Nonfiction

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Photo Essay 惑星巡礼 角幡唯介

ヒグマの楽園

更新日:2017/09/27

 北海道の日高山脈で長期の沢登りを行うため、芦別の実家に帰省した。締切間際の残り原稿を仕上げ、山行の準備をしていたところ、台風5号が南西諸島を急襲。天気予報によると、このうえもなくのろのろとした動きの後、そのまま日本列島を北上し、北海道まで到達しそうな雲行きになってきた。
 大雨の沢登りほど憂鬱な行為はこの世に存在しない。長期間沢に入れば何日か雨にたたられるのは避けようがないが、しかし入山早々台風というのは正直、気が滅入る。一方、私は定職のない自由業の身で、スケジュールはそのときの気分次第で変更可能という普通の社会人では考えられない非常に恵まれた立場を享受している。そのためこのように状況が悪化すると、大抵は、じゃあ天気に合わせて台風が過ぎてから山に行くかという判断に傾くことになり、どんどん山行予定がズレていくというのが毎度のパターンだ。
 というわけで台風が来るまでの数日間、暇になったため、近所の山に登りに行くことにした。地図をみると夕張岳なら実家から電車で一時間の金山駅から入山が可能みたいである。車がないので駅から十キロも歩かなければならないのが面倒だが、一応、手軽な規模の沢もあるので、一泊二日の日程で登ることにした。
 さて、北海道名物といえばヒグマである。北海道の沢ははじめてだったので、どれぐらいヒグマのリスクがあるのか知らなかった。もちろん警戒心はかなりあったが、同時に本州のツキノワグマがヒグマにかわるだけで、棲息数自体は本州と大差ないだろうと高をくくっていた。本州の沢では熊に会うことなど滅多にないからだ。ところが入山して驚いた。山の中はもうヒグマの気配に満ち満ちていたのである。
 というより入山前の段階でヒグマがうようよしているのがよくわかった。金山の集落のはずれの林道を歩いていると、早速、一頭、藪の中でごそごそと音を立てて森の中に逃げていった。姿は見えなかったが、あきらかに熊である。おいおい、いきなりか。これで用心が高まり、ホームセンターで奮発して購入しておいた二千円もする熊除け鈴をザックにぶら下げた。
 鈴は二千円もしただけあってチーンというじつに典雅な音を響かせて、私を安心させた。しかし、だからといって熊の気配が消えたわけではなかった。沢の中ではあちこちで熊の棲息を示す濃密な痕跡にでくわした。砂上に刻まれた大きな足跡や黒々とした立派な糞。とりわけすごかったのは夕張岳山頂近辺だ。至るとこ熊の糞だらけ。五十メートル歩いたら糞、また五十メートル歩いたら糞、といった状態である。
 さらに時折、ドドドドと聞いたこともない低いくぐもった重低音が聞こえてくる。山頂手前の釣鐘岩付近で一回、下山途中の上部で一回の計二回だ。最初は雷かと思ったが、空はガスが立ちこめてはいたものの雷が鳴りそうな模様ではない。糞の多さから考えると、熊の威嚇音なのだろう。要するに俺はここにいるぞ、あんまり近寄るんじゃねぇと警告しているのだ。まあ、向こうは気づいているというのがわかっただけで安心だったが、気持ちのいいものではない。
 下山後、ネットで少し調べると夕張岳では近年、ヒグマの遭遇、目撃例が多発しているようである。ヒグマの楽園か。事前に調べないでよかった。調べていたらビビッて行かなかっただろう。

著者情報

角幡唯介(かくはた・ゆうすけ)

1976年北海道芦別市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大探検部OB。2010年『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』(集英社)で第8回開高健ノンフィクション賞、11年同作品で第42回大宅壮一ノンフィクション賞、第1回梅棹忠夫・山と探検文学賞。12年『雪男は向こうからやって来た』(集英社)で第31回新田次郎文学賞。13年『アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極』(集英社)で第35回講談社ノンフィクション賞。15年『探検家の日々本本』(幻冬舎)で毎日出版文化賞書評賞。

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