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Nonfiction

読み物

馬の帝国 星野博美

第3回 「馬と車」

【後編】

更新日:2020/06/24

 東京に戻って1週間猛勉強をしたあと、無事自動車免許を取得することができた。
 五島へ行く前に心身の調子を崩してから免許取得までの道のりを振り返ると、感慨深いものがあった。この年になっても、何かに向かって必死に努力をすれば、得るものは必ずある。その実感は、自信を失いかけていた自分には大きな心の慰めとなった。
 それ以上に嬉しかったのが、自由への予感のようなものだ。
 これからは、そこに道がある限り、どこへでも走って行ける。実際に行くかどうかは関係ない。「行けない」状態から「行ける」に昇格したのだ。その途端、脳内の想定行動範囲は格段に広がった。「行ける」がもたらす解放感に、めまいがした。
 そして自由の予感に刺激され、次の欲望が芽をのぞかせていることにも気づいた。
 馬への未練だ。

白樺湖への家族旅行で、姉と白馬に乗る著者(6歳)。©星野博美

 私は棚から幼少期のアルバムを引っぱり出した。
 1972.Sepと白枠にプリントされた、1枚の色あせたカラー写真である。白馬に2人の女児が乗っている。後ろにいるのが4歳年上の長姉で、姉に抱えられるようにしてまたがっているのが6歳の私だ。引いている人はいない。2人とも満面の笑みを浮かべ、興奮のるつぼといった様相を呈している。
 初めて家族で行った白樺湖への旅行。この写真には写っていないが、前には茶色い馬がいたはずで、その馬に牧場のおじさんと年子の次姉が乗っていた。
 2頭で連なって界隈の草原を歩いていると、前をいく茶色の馬の肛門が、カメラのシャッターのようにおもむろに開き、ボトッ、ボトッと糞を落とす。そしてまたシャッターが閉まるように肛門が閉じる。その様子がおもしろくて、姉と大笑いしたものだった。
 おや……もう1枚写真があった。同じく1972.Sepの写真。こちらは茶色い馬に私が一人で乗っている。この時のことは記憶からまったく消し飛んでいた。
 馬に乗ったのがよほど楽しかったのか、おそらく翌日も親にせがんで乗せてもらったのだろう。姉たちがいないところを見ると、私だけが駄々をこねたに違いない。
 そうか、あの時ももう一度乗りたがったのか……。
 もう少し、馬と付き合ってみたい。今度は自然の風景の中で乗ってみたい。そんな思いが膨れ上がった。
 もしかしたらその一回で、諦めるかもしれない。懲りるかもしれない。それでもかまわない。付き合うにしろ諦めるにしろ、何かきっかけがほしかった。
 馬に触れた初回が白樺湖なら、初心に返る意味をこめ、長野県へ行ってみよう。
 そして早速、外乗(がいじょう)ができる場所を探し始めた。

初めての外乗

 思い出深い白樺湖の近くに、モンゴル馬で外乗ができる牧場がある。外乗とは乗馬施設を出て、自然の中で馬に乗ることで、ホーストレッキングともいう。
 長野や山梨には外乗のできる牧場やクラブがいくつもあるが、私がその牧場に惹かれたのはモンゴル馬の存在だった。
 馬が好きな人は少なくないが、イメージする世界は人それぞれ異なっている。正装してサラブレッドにまたがり馬術をする様子を思い描く人もいれば、ウェスタンハットにウェスタンのブーツといういでたちで、荒くれ馬にまたがるような、ウェスタンの世界観を好む人もいる。その好みによって、乗る馬の種類や行きたい聖地も異なる。
 私が思い描く「馬の世界」はモンゴルだった。
 馬とともに生きる人々。13世紀に世界最大の帝国を築いたモンゴル帝国。ヨーロッパを恐怖に陥れた騎馬軍団。想像するだけでわくわくした。
 うちからその牧場までは約230Kmの距離である。いまならそんな無謀なことは絶対にしないが、運転初心者は怖いもの知らずだ。免許取得からまだ3か月もたっていないというのに、中央自動車道を飛ばして一気に走った。
 広大な牧場の中のあぜ道におそるおそる入っていくと、モンゴルのゲルがいくつも見えた。そしてその奥に、簡素な木の枠で囲まれた小さな馬場があった。
 その日の客は、両親に連れられて来た10歳くらいの女の子と私の二人だった。初心者でも参加できる、馬場レッスン20分+外乗50分という70分のコースである。
 モンゴル馬は、サラブレッドよりはるかに小さい。北海道のどさんこ馬ほどずんぐりモコモコはしていないが、脚は短めで太く、安定感がある。身体の小さな東洋人が乗るのにぴったりの大きさだ。モンゴル馬を見ていると、速く走らせるため、サラブレッドがいかに不自然な交配を遂げさせられてきたかがよくわかる。
 手綱はまさに綱そのもので、鐙(あぶみ)は足をかける部分が丸く、面積が広いため安定感がある。鞍もブリティッシュやウェスタンとはまったく異なり、鼓に似た小さな椅子のようなものが載っている。モンゴルでは長距離を走るため、腰や尻の疲労を減らす立ち乗りがメインなのだという。
 基本的な動きを教わったあと、オーナーとインストラクターの青年がそれぞれ馬にまたがり、私たち二人を先導して馬場の外へ出た。オーナーは女の子、青年は私の担当だ。
 大粒の水蒸気が宙を漂っているような、高原特有のひんやりした空気のなか、馬と人がかろうじて通れる幅の土の道を、常歩(なみあし ※1)で進んでいく。馬体の揺れを通して、微妙な地形のアップダウンや土の質感がダイレクトに伝わってくる。
 免許を取得した時、「道がある限りどこでも行ける」という解放感を味わったけれど、馬はさらに、車では行けない道を行けるのか! 車より、さらに世界が広がるということではないか。
「枝に気をつけて」
 前をゆく青年に注意を促され、樹木から張り出した枝を避けるため、頭を伏せる。安全に配慮して人工的に作られた馬場とは異なり、自然は不確定要素に満ちている。危険察知のギアをさらに上げなければならない。
「軽速歩(けいはやあし ※2)まではできると言ってましたね。少し走りたいですか?」
「ぜひお願いします」
 青年のはからいで、私たちはそこでオーナー組と別れ、別の道を行くことになった。

