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Photo Essay 惑星巡礼 角幡唯介

アッコダッウィ氷河

更新日:2020/07/22

 毎年、シオラパルクから氷河を登り、内陸氷床をこえて北部の無人地区を旅しているが、その最初の鬼門が、村を出発して最初に登らなければならないその氷河である。
 従来、北部無人地区に行くには、シオラパルクから五十キロ北にあるアッコダッウィという氷河が一般的なルートであり、かの植村直己も一九七五年、北極圏一万二千キロの旅の途上でこの氷河を越えてカナダにむかっている。ところが近年は二月、三月に強風が一発吹いただけで沖からうねりが入りこみ、外洋の海氷が崩壊、流れるのが通例となってしまい、アッコダッウィ氷河に行くのが難しくなった。
 二〇一四年から私はこの地域を訪れているがアッコダッウィ氷河から氷床に登れた年は一度もない。仕方なしに毎年、村のフィヨルドのどん突きにあるイキナ氷河をルートにしているが、このイキナ氷河は傾斜がきつく、特に犬橇で旅をする場合には犬の餌等の物資が大量に必要になり、事前に何日もかけて荷上げしなければならない、という労苦をともなう。
 話によればアッコダッウィ氷河は傾斜もゆるく、橇に乗ったまま半日ほどで氷床のうえに出られるらしく、毎年のようにイキナ氷河で辛酸をなめてきた私にとっては夢のルートであった。いつかアッコダッウィを登りたい。楽して氷床に登りたい。それは私にとって積年の願いであった。
 そして今年、二〇二〇年、ついにチャンスが訪れた。例によって二月に大風が吹き、一度海氷が流れたのだが、その後は風もなく、しかも例年にないほど厳しい冷えこみにめぐまれ、今、外洋の海氷は広大かつ堅固な新氷におおわれている。三月上旬に一泊二日で偵察してきたところ、予想通り海氷は同氷河までつながっていた。氷河の下部を試登したところ、噂にたがわぬ素晴らしい氷河で、犬は私を橇に乗せたままぐいぐい登っていく。いつものイキナ氷河では考えられないほど一気に高度を稼ぐことができるではないか。
 しかし、やはり自然をあまく見てはいけない。
 村にもどってから私は、今年の長期犬橇漂泊行の出発日を三月十九日と決め、村の近辺で最後の犬の訓練にはげんでいた。もう完全にアッコダッウィから登るつもりでおり、イキナ氷河のことなど頭から消えかけていた。それなのに急に各種天気予報サイトが、私の出発予定日の三日前にあたる三月十六日に強烈な北風が吹くとの予報を出しはじめたのである。予報によればアッコダッウィ沖合では風速二十メートルをかるく超える強風となりそうで、こんなに吹いてしまえば海氷はまた流出し、イキナ氷河で荷上げしなければならなくなるだろう。嗚呼(ああ)、今年もまた駄目なのか……。
 今は現地時間三月十五日午後五時三十九分。予報によれば今日の夜から風はふきはじめ、明日の昼すぎまでつづきそうである。嵐の前の静けさか、外はまだ無風。しかしここまで来たからには、まずまちがいなく大風となるだろう。はたして海氷はもつのか否か。今年もイキナ氷河でうんざりするような荷上げ作業をこなさねばならないのか否か。今、私はその審判を待っているところである。

著者情報

角幡唯介(かくはた・ゆうすけ)

1976年北海道芦別市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大探検部OB。2010年『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』(集英社)で第8回開高健ノンフィクション賞、11年同作品で第45回大宅壮一ノンフィクション賞、第1回梅棹忠夫・山と探検文学賞。12年『雪男は向こうからやって来た』(集英社)で第31回新田次郎文学賞。13年『アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極』(集英社)で第35回講談社ノンフィクション賞。15年『探検家の日々本本』(幻冬舎)で毎日出版文化賞書評賞。

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