渡辺明名人と佐藤天彦九段が白瀧呉服店でトークショー
~「棋士にとっての着物」とは?~ 【前編】

先ごろ竜王位を防衛した藤井聡太五冠が、2016年に中学生棋士として登場して以来、空前の将棋ブームが続いている。
棋戦のネット中継という観戦ツールもすっかり一般的になり、対局中の棋士の姿をつぶさに見る機会が以前より格段に多くなった。

観る将(対局や棋士の姿を見て楽しむ将棋ファン)や将棋めし(対局中に棋士が注文する食事のこと)など、新しい将棋の楽しみ方が広がる中、もっと語れる余地があるのに! と思うのは、ずばり、棋士が主にタイトル戦の対局中に身にまとう着物。

棋士の着物は将棋という伝統文化に欠かせない彩りのひとつ。
ネット中継のコメント欄や掲示板、あるいは対局中継でも、棋士の着物についてはしばしば言及される。
ただ、そのほとんどが「よくお似合いですね」「今の季節らしい素敵な色のお着物」「涼しげな生地…」など、画面を通して感じられる範囲の話で、「日本の伝統文化好き」としては「もう少し深い話が聞きたい!」と、常々もどかしく感じていた。

将棋の主役はあくまで棋士、そして将棋の内容そのものである以上しかたがないと思いつつ、せっかく棋士たちがそれぞれの個性を活かした装いをしてくれているのだから、そんな彼らの姿から着物の奥深い魅力をもっと知ってもらうことができるのでは……。

そんな思いを叶えてくれたのが、今年の夏、渡辺明名人と佐藤天彦九段が着物をテーマに対談するという、まさにどんぴしゃりのイベントだった。
プライベートでも親交が深く、対局の度に着物の着こなしが将棋ファンの間で話題になるふたりが繰り広げるトーク。
そこから見えてきたのは、棋士の着物姿をより深く楽しむヒントの数々。

男性の着物の着こなしに欠かせないワード、タイトル戦で必須のアイテムの紹介などもからめながら、前編、後編に分けてご紹介!

(取材・文/加藤裕子)

【後編はこちら】

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ずらりと並んだ着物の展示は圧巻!


和気藹々としたトークに聞き入る来場者の中には着物姿の人も。写真右奥は聞き手の七月隆文さん。

あのときのあの着物が! ファン垂涎の展示に歓声

 2022年7月23日に開催された「渡辺明名人&佐藤天彦九段『棋士と和服』プレミアムトークショー」の会場は、両棋士の着物のコーディネートなどを手掛ける白瀧呉服店(東京・練馬区)。将棋イベントや将棋教室を開催する「(株)ねこまど」と白瀧呉服店が「コロナ禍でなかなか将棋イベントが開催できない時期が続いたので、何かファンの方が喜ぶことを」と意気投合、今回の企画が持ち上がった。

 聞き手は、恋愛小説を多く手掛け、次作となる将棋小説執筆のために「将棋沼にどっぷりハマる日々」という作家の七月隆文氏。現地観覧には定員40名を大幅に超える170名以上から申し込みがあり、リアルタイムで配信されたオンラインの観覧者も含めた約200人のファンがイベントを楽しんだ。

 当日、会場に集まった参加者の多くは女性で、通常の将棋イベントとは少々異なる雰囲気。中には、猛暑の最中にもかかわらず、おしゃれな着物姿の女性もいて、今回のイベントへの期待の高さが感じられた。会場では、渡辺名人と佐藤九段が対局などで着た着物が白瀧呉服店5代目店主・白瀧佐太郎氏の解説と共に展示され、普段は見られない羽織の裏(羽裏=はうら)や、間近で目にするからこそわかる繊細な紋様や色使いに、来場者から感嘆の声が上がっていた。

当日展示された着物は「ファンの方が観たいと思われるだろうなというものを中心に選びました」と白瀧佐太郎氏。白瀧氏は、顧客の棋士が着用した対局やイベントを記録に残し、勝負どころのコーディネートの参考にしている。

初めて作った着物の思い出

 棋士の着物姿と言えば、やはりタイトル戦。竜王戦以外、必ずしも着物を着なければならないという規定はないものの(ただし、棋戦であるJTプロ公式戦でも和服姿での対局が慣例となっている)、ほとんどの棋士は着物でタイトル戦に出場する。「普段対局する将棋会館とは会場も違いますし、やはり気分が上がるところはありますね」(渡辺名人)、「対局する場所の雰囲気も含めて、全て特別な感じがします」(佐藤九段)というコメントにもあるように、勝ち抜いてきた者だけが戦えるタイトル戦はやはり特別な場。だからこそ、普段はスーツ姿の棋士も、きちんと羽織袴を身に着けて対局に臨む。