一巻の終わり

 彼は馬上で振り返りながら、注意事項を教えてくれた。
「この先、見晴らしのよい草原に出ます。馬が走りたがるかもしれないので、手綱は短めにしっかり握って、速度を抑えてください」
 言われた通り、手綱を調節する。
「僕の前にはけっして行かないように。僕の後ろにいれば、それほど速度は出ませんから」
「わかりました」
「じゃあ行ってみ……」
 青年の言葉が終わらないうちに、私の乗った馬がいきなり走り出し、あっという間に彼が乗った馬を追い抜いた。
「手綱しっかり引いて!」
 その声がはるか後方に去っていく。
 これは……速歩(はやあし ※3)ではない。やったことはないが、多分、駈歩(かけあし ※4)でもない。競馬と同じ、襲歩(しゅうほ ※5)という歩様ではないか。
 あまりの反動で尻が鞍から飛び上がり、体が投げ出されそうになった。ああ、これで一巻の終わりだ、骨折だ、という恐怖が頭をよぎった。風景などまったく目に入らない。顔に吹きつける風を喜ぶ余裕もない。これが馬の怖さか。馬を制御できないことの恐怖を、ケガしてやっと学ぶのか……。初心者で草原に出るとは、さすがに無謀すぎた。数秒の間にいろんな後悔が脳裏を駆けめぐった。
 生きろ! 生きて帰れ!
 全身の細胞が最大級の警告を発し、この難局を乗りきるための相談を始めたようだった。
 ふと、これがモンゴル馬であることを思い出した。モンゴル馬に載せる鞍が小さな椅子の形態である理由。草原で長距離を走る彼らは、立ち乗りをするためにこのような鞍を編み出したというではないか。
 落ちてケガをするよりはいい。ええい、立ってしまえ!
 両脚を思いきり踏んばって馬体を挟み、立ちあがった。すると不思議なことに、上体が安定した。下手に手綱を引いて急減速するとかえって危なそうなので、そのまま走らせた。恐怖は消え去らないものの、馬を見る心の余裕ができた。
 土を蹴りあげる躍動から、草原に出た喜びが伝わってくるようだった。
 いま君は、完全に私の意思を無視して、自分の意思で走っている。
 なんて楽しそうに走っているんだ、君は。
 そして馬が飽きて減速し始めたところで、青年の馬が追いついた。
「大丈夫ですか!」
「なんとか生きてます」
 心臓はまだバクバクと高鳴っていた。
 馬は、必要な時以外は走らない、という思いこみは間違いだった。
 走りたい時には、走るのだ。
 楽しそうな君の姿を見ることができて、本当に嬉しかったよ。

※1~5 馬の歩き方・走り方には4種類ある。速度が速くなる順に常歩(なみあし)、速歩(はやあし)、駈歩(かけあし)、襲歩(しゅうほ)という。ゆったりと歩くのは常歩、小走りの状態が速歩、草原などを駆けるイメージは駈歩、競馬のように全速力で走るのが襲歩。軽速歩(けいはやあし)は速歩のとき、騎手が馬の動きに合わせて鐙に立つ、鞍に座る、を繰り返すことをいう。(JRA日本中央競馬会ウェブサイト 競馬用語辞典などより)

著者情報

星野博美(ほしの・ひろみ)

ノンフィクション作家、写真家。1966年、東京生まれ。『転がる香港に苔は生えない』(文春文庫)で第32回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。『コンニャク屋漂流記』(文春文庫)で第63回読売文学賞「紀行・随筆」賞受賞。主な著者に『島へ免許を取りに行く』(集英社文庫)、『戸越銀座でつかまえて』(朝日文庫)、『今日はヒョウ柄を着る日』(岩波書店)、 『愚か者、中国をゆく』(光文社新書)、『みんな彗星を見ていた─私的キリシタン探訪記』『謝々! チャイニーズ』『銭湯の女神』『のりたまと煙突』(いずれも文春文庫)などがある。

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謹んで令和元年台風災害のお見舞いを申し上げます。

度重なる台風により被災された皆様に、心からお見舞い申し上げます。
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一日も早く復旧がなされますよう心よりお祈り申し上げます。

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