知と創意のエンタテイメント 集英社 学芸編集部

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Nonfiction

読み物

馬の帝国 星野博美

第16回  「トルコ行(3)」

【後編】

更新日:2021/09/01

 カッパドキアといえば、奇岩と洞窟である。恐竜がひっかいた爪痕のような岩肌が連なっているかと思えば、円錐形の尖塔や、ぶなしめじのような形をした岩が林のように密集したり、長年の風雨にさらされてギザギザに侵食された岩山が屹立したりと、この地の大自然を見ているだけで、創造主の存在のようなものを否が応でも意識させられる。
 太古の昔、海抜3916mのエルジェス山が活発な火山活動を繰り返し、長い時間をかけて膨大な量の溶岩や火山灰が大地に降り積もった。それらはさらに時間をかけて風雨にさらされて浸食され、他に類を見ない、カッパドキアの不思議な景観を作り上げた。つまりこれらの岩は固そうに見えるけれど、案外柔らかいということだ。私が滞在しているホテルも岩山をくり抜いて建てられた洞窟ホテルだが、木の多かった日本では木を用いて家を建てたように、ここではこの土地ならではの特徴を生かし、人々は岩や斜面に洞窟を掘って暮らしてきた。ギョレメ野外博物館も、そうして造られた岩窟教会が集結した場所だ。

岩窟教会

ロシア、キリロベロゼルスキー修道院に残るカエサレアのバシレイオスの画。
©Fine Art Images/Heritage Images

 午後遅くだからか、ここも旅行者が少なく、インド系(のように見える)の団体を何グループか見かける程度。南インドはポルトガルに支配された影響でカトリックが少なくないので、南インドから来た人たちかもしれない。客が少ないためか、期待していたミュージアムショップも閉鎖されている。アニもそうだったが、トルコの公立博物館は欲がないといおうかやる気がないといおうか、オフシーズンには最低限しか稼働させない方針のようだ。その分、一つ一つの教会と静かに対峙できるのはありがたかったが。
 トルコを考える際に難しいのは、遠い昔、ここがかつてローマ帝国の領域で、キリスト教の地だったという想像力を持たなければならないことだ。ギョレメ近隣のカイセリが、「カエサルの都市」を意味してカエサレアと名付けられたことが象徴するように、カッパドキアはローマ帝国の属州だった。
 さらにカッパドキアは初期キリスト教会において、極めて重要な場所だった。
 ローマ皇帝コンスタンティヌスがキリスト教を国教化したのが313年。その後ほどなくしてカッパドキアは、のちに「カッパドキア三教父」と呼ばれる、キリスト教の教義確立に多大な貢献をした三人の聖人を輩出した。聖大ワシリイ、またの名をカエサレアのバシレイオス(330-379)、その弟であるニッサ(現在のネヴシェヒル)の聖グリゴリイ(335-394)、そして二人の友人だった神学者グリゴリイ、またの名をナジアンゾス(現在のカッパドキア南西)の聖グレゴリウス(329-389)だ。
 このギョレメ野外博物館がある場所はもともと、聖バシレイオスがキリストの教えを実践する共同体を提唱し、隠棲して修道生活を送った場所だという。カッパドキアの奇岩群を見ると、私ですら創造主の存在を意識してしまうくらいなのだから、当時の敬虔なキリスト教徒がこの自然の中で修道生活を営もうとした気持ちはとても自然なものに映る。
 この場所に黙想的な生活を送りたい僧や修道士が集まり、小さな修道院を建て始めたのが9世紀後半。ここが選ばれた理由は、前述の聖人の眠るギョレメの谷が聖性を帯びていたこと、そして砂漠を思わせるような超現実的な景観が修行に適していたことが考えられ、巡礼者が訪れるようになった。そしていつしかカッパドキアはキリスト教徒にとっての聖地となっていった。
 聖地としての名声が上がると、有力者がこぞって教会を建てたがるようになる。ギョレメの谷全体で、1年の日数と同じ365の洞窟教会が造られたといわれ、現在は30ほどの教会が公開されている。野外博物館の保存状態のよい教会は、11世紀に建造されたと見られている。
 カルスやアニの帰属がめまぐるしく変わったのと同様、カッパドキアもペルシャ、続いてウマイヤ朝の脅威にさらされ、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)が奪還したりイスラーム勢力が盛り返したりを繰り返し、異なる宗教を奉じる二大帝国の間で帰属が揺れ動いた。そして、11世紀にテュルク系のセルジューク朝に支配されて以降、二度とキリスト教の地には戻らなかった。

