、長州閥に偏向した陸軍人事を是正すべしと直言してしまい、以後山縣ににらまれるようになったという。
 それでも川上操六の庇護もあり、英教が陸大や参謀本部などの中央官庁から外れることはなかった。しかし、明治32年(1899年)5月に川上が死去すると、風向きが変わってきた。
 始まりは長州出身の参謀次長・寺内正毅との対立からだった。戦史編纂のための経費で英教が軍馬を購入したことに難癖をつけられ、“不適当”と責めたてられた。明治33年(1900年)のことだ。翌34年には参謀本部をはずされ、姫路の歩兵第八旅団長に左遷された。
 英教には納得できない人事だった。
 続いて第十師団第八旅団長として日露戦争に従軍するも、師団長の意に沿わない作戦行動を“失敗”と判断され、更迭されて内地に戻された。
 次に送られたのが朝鮮で、そこには長州出身というだけで威張り散らしている司令官たちがいた。腹に据えかねた英教は、彼らの理不尽さを口に出し、態度にあらわして反発した。これらは山縣の耳にも入っていただろう。
 明治40年(1907年)11月、英教は中将に昇進したが、それと同時に予備役に編入されてしまう。
 二度と復帰はなかった。
 予備役編入後は東京・西大久保の閑居で、これまでの知見をもとに「戦術論」を執筆して暮らした。訪ねてくる者は誰もいなかった。
 そして、大正2年(1913年)12月、息子・英機が陸大生のとき、ひっそりとこの世を去った。58歳だった。


東條英教
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)

 最後は名誉昇進ではあるものの、英教の昇進スピードは陸大1期生の同期の中で最も早かった。たとえ山縣の覚えがめでたくなくても、優秀であれば順調に昇進するというエリート人事は機能していたともいえる。日露戦争での更迭は純粋に戦術上のミスが原因で、「彼は兵学者ではあるが、軍人ではなかった」という英教評もあるという。
 しかし、英教が志半ばで現役を退かなくてはならなかったこと、長州閥に対して恨みをいだいていたこと、それらの記憶が長男・英機に深く植えつけられていたのは確かであろう。

 話はバーデン・バーデンに戻る。
 打倒長州閥のために、何をするべきか。想像だが、まずは人事だ。例えば、山口県出身者を陸大に入れないようにする、ということを申し合わせたのではないか。
 陸軍大学の入校試験が初審(筆記試験)と再審(筆記試験および口頭試験)の二段階であったことはすでに述べた。永田、小畑、東條らは帰国後相次いで陸大教官となるが、そのころから山口県出身の陸大合格者が激減していく。彼らが再審の試問官として山口県出身者の入学を阻止していたという具体的な証拠はないが、彼らだけではなく非長州閥の試問官がそうした行動をしていた可能性は十分考えられる。
 すでに大正9年(1920年)ごろから、皇太子(のちの昭和天皇)の妃に内定していた久邇宮良子女王(のちの香淳皇后)との婚約に山縣が異議を唱えたことに発する、いわゆる「宮中某重大事件」によって、山縣はその権威を著しく減衰させていた。
 “三羽烏”がバーデン・バーデンで密会した翌年、大正11年(1922年)2月1日、山縣有朋死去。享年83。
 伊藤博文と同様、国葬が営まれた。しかし、その1ヶ月前に亡くなった大隈重信の「国民葬」には数十万の民衆が駆け付けたというが、山縣の葬列に民衆は集まらず閑散としたものだったといわれる。
「山縣閥・長州閥」の終焉は近かった。

エリートたちの蹉跌

 永田、小畑、岡村、東條らは、バーデン・バーデンでの盟約を実行に移すべく、それぞれが帰国した後の昭和2年(1927年)ごろ、志を同じくする中堅将校たちと「二葉会」と称する会合を結成した。“三羽烏”と同じ陸士16期の板垣征四郎、土肥原賢二、磯谷廉介らに加え、1期上の河本大作(15期)、2期下の山下奉文(18期)らがメンバーだった。これにさらに若い世代、石原莞爾(21期)、鈴木貞一(22期)らが結成した「木曜会」が合流し、「一夕会」という中堅将校グループが結成される。
 一夕会は、永田らがバーデン・バーデンの密会で話し合った「人事刷新」「国家総動員体制の確立」を目指し、活動していくことになる。

 一夕会の中心に「支那屋」と呼ばれる中国通の将校たちがいた。河本、板垣、土肥原、磯谷、石原らである。
 陸軍では、ドイツやロシアやフランスなど、ヨーロッパの大国への留学・駐在経験がエリートの証と言われたが、それよりも中国大陸を相手に一生を賭けようという者たちの集まりだ。軍務においてずっと中国畑を歩んできた岡村も「支那屋」たちと密接な関係があった。
 “遅れてきた帝国主義国家”日本が利権を求めて視線の先を向けていたのは中国大陸であり、日清、日露いずれの戦争も中国利権が絡んでいた。しかし、日露戦争の結果、南満州鉄道の利権を獲得し中国本土への足掛かりを得た日本は、当地で激しい排日運動に悩まされることになる。そこで現地ではさまざまな諜報機関が陰になり日なたになり活動していた。
 陸軍の対中国諜報機関としては、日露戦争前には青木宣純(陸士旧3期)をリーダーとする「青木公館」、大正から昭和戦前は天津と北京に坂西利八郎(陸士2期)をトップとする「坂西公館」が活動していた。
 板垣征四郎は頻繁に坂西公館に顔を出していたし、土肥原賢二は坂西の跡を継いだ。磯谷廉介は青木宣純の娘婿になった。