 タイトル戦の和装は着物であればなんでもよいということではなく、浴衣や「着流し」と呼ばれる袴をつけないカジュアルな和装はふさわしくない。棋士の着物姿には、対戦相手、そして対局を支える主催社や対局場所への礼を尽くすという意味もこめられているのだ。

 多くの棋士にとって、タイトル戦挑戦は最初に着物を誂(あつら)えるきっかけにもなっており、渡辺名人と佐藤九段が初めて着物を作ったのも、やはり初めてのタイトル戦を前にしてのタイミングだったという。

 ちなみに、着物は着る人の体型や着心地に合わせて採寸して仕立てる、オーダーメイドが基本。特に、棋士の場合は将棋に集中するためにも、指すときに邪魔にならないよう袂(たもと)の長さを調整するなどの心配りも必要となる。

 着物を仕立てるには通常1か月程度かかるが、白瀧呉服店では、タイトル戦の挑戦者が決まったとき、「結果的にご縁がなかったとしても、当店にご相談に来られたときに必ず対応できるように」と、仕立て屋さんのスケジュールを押さえて2週間ほどで必要なセットを揃えられるよう、段取りをしているそうだ。

渡辺名人:
初めて着物を作ったのは、19歳で第51期王座戦に挑戦したときですね。今日の対談会場になっている白瀧呉服店さんに伺って、先代の店主の方にお願いしたんですが、何もわからないので、全部お任せでした(笑)。相手が羽生さん(羽生善治九段)だったので、五番勝負だけどたぶん3局で終わるだろうなと思っていたんです。「じゃあ、とりあえず3局分の着物を作っておいて、もし4局目に行ったら、そのとき考えましょう」ということにしていたら、2局目で勝って1勝1敗になったので、結局、また新たに買い足しました。(編集部注:第51期王座戦五番勝負は2003年9月に開幕し、決着は最終局の第5局までもつれこんだ。その間、季節が9月初めから10月半ばへと移り変わったため、秋冬用の着物も必要に)


タイトル戦初登場は第51期王座戦(2003年秋)。
羽生善治王座に挑戦者として挑む、19歳の渡辺明五段(当時)。
若さを引き立てる、鮮やかな発色の羽織。

 羽生世代がほとんどのタイトル戦を席巻していた時代、一回り以上年下のまだ10代の若さでタイトル戦挑戦者となった渡辺名人の着物は、明るい色や柄物を使うなど伝統的でありつつ若さを意識したフレッシュなコーディネート。それまで無地のアンサンブル(着物と羽織を同じ生地で仕立てたもの)のイメージが強かった棋士の着物に「観る」楽しみが加わったのは、渡辺名人と白瀧呉服店のタッグが生んだ効果と言えるだろう。
 一方、ファッションに造詣が深いことで知られる佐藤九段は、初めて着物を作るときにもやはり一家言持っていた。

佐藤九段:
僕のタイトル戦初挑戦は第63期王座戦でした(編集部注:五番勝負は2015年9月に開幕)。僕もずっと白瀧さんにお願いしていますが、最初からこだわるところはこだわらせてもらいました(笑)。「まずはオーソドックスな、いわゆる王道路線の着物も持っていたい」という話をさせていただいて、それを踏まえた上で挑戦していきたいと。僕が洋服でやっていることと同じで、「挑戦」と言っても僕の中では自然なんですが、周囲からはちょっと変わって見えるだろうなというテイストともバランスを取りながら作りたい、というコンセプトでした。


タイトル戦初登場。第63期王座戦(2015年秋)で羽生善治王座と対戦する佐藤天彦八段(当時)。
このときは比較的オーソドックスな装いといえる、「王道路線」の着物、羽織を身に着けている。

対局相手もびっくり!? タイトル戦にまつわる着物エピソード

 着慣れない着物を大事な勝負の場で身につけるのは、タイトル初挑戦の棋士にとって、ただでさえ特別感あふれるタイトル戦の緊張を増す要素かもしれない。とはいえ、さすがトップ棋士、勝負に懸ける集中力のすさまじさが垣間見える、こんな話も披露された。

