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Photo Essay 惑星巡礼 角幡唯介

雌犬

更新日:2020/04/22

 去年から犬橇をはじめて頭を悩ませていたのは雌犬をくわえるかどうかという問題だった。
 グリーンランドのイヌイットたちは基本的に雄犬を主体に犬橇のチーム編成をおこなうが、これはもちろん雌より雄のほうが大柄でパワーがあることが理由である。で、その雄主体のチームに雌を一、二頭くわえたりくわえなかったり、といった感じで皆、チームを組む。
 つまり犬橇チームにおいて雌はいてもいなくてもいい存在だ、ということがいえるわけである。
 いてもいなくてもいいのなら入れなくていいのではないか、頭を悩ませる必要などないではないか、と思われるかもしれないが、じつは雌がいるのといないのでは雄たちの走行状態に変化があらわれるという。雌犬がいなくても雄犬たちは十分に走るのだが、そこに雌犬がくわわると、性的興奮が高まって男性ホルモンの分泌量が増大し、天然のドーピングというのか、要するに雌の存在が雄たちを異常ハッスルにおいこみ、雄だけでは不可能な勢いの疾駆を可能にするらしいのである。
 それならさらに悩む必要はなし、即刻雌犬を入れるべし、と思われるにちがいない。しかし話はそんなに単純ではないのである。
 人工のドーピングに手を染めたスポーツ選手が薬物の使用により身体を蝕まれるのと同様、じつは雌犬投入による天然ドーピングにも相応の危険があり、それが何かというと、雌犬が発情期をむかえると雄たちの間で雌犬をめぐる混乱が生じ、闘争の季節をむかえてしまうことだ。ぷんぷんとエロチックなフェロモンを嗅ぎつけた雄たちの身体には夥しい量の男性ホルモンが駆けめぐり、たったひとつしかない女陰の存在をめぐって見境のない攻防にあけくれる。ときには引綱が首に絡まり死亡、などという事故が起きることもあるらしい。それだけでなく雌犬も飼い主の言うことをきかなくなり、突然、あらぬ方向に駆け出し、雄たちがいっせいにそれを追いかけてあっという間に橇がどこかに消えてしまう、などという悲惨な事例が起きることもあるとかないとか……。
 要するに雌犬の加入はハイリスク・ハイリターンなのだ。雌犬を入れたほうが有利だという人もいれば、制御困難になるためよしたほうがいいという人もいる。去年は初年ということもあり、正直、ハイリスクなチーム編成をする余裕はなかった。雄が死ぬのはまだしも、単独長期旅行の途上で全頭どこかに消えたら、自分が死んでしまう。
 しかし今年は犬のあつかいにだいぶ慣れたこともあり、雌の加入を真剣に検討しはじめた。
 そんな折、イラングア・クリスチャンセンという下ネタの大好きなオヤジが家に遊びに来て、二人で下ネタで盛りあがっていたのだが、下世話な話が一段落したところで彼が雌犬を飼わないかと持ちかけてきた。
 イラングアKは去年から雌犬をすすめるうちの一人だった。彼によると、雌の存在はとくに私がやろうとしている一カ月以上の長期旅行では効果大で、日数がかさなり疲労が蓄積すると雄たちは目にみえて覇気がなくなるが、雌が一頭いると疲れても気分が高揚し、橇引きにも力が入る。だから連れて行ったほうが良いという。
 早速、彼の犬を見に行くと、これがまた優美で気品あふれた犬で、全身雪のような白い毛にふさふさとつつまれ、容貌は見目麗しく女狐のような妖気さえただよわせている。性格はツンデレ系というのか、容易に他人の接近をゆるさず、それがまた手の届かない高貴な女を思わせる。身体が小さいことが気になり一週間ほど返答を先延ばししたが、最終的に八〇〇クローネで購入し、チームにくわえた。
 名前はカコット、白という意味だ。カコットは何度か練習走行をともにするうちにチームに馴染み、やがてリーダー犬の後ろで可愛らしい小さなお尻をふりふりさせて走るようになった。彼女のお尻に悩乱した雄たちはこれまでにない力で疾走し、私の口からも思わず「カコットちょこっと~、ちょこっとカコット~」とわけのわからない鼻歌がもれる。
 ところが、よーし、これで今年の長期旅行は爆走だあっ! と私の期待が頂点に達したある日、予想外の事態が出来した。夜、犬の様子を見に行くと、カコットと現ボス犬(と思しき最強犬)ポーロが絡みあっている。引綱をほどいてやると二頭の陰部は結合したままだ。つまりこれはポーロの野郎がカコットの陰部にアレを挿入したというわけで、カコットは早くも発情期を迎えてしまったのである。
 これは困ったことだ。というのも、このままだとカコットは四月終わりか五月に子供を出産とあいなる計算で、ちょうど長期旅行の時期とかさなってしまうからだ。雄たちを発奮させるためにチームにくわえた彼女が、旅に参加できなくなる可能性が出てきたのだ。

著者情報

角幡唯介(かくはた・ゆうすけ)

1976年北海道芦別市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大探検部OB。2010年『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』(集英社)で第8回開高健ノンフィクション賞、11年同作品で第45回大宅壮一ノンフィクション賞、第1回梅棹忠夫・山と探検文学賞。12年『雪男は向こうからやって来た』(集英社)で第31回新田次郎文学賞。13年『アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極』(集英社)で第35回講談社ノンフィクション賞。15年『探検家の日々本本』(幻冬舎)で毎日出版文化賞書評賞。

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