Nonfiction

読み物

読むダイエット 高橋源一郎

第6回 グルメ小説家の悲劇

更新日:2020/08/26

明治最大のベストセラー作家

「村井弦斎」という作家をご存じだろうか。「知ってますよ」という読者がいたら、脱帽だ。わたしは、最近まで、その名を知らなかったのである。ただ知らなかったというなら、まあいい。だが、わたしは、『日本文学盛衰史』という明治の小説家たちの群像を描いた長編小説を書いているし、それ以外にも、明治文学についてはいろいろな場所で書いている。はっきりいって、「わたし、明治文学の専門家です」という顔をしていたはずである。なのに、この「明治文学史上最大のベストセラー」の生みの親を知らなかったのだ。なんてこった。ただもう恥ずかしい限りである。ちなみに、その作品のタイトルは『食道楽』、これに匹敵するほど売れたのは、尾崎紅葉の『金色夜叉』か徳冨蘆花の『不如帰』くらいだといわれているそうだ。こちらの二作は文学史に残る名作で、教科書にも載っている。でも、『食道楽』は、ほとんど誰も知らないのである。
 そこには、一つ大きな秘密があった。そもそも、「村井弦斎」は、忘れ去られる運命にあった作家だったのだ。
 以下、黒岩比佐子『『食道楽』の人 村井弦斎』(岩波書店)を参照して、その人生をたどってみよう。

 村井弦斎は1863年(文久3年)に生まれた。森鷗外が1862年、二葉亭四迷が1864年、幸田露伴・正岡子規・夏目漱石が1867年、尾崎紅葉が1868年、明治文学の錚々たる面々とほぼ同時代だった。それは、弦斎さんにとって不幸なことかもしれなかった。
 弦斎さんは、三河国吉田藩の藩士の生まれで、家は代々儒学を修めた。ところが、明治維新が到来し、失職、混乱の中で、父は息子の弦斎さん(本名は寛(ゆたか))を、東京外国語学校のロシア語科で学ばせた。その理由が、将来、ロシアと戦うことになるかもしれないから、というのだから、由緒正しい愛国的日本人の一家だったのだ。しかし、弦斎さんは健康を害し退学(勉強しすぎでノイローゼになったらしい)。
1884年(明治17年)には旅費を工面してもらいアメリカへ渡り、一年近く学んだ。なので、ロシア語も英語もオッケーなのである。明治の人はほんとにエラい。弦斎さんの小説に、欧米のように生活を改良しようというフレーズがしょっちゅう出てくるのは、このときの経験のせいだろう。やがて、報知新聞(当時は「郵便報知新聞」)に就職、ここから大活躍が始まるのである。1890年(明治23年)に小説『小説家』を郵便報知紙上で連載、文才を認められ、次々と書くようになった。翌1891年からの連載『小猫』は傑作といわれたらしく、なんと、漱石の『吾輩は猫である』と並ぶ、明治の二大「猫」小説と呼ばれたというのだから、びっくり。知らなかったよ、それも! ……ただし、猫が登場人物?になっているわけではないようだ。単にタイトルに出てくるだけ……。
 そうやって、人気新聞小説家として押しも押されもせぬ存在となった弦斎先生は明治29年から6年間、『日の出島』という超大作を連載。なんでも、これは「明治の小説史上最長編」だそうである。マジかい!
 しかし、一つ、説明しておかねばならないのは、いわゆる「文壇」の中では、評判はきわめて悪かった。「婦女子の坐右にあるには適すべし。弦斎に向つて素(もと)より人物を活写するの筆あるを望むべきにはあらねども、此小説中に見えたる人間の如きは、一人として人間らしきものゝなきも亦(また)妙なり」と当時の雑誌に書いてある。