佐藤九段:
そういえば、渡辺さんは初挑戦の王座戦で足袋を脱いで指してましたよね。あれは何局目ですか?
渡辺名人:
5局目ですね。足袋って、靴下と違って親指と他の4本の指が分かれているから、締めつけられる感じがあるというか、きつめに履くと痛くなったりするじゃないですか。
佐藤九段:
1局目からずっと「きついな」って、思ってたんですか?
渡辺名人:
思ってました。慣れれば大丈夫なんですけど、そのときはまだちょっと履き慣れていなかったので、5局目の最後、夕食休憩の後は足袋を脱いで、裸足で指しました。
佐藤九段:
5局目のフルセットで最後の勝負どころだから、「もう脱いじゃえ」みたいな感じだったわけですね。でも、なかなか足袋を脱ぐっていう発想はないです(笑)。
渡辺名人:
裸足で上がっているわけだから、ちょっと失礼だよね(笑)。
佐藤九段:
でもまあ、タイトル戦のここぞというところでは、体裁なんか気にしてられるかってなりますよね。
渡辺名人:
そういえば、2日制のタイトル戦では2日とも同じ着物と羽織を着るものだけど、天彦さんは1日目と2日目で替えてたことがあったでしょう?
佐藤九段:
確か名人戦だったと思います(編集部注:第76期名人戦第6局。2018年6月19・20日、山形県天童市にて開催)。季節的に微妙だったので、裏地があるものとないものの2パターンで用意していただいていたんです。最初は裏地があるセットを着ていたんですが、途中で暑くなってきて、2日目の夕方に羽織と着物を変えました。
渡辺名人:
どっちでもいいようにしておいたんですね。でも、周りからは驚かれたんじゃないですか。
佐藤九段:
そのときの対局相手は羽生さんだったんですけど、後からその場にいた人たちに、羽生さんもけっこう驚かれていたんじゃないかみたいなことは言われました。途中で着物を着替えてくるというのはあまりないことなので、羽生さんのように長い間活躍されている方からすると、もしかしたら新鮮に思われたかもしれないですね(笑)。

 ささいなしぐさに勝負の綾が浮かび上がるようなエピソードだが、将棋ファンの間では「渡辺名人は勝負どころになったとき、ぐいと着物の袖をまくる」とも言われている。思わず固唾を吞んで盤上に注目するシーンだが、さて、その真偽のほどは?

渡辺名人:
着物の袖をまくるのは特に優勢になっているときとは限らなくて、常にやっていることなんです。たとえば、序盤では主に自陣を動かすわけですけれども、角を換えるときだけ相手の陣に行くことになるので、着物の袂(たもと)が駒に触れないよう、やっぱり腕まくりはしますね。


袖をまくるしぐさを見せてくれる渡辺名人。

夏の棋戦ならではの着物

 着物の装いでとても大切にされるのが季節感だ。その表れのひとつとして、裏地がある袷(あわせ)の着物は10月から5月、裏地がない単衣(ひとえ)の着物は6月と9月、紗(しゃ)や絽(ろ)など透け感のある通気性が高い生地の夏着物(薄物)は盛夏の7月と8月(最近は6~9月とする考え方もある)など、「この季節にはこの着物」という決まり事が通例とみなされている。といっても、最近は5月や10月でも夏のような暑さという日もあり、そうした決まり事も実態に即して解釈されるようになりつつあるようだ。

 タイトル戦によっては、5月(袷)~6月(単衣)・6月~7月(夏物)とひとつのシリーズで季節が移り変わることもあるが、「棋士の方とお話しする中で、五番勝負、七番勝負の最終局を想定して着物を用意するのは負けを想定しているようで縁起が良くない、ということも聞いておりますので、季節がずれる場合は、既にお持ちのものから柔軟に対応するようにしています」(白瀧さん)という。棋士の着物は、着物ならではの季節感と共に、勝負事における繊細な気遣いの上に選ばれているのだ。

 ちなみに、竜王戦・棋王戦・王将戦(竜王戦は10~12月、棋王戦は2~3月、王将戦は1~3月に開催されることが多い)など冬の棋戦に強く、一時期「冬将軍」の異名を持っていた渡辺名人は、夏着物は「若干しか持っていない」という。

渡辺名人:
王位戦には出たことがないんですよ(編集部注:王位戦七番勝負は7~9月頃に開催されることが多い)。僕のタイトル戦の歴史は竜王戦から始まっているので、秋から冬にかけてちゃんと仕上がっていればいいという1年のサイクルが、若い頃にできてしまったんですよね。あと、夏のタイトル戦の予選の時期は竜王戦や棋王戦の本戦と重なっていて、予選トーナメントは1回負けたらそこで終わり、ということもあります。
佐藤九段:
タイトル戦の番勝負をやっている最中だと、予選を勝ち抜いていくというのはなかなか難しいですよね。

 といっても、渡辺名人は棋聖戦(6~7月頃に開催されることが多い)への出場経験は多いので、「若干しか持っていない」夏着物とは、盛夏に着る絽や紗のことだろう。

 一方、タイトル戦初挑戦が棋聖戦で、さらに同じ年の王位戦にも挑戦していた藤井五冠が最初に誂えたのは夏物が多かったのではないかと想像する。そんな風に、タイトル戦の棋士の着物の素材感で季節の移り変わりを感じるのも、「着物を観る将」の楽しみだ。


