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Photo Essay 惑星巡礼 角幡唯介

二年目の犬橇開始

更新日:2020/03/11

 一月十九日、シオラパルクの村はまだ極夜の季節なので太陽は昇らないが、正中時刻(シオラパルクでのそれはグリーンランド標準時のだいたい午後二時すぎ)をはさんで四、五時間は、地平線下のまだ昇らぬ太陽が、それでも高度をあげて地平線にぐっと近づくため、南を中心に空に暗色をただよわせた薄い青色がひろがる。三年前の極夜の探検のときにこのような曙光を感知せしめる空をまのあたりにしたときは、なにぶん十二月、一月の、精神に不調をきたしかねない暗黒の時期を越えたあとだっただけに、嗚呼(ああ)、ついに極夜が終わったのだと喜悦がおしよせ、状況の好転を寿いだものだが、今回のように普通に昼間は明るく視界に不都合の生じない日本=非極夜性日常世界からやってくると、この冬至をすぎてまだ一カ月ばかりにすぎない極夜世界はなにしろ暗く、気分が沈鬱になり、暗然として気勢があがらず、どうにも身体の節々が痛い気がしてくる。眼がひぐらしまどろみ、日本にのこした家族が恋しい。ひっきりなしに腹痛におそわれるのも暗さのせいかもしれない。
 ああ、そうだった。私は犬橇(いぬぞり)をしにきたのだ。海豹(アザラシ)の毛皮靴をはき、防寒衣に身をつつみ、三本の鞭を片手に鈍重な足取りでよたよたと凍った海にむかう。その姿を見て犬たちが、オロロン、オロロンと裏返った声でなきわめく。去年五月に別れて以来、彼らは首を鎖につながれた状態で、行動圏域を半径三メートルの円内に限定され、ただ餌だけあたえられる状態だったので、主人である私が、すなわち犬橇の操縦者である私が、その橇操縦時のユニフォームである濃緑色のヤッケと白色の防寒パンツに身をつつんで登場したのを見て、喜びとも悲鳴ともつかない複雑な声をあげているのである。
 彼らは喜んでいるのか、恐れているのか。確実にわかるのは彼らが興奮しているということだけだ。
 犬にとって私は神であり悪魔でもあろう。犬橇に使役することで、私は彼らの、走るものとしての本性を解放する。彼らは橇を引くことで、はじめておのれにあたえられた犬の本分としての能力を発揮することができる。私と長旅をすることで、海豹をおいかけ、乾いたドッグフードではなく、血の滴る新鮮な生肉をくらうことができる。それは犬という動物にとって幸福なことだろう。しかし私と行動することは彼らにとって苦役であるかもしれない。私と長旅をすることで身体は傷つき、疲弊し、衰弱し、やつれることを知っているし、肉体的労苦がはなはだしいだけでなく、主人である私はときに理解不能な理由で荒れ狂い、激情にかられ怒号をあげながら容赦なく太いロープをたばねた棍棒のような道具で殴打することもあるからである。
 本性をまっとうさせてくれる神、そして労苦と苦役をもたらす悪魔。いずれにしても私は犬にとって中道ではなくこの両極端を象徴する存在であり、犬はその私の姿を見て、うわあああ、またあの両極端な人がきて、これから両極端な生活がはじまるぞおお、うわああああああっと無上の興奮をもよおしオロロン、オロロンと涎をまきちらしなきわめいているというわけである。
 こうして二年目の犬橇がはじまった。

著者情報

角幡唯介(かくはた・ゆうすけ)

1976年北海道芦別市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大探検部OB。2010年『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』(集英社)で第8回開高健ノンフィクション賞、11年同作品で第45回大宅壮一ノンフィクション賞、第1回梅棹忠夫・山と探検文学賞。12年『雪男は向こうからやって来た』(集英社)で第31回新田次郎文学賞。13年『アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極』(集英社)で第35回講談社ノンフィクション賞。15年『探検家の日々本本』(幻冬舎)で毎日出版文化賞書評賞。

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