知と創意のエンタテイメント 集英社 学芸編集部

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Nonfiction

読み物

失踪願望。

第3回 禁酒、漂流、金メダル

更新日:2021/10/20

7月2日(金)

 無事に退院したが筋力が低下していて、体勢が悪い状態でソファーから立ち上がろうとすると、一度、床に落ちてからのほうが効率が良かったりする。我ながら情けないが、入院が自身を知る機会になった。いつの間にか家には杖が二本あった。

7月4日(日)

 二本の杖を使ってフローリングを歩くのは、滑るような気がしてけっこう危なくムツカシく、こういった補助具を使いこなすには練習と慣れが必要なのだと知る。
 なんでこんなに歩くのがヘタになってしまったのだろう。起き抜けにトイレまで小走りで行くなんて夢のまた夢だ。家の中では杖を使うより、探検家よろしく開拓した独自ルート、ようするに家具や手すりを利用した伝い歩きのほうが早い。

7月7日(水)

 熱も下がったし体調も悪くないのだが、なんだか脳味噌の上側に常に薄いモヤがかかっているというか、本やゲラなども集中して読めない。なんとなくまだコロナの野郎が居座っている感じだ。これが後遺症というやつか。
 40代で罹って回復した友人がいるので電話してみると「やっぱり頭がシャープに働いてない実感はあります。味覚も戻ってない気がします。ヒラメとカレイがどっちか分かりません」と言っていた。
 そもそも彼はシャープでもなんでもなく、モツ煮込みに唐辛子をドバドバかけて「これが世界でいちばんうまい」と断言するようなバカ舌の持ち主だった気もするが、貴重なコロナの先輩なので礼を言っておいた。

7月13日(火)

 中野区から調査員が来た。税金をごまかしたりとか、公園の遊具を壊したりしたわけじゃない。介護保険認定の調査らしい。
 息子の岳が「今すぐに介護など何かしてもらうということではないけれど、将来に備えておいて悪いことはない」と手配してくれた。息子とはありがたいものだ。
 第一回の聞き取りと、階段に手すりはあるかとか風呂までの道のりはどうかとか、環境確認のような意図らしい。我々夫婦は後期高齢者であり、ぼくなんかは体重は66~67kgに落ちたが身長180cmある大男の範疇なので、一枝さんが一人で動かすことは不可能に近い。いろいろなことを考えなければいけないのだ。ふと自分の父のことを考えた。

7月15日(木)

 月に一度、通院している慶應病院へ。もう長年の不眠症なのでクスリをもらいに行くのだ。アフターコロナの近況報告のような形で先生と話す。デパス、ハルシオン、ユーロジンなどを処方してもらうが、薬と酒を同時に摂らないように注意される。

7月16日(金)

 実は数日前から我が家には禁酒法がしかれている。
 退院後、無聊(ぶりょう)を託(かこ)って酒を飲み、時にはそのままだらしなくソファーで寝てしまう。外出する機会が極端に減り、新聞を読んでもテレビをつけても明るい話題はほとんどないので、やはり酒量は増える。
 その怠惰な生活に一枝さんは堪忍袋の緒が切れた。しばらく禁酒だという。
 これまで酒が足りない時は、事務所のWさんにお願いして届けてもらっていた。だが、我が堕落した生活を憂い、テキ(一枝さん)は禁酒法の領土を広げた。Wさんの調達ルートが閉ざされてしまったのだ。
 仕方ないので「昔、お歳暮でもらったブランデーがあったかもしれない。いや、中国に行ったとき陶器に老酒が入っている置物をお土産にもらった気がする」と、幽かな記憶を頼りに屋根裏を大捜索する始末だ。結局、炎天下の中、歩いてコンビニに行ったら息子にその姿を見つけられあえなく御用となり、また怒られた。コロナの後遺症らしきもので弱っているくせに、アルコールをコントロールできず酒のことになると意地汚く底力を発揮するぼくを許容できないんだろう。
 アルコールが近くにないと不安になる、というのはアルコール依存症の人の症状だが、ぼくの場合、不安とまではいかないが寂しい。そんなに変わらないか。

7月20日(火)

 『漂流者は何を食べていたか』(新潮選書)が発売になった。
 2013年に『ぼくがいま、死について思うこと』という単行本(新潮文庫に収録)を出したのだが、その時の編集者でもある通称・三太夫ことイマイズミ氏が、僕が大好きな漂流物の企画を持ってきてくれた。昔は「すすれ!麺の甲子園」という連載もやったが、この人が投げる餌はいつも美味しいのだ。
 100冊近い候補から7作品にしぼり、3年がかりで書き上げた。ぼくの読書趣味と思考、そして根幹たる部分が出た一冊になったと思う。

7月22日(木・祝)

 編集Tが快気祝いに簡易ビールサーバーみたいなものを持ってきてくれる。「これならノンアルでも気分が出ます」というが、やれうれしと、岳も一緒にビールを飲んだ。うまい。最近は禁酒法のあおりでノンアルコールなども飲んでいた。あれはやっぱりまがいものなのだ。我が家の禁酒法は少しゆるんだが、店で生ビールを飲める日が復活するのはいつなんだろう。

