Nonfiction

読み物

Photo Essay 惑星巡礼 角幡唯介

セイウチショー

更新日:2017/01/11

 近年、もっともスリリングだった出来事は、グリーンランド北西部をシーカヤック中にセイウチに襲撃されたことだ。北緯78度にあるシオラパルクの村を出発して四日目、鏡のように波ひとつない透き通った水面を気持ちよく漕いでいるとき、突然、本当に何の予兆もなくセイウチが現れ、同行者のカヤックの上に乗りあがって牙を突きたて引き裂いた。同行者はかろうじて転覆を免れ、私たちは一目散に逃げだしたが、その後、セイウチは今度は私めがけて龍のように身体をうねらせて追いかけてきた。私はセイウチが巻き起こす追い波に恐懼(きょうく)しながら、殺される、殺される……と喉がカラカラになる思いで必死でパドルを動かし、ひたすら逃げた。セイウチは途中で姿を消して事なきを得たが、このときはまったく生きた心地がしなかった。それから一カ月後、再び巨大な牙を生やしたセイウチが魚雷みたいに大音響を響かせて目の前に飛びだしたときは、腰を抜かしそうになった。
 しかし、それよりも驚いたのは、私がグリーンランドでセイウチに殺されかかっているときに、私の妻子がそのセイウチと仲良しこよしになっていたことだ。
 じつはグリーンランドでは伝統的なカヤックによるクジラ漁が今も残っており、その最中にセイウチに海中に引きずりこまれて猟師が死亡するという事故がたびたび起こる。そのためセイウチは、イヌイットからシロクマよりはるかに危険な存在として認識されている。実際、私がカヤックの旅に出る直前にも猟師がセイウチに殺される事故が二件立てつづけに発生し、村人たちからカヤックで旅をする危険性を懇々と指摘された。そんな話を聞いているとさすがに私もセイウチの危険性にナーバスになっていく。ところがその話をスカイプで妻に話すと、驚いたことに妻と娘は、私が村でセイウチ事故の情報に右往左往しているまさにそのとき、大分のマリーンパレス水族館「うみたまご」という施設でセイウチショーを見て肌をなでなでするなどの危険行為を繰りかえしたというのである。
「セイウチ、すごく可愛かったよ〜」
 妻の無邪気な話を聞きながら、私はその水族館で死者は出ていないのだろうか……と内心唖然とした。
 さて、それから一年以上が経過した今年十月初旬、ふとしたことから私も件(くだん)のうみたまご水族館を家族と訪れる機会があった。目的はもちろんセイウチショーである。飼育員に促されて風船を膨らませたり、割ったりする二頭のメスセイウチ。グリーンランドではカヤックの旅の後はセイウチの姿を見なかったので、襲撃以来、はじめて見る生セイウチだ。セイウチたちはコミカルな動作で会場を爆笑の渦に巻き込み、ショーが終わると観客たちがじかに身体に触れるスキンシップの時間がはじまった。会場に集まった大人も子供も皆、セイウチに群がり、無数の手が茶色く鈍く光る皮膚にのびていく。もちろん私も一緒に手を伸ばしてペタペタと触ってみた。初めて触れる宿敵セイウチの素肌。襲撃されたときはガサガサとした土塊のような薄気味の悪い皮膚感に見えたが、実際に触れるとしっとりと濡れていて柔らかい。イヌイットが主張したような危険な生き物には全然、見えない。なんだろう、この違いは……。
 最後に手のニオイを嗅いでみる。魚の生臭さのような奇妙な磯のニオイがして、とても臭かった。セイウチ、お前、こんなに臭かったのか……。
 次はいつ、どこで彼らと会うことやら。

著者情報

角幡唯介(かくはた・ゆうすけ)

1976年北海道芦別市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大探検部OB。2010年『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』(集英社)で第8回開高健ノンフィクション賞、11年同作品で第42回大宅壮一ノンフィクション賞、第1回梅棹忠夫・山と探検文学賞。12年『雪男は向こうからやって来た』(集英社)で第31回新田次郎文学賞。13年『アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極』(集英社)で第35回講談社ノンフィクション賞。15年『探検家の日々本本』(幻冬舎)で毎日出版文化賞書評賞。

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