素朴な宗教表現

 教会、と聞くと壮麗なものを想像しがちだが、個々の教会は、岩をくりぬいて造った本当に素朴なもので、見学者のために設けられた10段ほどの階段を上り、換気や採光のために開けられた入口から背を丸めて中に入っていく。聖バシル(バシレイオス)教会や聖バルバラ教会のライトに照らされた壁には、素朴な筆致でキリストやマリア、聖人の姿が描かれている。赤(オークルレッド)の彩色が多いのは、赤い孔雀石やマンガンといった鉱物がアナトリアではたやすく手に入ったからだという。微妙に歪んだ幾何学模様や、ともすると落書きのようにさえ見える十字架。専門の画家によって描かれたものではない原始的な絵や模様が、切実な信仰のために描かれた証のように映り、かえって胸に迫る。外界から遮断された、この暗くて狭い空間に身を置くだけで、ここで祈りを捧げた人たちの切実さが伝わってくるようで、厳粛な気持ちになる。
 一方、エルマル教会(りんごの教会)、カランルク教会(暗闇の教会)やチャルクル教会(サンダルの教会)などは、鮮やかな色彩の高水準の壁画で覆われている。明らかに専門の画家によって描かれたと考えられ、資金力の存在が感じられる。

聖バシル教会。槍を持ち白馬にまたがる聖テオドール。©星野博美

聖バシル教会。幼子イエスを抱く聖母マリア。©星野博美

聖バルバラ教会。赤い色で様々な文様が描かれている。©星野博美

エルマル教会(りんごの教会)。フレスコ画の顔の部分は、偶像崇拝が禁じられたイスラーム教徒によって削り取られた。©星野博美

 なぜここに修道院と教会が集結し始めたのが9世紀後半なのだろう?
 それにはビザンツ帝国の聖像破壊運動(イコノクラスム)が関係している。
 ビザンツ帝国では726年、皇帝レオン3世によって突如、聖像破壊運動が起こった。レオン3世は、快進撃を続けたウマイヤ朝によるコンスタンティノープル包囲を撃退し、イスラーム勢力を押し戻した有能な軍人皇帝だった。しかし偶像崇拝を禁じるイスラームと長らく対峙した影響からなのか、人々のイコン(聖画)に対するゆきすぎた崇敬や、修道院の権力肥大化を危険視するようになり、聖像破壊運動を開始して修道院に対して激しい弾圧を行った。レオン3世の弾圧に抵抗した人の中から、のちに正教会で篤く崇敬される聖人が生まれている。コンスタンティノープル総主教だった聖ゲルマヌス1世(634-733/740)や、アラブ人キリスト教徒であるダマスコ(ダマスカス)の聖イオアン(676頃-749)だ。
 最終的に、皇后テオドラが843年に召集した公会議でイコンの正統性が再確認され、1世紀にわたった聖像破壊運動にようやく終止符が打たれた。正教会ではこの、「聖像崇敬派勝利」の状態がいまも続いている。
 つまりギョレメの岩窟教会群は、修道院を徹底弾圧した聖像破壊運動から解放された喜びから増殖し、色鮮やかなイコンには、宗教表現ができる喜びがいかんなく発揮されているのだった。