黒岩比佐子『『食道楽』の人 村井弦斎』
岩波書店

 要するに、エンタテインメントとしては読むならいいけど、文学とはとてもいえない、というのが評価だったのだ。そりゃ、傷ついたろうなあ、弦斎さん。
 そのせいだろうか。この小説の中では、ついに文壇に喧嘩を売ってしまう。
「文学を修めるならば一枝の筆を以て天下の人心を鼓舞する程の事業を仕給へ。気概が無ければ役に立たんよ。世道人心に関せずんば文字美(ぶんじび)と雖も取るに足らん。酢豆腐が甘いとか辛いとか、男と女が辷(すべ)つたとか転んだとか、爾んな気楽な事を言ふのはモー百年計り後(のち)に仕度(した)いね」
 鷗外も紅葉も藤村もみんな「酢豆腐が甘いとか辛いとか、男と女が辷つたとか転んだとか、爾んな気楽な事を言ふ」と一言で片づけられてしまう。そんなことをいうものだから、弦斎さんは、ますます、文壇からは無視され、その結果が、現在の無名状態なのだ。ほんとに気をつけたいです。
 とはいえ、一般庶民からの人気は高かったのだ。そして、絶頂期を迎えた明治36年から、ついに運命の『食道楽』の連載を開始する。単行本も売れに売れた。その人気は、尾崎紅葉の『金色夜叉』に匹敵し、半年で30版を重ね、「中流以上の家では、備えないのを恥じたほどで、娘の嫁入道具に必ず入れられた」(『食道楽』中公文庫所収、村井米子編「村井弦斎略年譜」)というから、スゴい……けど、やっぱり、いいのかなこれ、小説としては。「嫁入道具」だって……。
 ちなみに、『食道楽』の連載は1903年、続編は1906年、そして続編終了後、弦斎さんは、小説家として筆を折る。いったい何があったのか。新聞小説家としての人生に終わりを告げた弦斎さんと、入れ替わるように現れたのが1907年、朝日新聞に小説家として入社した夏目漱石さんだったのだ。なんというか、運命なんでしょうか。
 さあ、それでは、いよいよ、『食道楽』を読んでみようではありませんか。それは、いったいどんな小説なのか。そして、なぜ、明治最大のベストセラーといわれるほど売れたのか。
 この小説、手に入りやすい中公文庫版は現代語かつ抄訳で、本文は350頁ほどだが、完全版の岩波文庫は、付録もついて上下でなんと、1100頁。そんなことで驚いてはいけません。その1100頁の半分以上が料理の話で占められているのである(以下、引用は中公文庫による)。
 主な登場人物は、文学士(大学の文学部卒業生である、当時は超エリート)大原満くん、同窓の親友・中川くんを訪ねたところ、郷里長崎から妹・登和さんが上京していた。この登和さんは「美人のうえに料理が上手」で、たちまち、大原くんは登和さんを好きになり結婚したいと思う。しかし、大原くんの田舎では、「学資の半分を助けてもらった本家の娘、美しくない従妹を押しつけ」ようとしていた。どうなる大原くん。お話は、これだけである。これだけで、1100頁。なので、登和さんは、ずっと料理を作りつづけるはめになったのである(連載の必要上)。

村井弦斎『食道楽』
村井米子(編訳)
中公文庫

村井弦斎『食道楽』(上)
岩波文庫

 物語の冒頭は、正月元日を迎えて、主人公の大原くんの腹の中の胃と腸の会話から始まる……って、なんてアナーキーな小説なんだ。

「腸蔵『オイ胃吉さん、お目出度う』
 胃吉『ヤアこれは腸蔵さん、去年中はいろいろお世話さまでしたね、今日は正月の元日といって、一年に一度の日だから、お互いに少し楽をしたいね』」
 そうやって世間話がはずむ胃と腸。すると、そこに、ふたり(?)の頭上から何かが降ってくる。
「『ソラ来たぞ、何だか堅いものが、これは照ゴマメだ。石のようにコチコチしている。魚の形がそっくりしている。オットどっこい、今度は数の子だ、乾し固まって塩の辛い奴を、ろくに塩出しもしないでこしらえるから、消化(こな)そうとおもってもこなれない。腸蔵さん、ほんとに泣きたくなるね』
 腸蔵『元日から災難だ。おい胃吉さん、危ないぜ、上の方から黒い石が降ってきた』
 胃吉『これは黒豆だよ、よく煮てないから堅くって、石のようだ。択(よ)りによって、なぜこんな悪いものばかりよこすだろう。オヤオヤまた来た。今度は柔かい。玉子焼だ。何だか、少し臭いね。プーンといやな匂いがしたぜ。腐っているのではないか』」
 これぐらいで辟易していては、『食道楽』を読むことはできない。このすぐ後に、別の新聞では、漱石が『虞美人草』を連載するのだから、なんだか目まいがしそうだ。っていうか、文壇の人たちは、目まいがしたので、文句をいったのだろう。しかし、弦斎さんは、まったくめげることはなかった。中川兄妹はどちらも料理の鉄人なので、誰にでもわけへだてなく教えてくれる。中川家に料理を習いに来ていた広海(ひろうみ)子爵の娘玉江お嬢さんとの会話はこんな感じ。

