Nonfiction

読み物

Photo Essay 惑星巡礼 角幡唯介

藪道

更新日:2018/04/11

 私が住んでいる鎌倉の極楽寺という地区は、海まで歩いてすぐなのだが、その一方で山の尾根が木の根のようにうねうねと広がっており、海というより山中という印象を強くもたせる土地柄である。人里から離れた山奥にある集落は、俗に〈~のチベット〉と呼ばれることが多いが、極楽寺はまさに〈鎌倉のチベット〉。極楽寺という地名も仏教国家であるチベットを想起させ、ぴったりだ。
 山が広がり自然が豊かなのはいいが、尾根に邪魔され移動に時間がかかるのは面倒だ。たとえば娘の通う幼稚園は直線距離にしたら五百メートルも離れていないのに、大きな尾根に隔てられて車道がぐるっと迂回しているせいで、自転車で十分ぐらいかかる。
 山を突っ切る道があれば楽だなぁと考えるのは人間心理としては自然だろう。引っ越す前から、妻は私に、幼稚園へと続く山道を切り拓いてほしいと要望していた。
 無茶苦茶な話である。鎌倉の山は私有地が入り組んでいるので、件(くだん)の尾根だって誰かの土地かもしれない。国や市の土地だとしても勝手に道を作るのは違法だろう。それに他人の家の裏山に毎日勝手に鉈をもって通うのは、かなり怪しげな行動である。私はそこまで神経が太くない。
 しかし先日、知人からその尾根筋には踏み跡があり、私の家の近くにその踏み跡に出る道があるはずだと聞いた。尾根筋に出られさえすれば娘の幼稚園の裏側に下りられるという。引っ越し以来、夢見ていた幼稚園へのショートカットルートである。確認するなら藪の繁茂する夏ではなく、今がチャンスだ。
 早速、娘を伴ってその尾根筋に出る道を探した。しかし〈鎌倉のチベット〉は甘くなかった。車道からすぐのところにそれらしき道は見つかったが、急斜面に虎ロープが連続して張っている。普通の登山道よりよほど険しい。というか、どちらかと言えば、私が十年近く前に決死の思いで探検した本場チベットのツアンポー峡谷の斜面に近い。娘は初めての本格的な冒険に興奮し、ロープをつかんで十メートルほど登攀(とうはん)し、「やったぁ。ここまで登れたぁ」と歓喜にむせんでいたが、しかしそれが四歳児の限界。虎ロープはそこで途切れ、その先には自力で登らなければならない急崖が続き、幼稚園ショートカットルートの開拓は断念せざるを得なかった。
 それにしても、いったいこの道、誰が使っているんだろう。

著者情報

角幡唯介(かくはた・ゆうすけ)

1976年北海道芦別市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大探検部OB。2010年『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』(集英社)で第8回開高健ノンフィクション賞、11年同作品で第45回大宅壮一ノンフィクション賞、第1回梅棹忠夫・山と探検文学賞。12年『雪男は向こうからやって来た』(集英社)で第31回新田次郎文学賞。13年『アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極』(集英社)で第35回講談社ノンフィクション賞。15年『探検家の日々本本』(幻冬舎)で毎日出版文化賞書評賞。

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