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Photo Essay 惑星巡礼 角幡唯介

子供との登山 その1

更新日:2020/09/23

 制御不能な他者と関わることで、わが身は、それ以前には想定しなかったような状況のなかに投げ出される。他者というのは人間のことだけではなく、私の場合であれば北極という土地だったり、犬だったりするわけだが、こうした偶然の出会いを受けいれ、関わりを肯定することで、自分自身が変状し、考えてもいなかった自己超出を経験できる。そして自己超出をくりかえし、脱皮する毛虫のように古い自分を脱ぎすて新しい自分に生まれ変わることで、固有度が増し、人はその人自身になってゆく。そう考えると、こうした不意におとずれる関わりのなかにこそ人間の生というものは存在するといえるはずだ。
 四十を過ぎてそんなことを考えることが滅法多くなり、今度そういうテーマの本を出すのだが、それはさておき、制御不能な他者ということで多くの人に真っ先に思いつくのが子供ではないかと思う。とくに子供と一緒に山に登るときなど、山は山で天気が急変したりして制御不能だし、子供も自分で身を守れず私には制御不能ということで、二重の制御不能性に直面し、ときにおたおたすることがある。
 七月の梅雨の真っ盛りに丹沢の畦ヶ丸(あぜがまる)という小さな山に登りに行ったときがそうだった。畦ケ丸に登るには沢沿いの登山道から行くことになるが、この登山道は沢沿いというよりむしろ沢のど真ん中にあり、途中、丸太をくんだ橋を何度も渡らなければならない。橋はおおむね良好な状態だが、丸太が一本しかなかったり、沢の流れの中にちょこんと置かれただけのようなところもあって、万が一、大雨で増水したら流されちゃうんじゃないか、と思われる場所もある。なので子供と行くにはちょっと不安をおぼえる道なのだが、しかしその日は梅雨真っ盛りであるとはいえ、天気予報を見ると終日曇りで、雨はそれほど心配なさそうだったので、大丈夫かなと早朝に自宅を出た。
 子供にとってはやや歩きにくい道だったようで予定より時間がかかったが、それでも、まあ、おおむね順調といえるタイムで頂上へ。ところが下山中に天気が急変した。山頂付近の尾根から急斜面を下りきって沢筋に出たあたりで突然、上空に暗雲が立ちこめ、あれよあれよというまに周囲が暗くなり、ポツポツ降り出した。と思ったその直後には直径一センチはあるのではと思われる大粒の雨が凄まじい密度で落ちはじめたのだ。
 さあ、大変だ。沢は完全に平水だったのでそうすぐには増水しないだろうが、下山まで推定一時間はかかる。この驟雨ではそれまでに水が増えるかもしれない。問題は一番下の橋で、これが川のなかにちょこんと置かれたいかにも頼りない橋だったから、あまり水量が増えたら流されることも考えられる。私一人なら増水したって斜面の泥藪を越えてなんとでもなるが、なにしろ六歳の子連れの身、泥藪越えなど考えられない。それからは何としてでも増水前に下山しなければ、と急ぎに急いだ。「な~に、そう簡単に水は増えないから大丈夫さ」と口では平静をよそおいつつ、でも本心は焦りの気持ちをかかえながら、子供の手をとり速足で駆け下った。
 降りはじめて三十分ほどで最初の懸念だった急流のなかの丸太橋に到着。水量は増えていたが、まだ濁流というほどまでは増加しておらず、ここは子供を抱っこして渡渉して突破。雨はさらに勢いを増し、沢の水もじわじわと濁りはじめたが、それでも急いだ甲斐あり、最後の沢中の橋も急流に洗われる前に渡り終えることができた。
 とはいえ神奈川県立西丹沢ビジターセンター前の吊り橋で背後の沢をふりかえると水はコーヒー色に濁っている。それを見たときは、あと三十分遅かったらドはまりしていたかもしれんと、やや冷や汗をかくことになった。

著者情報

角幡唯介(かくはた・ゆうすけ)

1976年北海道芦別市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大探検部OB。2010年『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』(集英社)で第8回開高健ノンフィクション賞、11年同作品で第45回大宅壮一ノンフィクション賞、第1回梅棹忠夫・山と探検文学賞。12年『雪男は向こうからやって来た』(集英社)で第31回新田次郎文学賞。13年『アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極』(集英社)で第35回講談社ノンフィクション賞。15年『探検家の日々本本』(幻冬舎)で毎日出版文化賞書評賞。

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