「『ハムと牛肉と、どちらが人の身体に良いものでございましょう』
ときく。学ぶ者が熱心なのは、教える者のよろこび、中川も
『玉江さん、家庭料理を学ぶには、一とおり食物の成分を知っていないと、人の身体に適した料理を、つくることが出来ません』
 ハムと牛肉の成分を調べてみると、ハムは蛋白質が二四%、脂肪が三六%ほどあり、牛肉はモモの肉が蛋白質二六%、脂肪二%、脂肪肉が蛋白質一六%、脂肪二七%位ある。蛋白質と脂肪とを共に備えた点からいうとハムの方が滋養分に富む。しかしそれは水分の有無によっても違うし、働く人と働かぬ人、また夏と冬とでも、身体への効き目が違うから、よくその場合を考えねばならぬ、とくわしく説く。
 玉江は
『食物の中で、一番滋養分の多いものは何でございましょう』
『蛋白質と脂肪の点からいうと、鯛のでんぶが一番でしょう。あれは蛋白質が七六%、脂肪が八%ほどあります。それからカツオ節で、蛋白質が七五%、脂肪が五%です』
 中川は
 高野豆腐、湯葉、大豆、豆腐なども滋養分は多いが消化があまりよくない(筆者注。ちょっと現代の常識では否定されていることも多いみたいです。すまんね、弦斎さん)、といちいち食品を説明し
『食物の分析表を写して、さし上げましょう』」
 とまあ、こういうのである。どうです。青年男女の会話として、これほど色気のないものを想像することは不可能ではないだろうか。そして、こんな会話しかしないのに、この中川と玉江は、小説の最後に婚約してしまうのだから、もはや、宇宙の神秘としかいいようがないのである。
 おお、大切なことを忘れていた。この「食物の分析表」、ただ、おざなりにいっているのではなく、岩波文庫版(上巻)を見ると、巻末に、「日用食品分析表」が付録としてついている。なんと31頁も! 食品関係の本を備えているわたしの本棚にも、これほど巨大な「食品分析表」はないのである。なんて役に立つ本なんだ。そればかりではない。この上巻にはさらに、「料理法の書籍」「台所道具の図(値段付き)」「西洋食器類価格表」「西洋食品価格表」が合わせて32頁! この、合わせて63頁だけでも充分という読者もいただろう。というか、もしかしたら、そういう読者の方が多かったかもしれない。ちなみに、下巻の「付録」は「米料理百種」「パン料理五十種」「病人の食物調理法(151種)」「戦地の食物衛生」と合わせて約80頁。おそらく、「嫁入道具」として、この小説を買った親たちは「付録だけ売ってくれれば良かったのに」と思っただろう。かわいそうな弦斎さん……。
 もう一つ、重大なことを忘れていた。いままで書いたのは、すべて、この小説の「付録」部分にすぎない。この小説の本体は、登和(&時々、中川や他の登場人物)たちが、レシピを語りながら料理を作ってくれるシーンなのである。登場するレシピはなんと630! 料理の本だって、それほど多くのレシピを収めたものはないだろう。しかも、これ、小説までついている……この言い方、ゴメン……安い買い物ではないだろうか。
 その部分はどこを引用しても同じなので(だって、ほとんど、そればかりだから)、少しだけ、ご紹介しておこう。こんな感じだ。