 人事刷新、軍の近代化、国家総動員体制の確立を目指して、陸軍の主導権を握るべく活動する一夕会の中堅将校たちであったが、やがて中国にいる「支那屋」たちが「暴走」をはじめてしまう。河本大作は「張作霖爆殺事件」の実行者であり、板垣征四郎、石原莞爾らは「満州事変」の首謀者である。これに対し、陸軍中央にあって軍の統制を司る立場にあった永田鉄山は対応に苦慮する。
 永田と小畑の路線対立もそれに拍車をかけた。それはやがて「統制派」「皇道派」の抗争へと発展し、永田の斬殺(相沢事件)、そして二・二六事件へとつながっていく。一夕会は分裂し、永田と小畑が去った後、“遅れてきた男”東條英機が歴史の表舞台に立つことになる。

 大正10年10月27日から29日にかけて、バーデン・バーデンでの3日間の会合は、1930年代以降の日本や世界を揺るがす、大きなうねりをつくる端緒だった。
 彼らは「藩閥打破」を掲げて陸軍の改革を進めようとした。しかし、結果的には新たな「閥」をつくり、内部抗争を繰り広げたあげく、日本を日中戦争から太平洋戦争の泥沼へと導くことになるのである。

 彼ら旧日本陸軍のエリートたちの物語を描くことは、近現代の「軍隊」や「戦争」について考えることであり、極めて今日的な課題であると思っている。
 例えばウクライナ戦争は“独裁者”プーチンがひとりで起こしたものなのだろうか。ロシアにも優れたエリートはいるはずだが、人的にも経済的にも莫大なコストのかかる侵攻を選んだ、あるいは選ばざるを得なかったのはなぜなのか。
 陸士16期の“三羽烏”を中心にした陸軍エリートたちは、日本の「ベスト・アンド・ブライテスト」だったはずだ。既述の通り第一次世界大戦の視察などを通じて近代の国家間戦争は国民全体が巻き込まれる「総力戦」になることも認識していた。しかし彼らは果たして「Fact意識=現実認識、時代を見る目」を持っていたのだろうか。本当の意味で「戦争」がどのようなものか認識していたのだろうか。
 バーデン・バーデンでの会合の後、彼らはいかに行動し、いかに誤っていったのか。これについては稿を改めて描きたい。

(了)

参考文献(順不同)

『日本陸軍指揮官総覧』新人物往来社戦史室・編(新人物往来社・1995年)/『秘録 石原莞爾』横山臣平(芙蓉書房・1995年新版)/『作戦の鬼 小畑敏四郎』須山幸雄(芙蓉書房 1983年)/『未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命』片山杜秀(新潮選書・2012年)/『昭和の迷走 「第二満州国」に憑かれて』多田井喜生(筑摩選書・2014年)/『秘録 永田鉄山』永田鉄山刊行会・編(芙蓉書房・1972年)/『秘録 板垣征四郎』板垣征四郎刊行会・編(芙蓉書房・1972年)/『支那派遺軍総司令官 岡村寧次大将』舩木繁(河出書房新社・2012年復刻新版)/『岡村寧次大将資料 戦場回想編』稲葉正夫・編(原書房・1970年)/『昭和史 1926-1945』半藤一利(平凡社ライブラリー・2009年)/『支那游記』芥川龍之介(日本近代文学館・1983年復刻版)/『日本人のための第一次世界大戦史』板谷敏彦(角川ソフィア文庫・2020年)/『真崎甚三郎日記 昭和十年三月~昭和十一年三月』伊藤隆他・編(山川出版社・1981年)/『反ユダヤ主義―世紀末ウィーンの政治と文化』村山雅人(講談社選書メチエ・1995年)/『指揮官と参謀 コンビの研究』半藤一利(文春文庫・1992年)/『日本人はなぜ戦争へと向かったのか』NHKスペシャル取材班・編著(新潮文庫・2015年)/『近代快傑録』尾崎行雄(中公クラシックス・2014年)/『大山元帥』西村文則(忠誠堂・1917年)/『永田鉄山 ―平和維持は軍人の最大責務なり―』森靖男(ミネルヴァ書房・2011年)/『永田鉄山 昭和陸軍「運命の男」』早坂隆(文春新書・2015年)/『三条実美 維新政権の「有徳の為政者」』内藤一成(中公新書・2019年)/『東條英機と天皇の時代』保阪正康(ちくま文庫・2005年)/『東條英機 「独裁者」を演じた男』一ノ瀬俊也(文春新書・2020年)

著者プロフィール

軍司貞則(ぐんじ・さだのり)

作家。1948年生まれ。1977年ヨーロッパに渡り、ウィーン大学で学ぶかたわら、ヨーロッパ全域を取材する。1979年に帰国以降、ノンフィクション作家として活動し、政治、経済から食料・教育問題まで、幅広いジャンルの作品を多数発表している。また、テレビ、ラジオにもコメンテーターとして出演。2007年~2012年にはBPO(放送倫理・番組向上機構)「放送と青少年に関する委員会」委員を務めた。現在は小日向白朗に関する小説を執筆中。著書に『滅びのチター師 「第三の男」とアントン・カラス』(文藝春秋)、『翔べ、バルセロナへ 野球を五輪競技にした男たち』(集英社)、『空飛ぶマグロ 海のダイヤを追え!』(講談社)、『日本人の忘れもの 愛されない日比混血児たち』(文藝春秋)、『高校野球「裏」ビジネス』(ちくま新書)など多数。

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