聖像崇敬派の勝利

 聖像崇敬派の勝利の喜びの発露に、カッパドキアで出会えるとは……。個人的に感慨深いものがあった。
 私はその頃、13世紀のスペイン(当時はカスティーリャ)で「賢王」アルフォンソ10世によって編纂された、聖母マリアを讃える頌歌集「カンティガ」に夢中になっていた。古楽器リュートで自分にも弾ける曲を探すうち、この歌集にたどり着き、旋律を奏譜に起こし、歌詞を訳して当時の人々の心性を想像することを日課としていた。
 そんなある日、ふと気づいた。この歌集には案外コンスタンティノープルを題材にした歌が少なくないことに。そのほとんどが聖母マリアの聖画(イコン)がモーロ(イスラーム教徒)を撃退した、聖母マリアが現れてコンスタンティノープルを救った、といった内容だった。それらを訳している時に、聖像破壊運動を起こしたレオン3世、それに抵抗して罷免された聖ゲルマヌス1世、皇帝から手を斬られた(といわれる)ダマスコの聖イオアンの存在を知った。レコンキスタ(国土再征服)の真っ最中で、日頃からイスラームと対峙し、聖母マリアを篤く崇敬する13世紀カスティーリャの心性は、ビザンツ帝国の聖像崇敬派の心性とぴたりと重なりあうように私には映った。
 けれどもカッパドキアの聖像崇敬派の喜びは、そう長くは続かなかった。
 ビザンツ帝国がテュルク系のセルジューク朝に大敗し、アナトリアの大半を失ったマラズギルトの戦いが1071年。つまりこれらの教会群は、聖像破壊運動が終結し、ようやく思う存分聖画を描けるようになった喜びを放出させたものの、間もなくイスラームの支配下に入ったことになる。そしてビザンツの凋落が西方キリスト教会を刺激し、聖地を異教徒から奪回するという名目でヨーロッパから十字軍がやって来る。イスラームとキリスト教の緊張がこれまで以上に高まり、キリスト教徒が十字軍の手先と見なされがちだった時代、カッパドキア巡礼など公然と行えるはずもない。セルジューク朝がこの地を制圧したあと、これらの教会も放棄された。
 ただ、一部の少数派ギリシャ系住民は、ギリシャとトルコの間で行われた「住民交換」でトルコから去る、少なくとも20世紀初頭まで、いくつかの教会で宗教行為を行っていたらしい。異教徒の支配下、奇岩の林立するこの地にキリスト教徒が集まり、わずかに換気や採光のための入口が設けられただけの岩窟教会で信仰を深める。いわゆる「隠れ」の状況である。
 ここは、長崎や五島で自分たちだけの共同体を作り、ひそかに信仰を貫いた、かくれキリシタンの里のような場所だったのか。そう思ったら突然、目に入る聖画という聖画がとてつもなく愛おしいものに感じられ、胸を打たれた。
 岩窟教会は、900年前に放棄され、外気に触れることなく内部が良好な状態で保持されたからこそ、いまなお鮮やかな色彩を見せてくれる。
 最も美しく壮麗な正教会の聖堂といわれるイスタンブールのアヤソフィアや、贅と技術の粋を極めたモザイクとフレスコ画が数多く残るカーリエ博物館(元コーラ修道院)などへ行く前に、カッパドキアの岩窟教会群を訪れたことは、私にとって幸運だった。
 ここがもしキリスト教の地であり続けたなら――つまりセルジュークにもモンゴルにもオスマンにも奪われず、ビザンツのままだったらという、到底ありえない「たられば」を言っているのだが――、正教徒にとって大変な聖地となっていただろう。
 しかし一方ではこうも思う。ここが長い間忘れ去られ、放置されたことで、聖像崇敬派の宗教的情熱が冷凍保存された。それは宗教的権威の中枢に近い、贅を尽くした聖堂からはけっして感じることのできないものだろう。
 馬がいるという理由で訪れたカッパドキア。この地へ誘導してくれた馬の存在に、私は感謝した。

著者情報

星野博美(ほしの・ひろみ)

ノンフィクション作家、写真家。1966年、東京生まれ。『転がる香港に苔は生えない』(文春文庫)で第32回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。『コンニャク屋漂流記』(文春文庫)で第63回読売文学賞「紀行・随筆」賞受賞。主な著者に『島へ免許を取りに行く』(集英社文庫)、『戸越銀座でつかまえて』(朝日文庫)、『今日はヒョウ柄を着る日』(岩波書店)、 『愚か者、中国をゆく』(光文社新書)、『みんな彗星を見ていた─私的キリシタン探訪記』『謝々! チャイニーズ』『銭湯の女神』『のりたまと煙突』(いずれも文春文庫)などがある。最新刊は『旅ごころはリュートに乗って――歌がみちびく中世巡礼』(平凡社)。

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