「洋行する大原への最後のごちそうに、リンゴのパイもこしらえよう、と台所へ立ったお登和は、小山夫人に説明しながらこねはじめた。
『こういうふうに、木鉢とノシ板とノシ棒を使うので、上等にすると、石のノシ板が熱をもたないでよいのですが、おソバのノシ板やノシ棒があれば、それでも出来ます』
 パイにも種々あるが、一番上等はバターでつくり、次はケンネ脂すなわち牛の生脂、下等は豚の脂のラードとなる。バター製のは、メリケン粉三斤(一八〇〇グラム)を木鉢にとり、玉子の黄身二つ、塩小サジ一杯、水大サジ八杯加え、ウドンをこねるようによくこねる。暖い日は水だが、寒い時はお湯でこね、固さもウドンくらいにして、ノシ板へとり、打ち粉をまいて、ノシ棒で少しずつのばす。
『ウドンのように四方へ広くのばしません。幅は一尺(三三センチ)ぐらいにして、長く帯のように向うへのばします。そのとき決して厚い処と薄い処のないようにのばして、まず二分(〇・七センチ)くらいの厚みにのばしてしまいます。なれないうちは棒へ力を入れますから、平均にのばせませんね。こういうふうに平らにのばせたら、ハケで、玉子の白身を一面に敷きます』」

 ふう……。ほぼぜんぶこんな調子なので、もういいですよね。確かに、これでは「文壇」の評価は辛かっただろう。というか、この人、なんでこんなものを書いているの、と思われたかもしれない。だが理由はあったのである。

「『お登和、おまえはさいわいに、料理のことを研究しているから、程と加減ということがわかるが、婦人の教育も、和漢洋の長所をとって、最も進歩した婦人を作るのが目的であろうが、往々反対の例を見るね』
 男女同権とか、自由結婚とか、女の神聖とか、自然の恋愛とか、とっぴなことばかり唱えて、口と筆とは達者になるが、家におれば親に逆らうし、嫁に行ってそうざい料理一つ作れず、子を生んで子供の着物もぬうことのできないような、婦人をつくる。ことにちかごろは、昔の抑制主義を直すつもりであろうが、婦人の独立とか、神聖とか、理想とかいうことを唱えるため、程と加減を通り越し、たいそう生意気になった」

 これが、弦斎さんの本音だった。でも、弦斎さんは真剣だった。この国を愛し、立派な社会を作る。それが弦斎さんの目的だった。そのために、料理をまじめに作る女性をいちから育てあげる。それが弦斎さんの壮大な野望だったのだ。古いよね。堅いよね。考え方が。そりゃ、当時の作家たちから、無視され、嘲笑されるのも無理はないのである。
 だが、時は移り、いま、『食道楽』を読めば、最先端の「グルメ文学」に見えるのである。『美味しんぼ』より70年以上も前、すべての「グルメ文学」に先んじて生まれた、『食道楽』という巨大な伽藍は光り輝いて見えるのではあるまいか。

「その後」の弦斎さんについて、少しだけ書いておこう。小説家を引退して後も、「食」や「健康」に関する関心が薄れることはなかった。まずは、平塚に邸宅を建築し、そこに留まって「美食の殿堂」を作った。山海の珍味を食し、奥さまが、さまざまな料理を作られたのである。次に、弦斎さんが取り組んだのは「脚気」の研究である。弦斎さんは深く「脚気」を研究し、「玄米と糠で脚気が治る」という説を発表した。これは日本で「脚気」の原因として「ビタミンB1欠乏説」が発表される遥か以前のことであった。弦斎さんはさらに進んで玄米の食べ方を工夫し「半搗米(はんつきまい)」がベストであるとの結論にたどり着く。いま我々が食べている健康食としての玄米と同じだ。さらに、健康を追求した弦斎さんは「断食」を始めるようになる。「グルメ」から「断食」へのコペルニクス的転回である。1917年に刊行した『弦斎式断食療法』は、なんと600頁以上あったそうだ。やるときは徹底してやるのである。「断食」をきわめた弦斎さんは、次に「木食(もくじき)」に挑戦する。野生の植物を中心に食べる生活で、春は草木の若芽、夏は草の葉や野菜、秋は木の実、冬は草木の根、その間に大豆やそば粉を水で溶いて食べるだけ。中国では「仙人」になるための秘法なのだそうだ。
 弦斎さんは、どんどん「グルメ」から遠ざかる、というか、「人間」から遠ざかっていった。山奥の小屋にひとり住んだ弦斎さんは、最終的に「木食」から「自然に存在するものを火を使わずに生で食べる『天然食』」へと移行していった。
 もはや、「文壇」だけではなく、世間の人たちも、弦斎さんを「奇矯な人」として見るようになった。そのことを考えると、わたしはなんだか心が痛くなるのである。最後に、弦斎さんの最終到達地点を紹介して、今回は終わることにしたい。食と健康について考えつづけた、ひとりの明治人の「遺言」である。1921年(大正10年)、雑誌「婦人世界」に掲載された文章から、黒岩比佐子さんが前掲書の中で抜粋したものだ。