第62期王位戦第1局(2021年6月29日・30日開催)に臨む藤井聡太五冠。着用の羽織は師匠の杉本昌隆八段から2019年に贈られたもので、杉本八段みずから京都で藤井五冠のお母様と選んだ、と報道された。夏季のタイトル戦出場が多い藤井五冠には出番の多い透ける素材の羽織で、涼しさを感じさせ、かつ品格あふれる装いだ


トークショー終了後、聞き手の作家・七月隆文氏と一緒に記念写真。

【後編】につづきます。参考文献は【後編】にまとめて掲載します。

デザイン(着物イラスト)/小松昇(ライズ・デザインルーム)

プロフィール

渡辺明名人(棋王)
(わたなべ・あきら)

1984年生まれ。東京都葛飾区出身。所司和晴七段門下。プロ入りは2000年15歳、史上4人目の中学生棋士。タイトル獲得合計31期(歴代4位)。棋戦優勝計11回。永世竜王、永世棋王(就位は原則引退後)。第78~80期名人。現在竜王戦1組。ぬいぐるみ好きでヤクルトスワローズのファン。ほかに趣味は競馬、サッカー(フットサル)、ランニング、カーリング、旅行、囲碁など多数。
◆ブログhttps://blog.goo.ne.jp/kishi-akira ◆ツイッター https://twitter.com/watanabe_1984

佐藤天彦九段
(さとう・あまひこ)

1988年生まれ。福岡県福岡市出身。中田功八段門下。プロ入りは2006年18歳。第74~76期名人。棋戦優勝計4回。現在、竜王戦1組、順位戦A級。趣味はファッション、クラシック音楽などで、「貴族」という愛称を持つ。好きなファッションブランドはアン・ドゥムルメステールなど。ファッションにまつわる賞の受賞歴もある(第34回毎日ファッション大賞話題賞など)。宇宙戦艦ヤマトシリーズも大好き。◆ツイッター https://twitter.com/AMAHIKOSATOh

七月隆文(ななつき・たかふみ)

作家。160万部超のヒット作『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』(宝島社)で第3回 京都本大賞を受賞。ほかにも 『ケーキ王子の名推理』(新潮社) 『天使は奇跡を希う』 (文藝春秋)など著書多数。現在、将棋をモチーフとした作品を鋭意執筆中。◆ツイッター https://twitter.com/nanatsuki_t

(株)ねこまど

2010年、北尾まどか女流二段が、将棋の普及活動のために設立。将棋教室の主宰、将棋大会・イベント開催など。女流棋士による公開対局「知と美」は今年で第11回を迎えた。こども・初心者から大人まで大人気の「どうぶつしょうぎ」のイベントやライセンス事業を行っている。将棋フリーペーパー「駒doc.(こまどく)」を年4回発行。
ホームページ https://nekomado.com/
ツイッター(ねこまど将棋教室) https://twitter.com/shogischool

白瀧呉服店(しらたきごふくてん)

黒船が来航した、嘉永6(1853)年創業。店舗は練馬区にあり、「東京最大級の呉服店」と謳われ、振袖・七五三・訪問着などの礼装から紬・小紋など和服全般の販売やレンタル衣装を取扱っている。広大な敷地内には茶室や日本庭園も有する。先代(4代目)・五良氏の代より将棋界との縁が生まれ、2006年から女流棋戦「白瀧あゆみ杯争奪 新人登竜門戦(非公式戦、日本将棋連盟主催)」を後援。将棋以外にも、競技かるた大会「白瀧杯 女流かるた選手権大会」を主催。その他 茶道・能楽など和文化の継承発展に寄与。現当主・白瀧佐太郎氏は五代目。ホームページ http://www.kimono-shirataki.com/

【取材・文】

加藤裕子(かとう・ひろこ)

生活文化ジャーナリスト、ライター。早稲田大学政治経済学部卒業。女性誌編集者を経て、1999年フリーに。同年渡米し、ヴィーガンの情報を発信するThe Vegetarian Resource Group(米国メリーランド州)に籍をおき、アメリカの食文化、健康志向などをテーマに取材・執筆。現在は日本在住。日本の伝統文化探究もライフワークのひとつ(将棋は観る将)。著書に『寿司、プリーズ!~アメリカ人寿司を喰う』(集英社新書)、『食べるアメリカ人』(大修館書店)、『「和の道具」できちんと暮らす すこし前の日本人に学ぶ生活術』(ポプラ社)等がある。

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