7月25日(日)

 男子柔道66kg級の阿部一二三選手が金メダル。
 どの階級も割とじっくり観戦した。中学高校と5年経験し、得意の内股で段を取得したことのある身としては競技としての変化や進化に驚くばかりだ。
 ぼくがやっていた頃はほとんどの選手が相手の右襟左袖を組む右組みだったので、腕力が拮抗している対戦になると、時計回りにくるくると猿回しのようになってしまうこともあった。
 それが今や瞬間的に襟と袖を切り替えたり、両袖から投げ技に移行、なんていうのは当たり前だ。欧州の選手なんかは低い体勢から巴投げに持って行こうとする傾向が強い気がする。武道というよりスポーツと呼ぶ感覚になってきた。
 ロシア、フランス、コソボあたりのやはり欧州の強豪国の選手は立ち技から寝技への切り替えもスムーズで手強そうだ。これはきっと日本の柔道にレスリングのいいところを取り入れて強化されているのではとぼくは分析して、ううむ、これはなかなかいい意見なのではとビールをぐびりと進めるのだった。

7月27日(火)

 ソフトボール、アメリカとの決勝をテレビ観戦する。上野由岐子投手のピッチングは躍動感に溢れてカッコいい。ぼくも10年前くらいは浮き玉野球というソフトボールの亜流みたいなスポーツで全国を巡ってリーグ戦をしていたことを振り返る。金メダルおめでとうございます。

●この月の主な出来事

7月1日
◇富士山、山梨県側で2年ぶりの山開き。ご来光は臨めず。静岡県側は10日の予定。

7月3日
◇熱海で大規模な土石流が発生。複数家屋が流され人的被害拡大。記録的大雨により。
◇藤井聡太棋聖(18)が棋聖戦初防衛、九段昇段を史上最年少で果たす。「今までと違う景色見たい」

7月6日
◇天皇陛下がワクチン接種。宮内庁「公表するのが適当」。
◇東京五輪、日本選手団の結団式がオンライン開催。582人(男子306人、女子276人)参加は最多。

7月7日
◇ハイチ大統領が自宅で暗殺される。任期巡って与野党対立の最中。

7月8日
◇東京五輪、1都3県は一律無観客に決定。

7月11日
◇全国各地で大雨による被害が頻発。

7月12日
◇東京都、4度目の緊急事態宣言下に。8月22日までの該当期間を入れると、今年の7割超が該当することに。

7月13日
◇東京五輪、晴海の選手村がひっそり開村。24時間運営の「発熱外来」も設置。

7月16日
◇来日中のIOCバッハ会長が、広島訪問。
◇八丈島で震度4

7月19日
◇過去のいじめ問題で、小山田圭吾氏、五輪開会式の音楽担当を辞任表明。

7月20日
◇米アマゾン創業者のベゾス氏、ロケットでの宇宙旅行成功。約10分中、宇宙空間に2分。
◇行方不明のウガンダ選手、四日市市で見つかる。

7月21日
◇東京で感染者1800人超え。
◇73代横綱・照ノ富士誕生。

7月22日
◇小林賢太郎氏が五輪開閉会式ディレクター解任。過去作品でナチスによるホロコーストを揶揄した問題で。
◇「ズッコケ三人組」シリーズの児童文学作家・那須正幹さんが死去。享年79。

7月23日
◇東京五輪、開会式開催。

7月24日
◇東京五輪の金メダル第一号は中国の大学生。射撃女子エアライフル。

7月25日
◇五輪柔道、初の快挙。阿部一二三、詩が兄妹そろって金メダル。

7月27日
◇五輪ソフトボール、日本が米国を破り、金メダル。13年越しの2連覇達成。
◇コロナ療養施設から逃走の男、強盗容疑で再逮捕。

7月28日
◇第13回伊丹十三賞に清水ミチコさん。受賞の報に「詐欺かと思った」。

7月29日
◇マイナポイント登録期限、年末まで延長へ。発行遅れで。

7月30日
◇国予算の昨年度からの繰越金、過去最大の30兆円。コロナ対策金、現場に届かず。
◇麻生財務相、ナチスをめぐる過去の発言「撤回した」。

7月31日
◇五輪ボクシング女子フェザー級、入江聖奈が銀メダル確定。カエルが大好き。
◇新型コロナ新規感染、1万2328人。4日連続最多。前週の約3.5倍に。

著者情報

撮影/内海裕之

椎名 誠(しいな まこと)

1944年東京生まれ、千葉育ち。東京写真大学中退。流通業界誌編集長時代のビジネス書を皮切りに、本格デビュー作となったエッセイ『さらば国分寺書店のオババ』(’79)、『岳物語』(’85)『犬の系譜』(’88/吉川英治文学新人賞)といった私小説、『アド・バード』(’90/日本SF大賞)を核としたSF作品、『わしらは怪しい探険隊』(’80)を起点とする釣りキャンプ焚き火エッセイまでジャンル無用の執筆生活を続けている。著書多数。小社近著に『遺言未満、』。

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