「三月号では、『私は以前有名な食道楽家で、天下の美味を食べ尽くしたものですが、今に至つて、食物の真の味は、少しも人工を加へざる天然物に在る事を悟りました』と述べている。具体的に何を食べていたかというと、アケビの実、栗、椎茸、松茸などのキノコ類、山ブドウ、山百合の根、自然薯などだった。もちろん、すべて生のままで食べるのである。
 五月号で弦斎は、『私の理想としては、人間は活きる為めに食物を摂るのであるから、成るべく活きてゐるものを食するのが天然自然の道に適うだろうと信じてゐます』と書いている。宗教界の行者などは植物質のものしか食べないが、彼は実験のために、虫や蟹や小鳥なども食べた。
『蟹を段段食べ慣れてから、今度は種種の虫を試みました。蝗(いなご)や螽斯(ばった)は勿論、葡萄の虫でも、エビヅルの虫でも、木の幹や蔓にゐる虫を捕つて食べましたが、臭木の虫が生で食べては一番味の良いものです。(中略)自分で小鳥を撃つて、直ぐに丸の儘食べますと、その味の良いことと申したら、骨も頭も柔かで、煮たり焼いたりしたものより遥に結構です。羽は勿論除りますが、内臓は少しも手を附けませんで、全体を残らず食べますと、胆嚢の苦味と内臓の塩気と肉の甘味と混和した一種の深い味があります』」

撮影/中野義樹

著者情報

高橋源一郎(たかはし・げんいちろう)

1951年広島県生まれ。横浜国立大学経済学部中退。1981年、『さようなら、ギャングたち』で作家デビュー。『優雅で感傷的な日本野球』で三島由紀夫賞、『日本文学盛衰史』で伊藤整文学賞、『さよならクリストファー・ロビン』で谷崎潤一郎賞を受賞。
主な著書に『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』、『恋する原発』、『銀河鉄道の彼方に』、『今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史 戦後文学篇』などの小説のほか、『ぼくらの文章教室』、『ぼくらの民主主義なんだぜ』、『ぼくたちはこの国をこんなふうに愛することに決めた』、『お釈迦さま以外はみんなバカ』、『答えより問いを探して』、『一億三千万人のための『論語』教室』、『たのしい知識──ぼくらの天皇(憲法)・汝の隣人・コロナの時代』、『「ことば」に殺される前に』、『これは、アレだな』、『失われたTOKIOを求めて』、『居場所がないのがつらいです』『だいたい夫が先に死ぬ これも、アレだな』など、多数ある。

  • オーパ! 完全復刻版
  • 『約束の地』(上・下) バラク・オバマ
  • マイ・ストーリー
  • 集英社創業90周年記念企画 ART GALLERY テーマで見る世界の名画(全10巻)

特設ページ

  • オーパ! 完全復刻版
  • 『約束の地』(上・下) バラク・オバマ
  • マイ・ストーリー
  • 集英社創業90周年記念企画 ART GALLERY テーマで見る世界の名画(全10巻)

本ホームページに掲載の記事・写真の無断転載を禁じます。すべての内容は日本の著作権法並びに国際条約により保護されています。
(c)SHUEISHA Inc. All rights reserved.