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ペルパタオ −我歩く、故に我あり 茂木健一郎

第96回 [2020年1月某日 雲のようにふわふわと抽象的だからといって]

更新日:2020/02/12

 私は基本的に「世代論」のようなものは信じないし主張しない。ただ、時代とともに微妙に変わっていく感性や考え方があるとは思っている。
 最近、『ブックスマート』という映画を観た。飛行機の中でやっていたのだけれども、日本での公開予定があるかどうかはわからない。青春映画で、高校時代勉強ばかりしていた二人の女子高生が、卒業パーティーをきっかけにはじけようと決意する物語である。
 設定はありがちであるし、ストーリーの内容も既視感があるものであったが、観ているうちに画期的に新しいと感じ始めた。それが何なのか、具体的に示すことはなかなか難しい。
 役柄(女子高生の一人は同性愛者という設定だった)やキャスティング、使われている音楽、編集などもあるけれども、何よりも、人生における深刻(になりがち)な問題に、さらっと触れてまた去っていく、そのスピード感のようなものが新しいと感じた。
 監督は1984年生まれのオリヴィア・ワイルドで、女優としてたくさんの映画に出ている。『ブックスマート』は、彼女の初めての長編監督作品である。
 ハリウッドでは、アカデミー賞のノミネート、受賞に女性監督が関与する作品が少ないということが最近問題になっているけれども、ワイルド監督はそのような現状を打破するという期待が持てる一人だろう。
『ブックスマート』に限らず、ここ数年の例えば『レディ・バード』、『君の名前で僕を呼んで』といった映画を振り返ると、古くからあるテーマを扱っていながら、どこかに画期的に新しい感覚やものの見方があったように思う。逆に言えば、そうやって次から次へと新しい感性の層が生み出されて行くことが、映画というクリエイティヴの現場であるということになるのだろう。
『ブックスマート』のようなすぐれた作品に接すると、そのような時代の「波」の先端にずっと触れていたいという気持ちが強くなる。そのようなものに接して、自分自身の感性や命もまた更新されて行かないと、時代に取り残されるという怖れもこみ上げる。
 もちろん、時代という波の先端は一つではないだろうし、波の「分裂」や「潜行」もあるだろう。それにしても、例えば『ブックスマート』のような作品の質について、映画批評サイト「ロッテントマト」においても、批評家の間である程度の合意が生まれるのは、やはりその時代固有の「更新」のダイナミクスがあるとしか思えない。
 ヘーゲルが唱えたような意味での「時代精神」についてあれこれ言うことは最近はあまり流行らないのかもしれない。しかし、イデオロギーから離れて冷静に考えてみると、そのようなことはあるのではないかとも思えてくる。むしろ、「時代精神」のようなものを否定することの方がありのままの「リアリズム」から離れるのではないか。
 私たち一人ひとりの意識は、それぞれの脳内の活動によって生み出されている。認識や思考、概念が意識を伴うものであるとするならば、それは一人ひとりの意識の中でとりあえずは完結しているはずである。
 もし、「時代精神」というものを考えうるとすれば、それは当然一人ひとりの人間を超えたものでなければならない。かつて、ユングは集合的無意識の概念を唱えた。ユングの考えは一定のインパクトを与えたが、現代においては、知性や精神性を「個体」としての人間のスケールを超えた存在としてとらえる新たな必然性が生まれてきている。
 人工知能の発達によって、人を超えた知性や情報の統合が起こる必然性がある。自動運転は、車がネットワークにつながる新たな自己組織化のプロセスに他ならない。時代の枢要は、個々の人間のスケールを超えたところにしか宿らない。人工知能が社会の中にあまねく行き渡る社会においては、新しい現実を人間的なスケールに呼び戻すための媒介項がいる。
 そのような役割を、ヘーゲル的な「時代精神」に担わせることがこれから必要になるだろう。その時々の時代精神を感知することで、私たち人間は一人ひとりのスケールを超える集合的なダイナミクスの一端をとらえる。
 その兆しは、いろいろなところに顕れる。日常の何気ない光景の中に。人々が口にする言葉の中に。もしくは行動のパターンの背後に。あるいは、『ブックスマート』のような映画の手触りの中に。
 これからの世界は間違いなく激変する。過去の常識は明日の非常識になる。そのような時代に、私たちが生き延びるために、「時代精神」を是非とも察知し、必要ならば言語化しなければならない。身体化しなければならない。
 それは、気配のように私たちを取り囲むだろう。遠くからかすかに聞こえる、あるいは内側から密かに忍び寄ってくる波として、私たちはそれを察知するだろう。
 人工知能が遍在する世界になりつつある今、人間の心の持ちようとして「マインドフルネス」が注目されているのは、一種の切実な生存本能なのかもしれない。
 映画を観る時に、いつもそのようなことを考えているわけではないが、すぐれた作品に接する時に、「時代精神」のことを考える。私たちは、感じたいのである。把握したいのである。雲のように広くふわふわと抽象的だからと言って、そのような実体が存在しないわけではない。

著者情報

茂木 健一郎 (もぎ けんいちろう)

1962年東京生まれ。東京大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理学博士。脳科学者。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経てソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。「クオリア」(感覚の質感)をキーワードに脳と心の関係を研究するとともに、評論、小説などにも取り組む。2005年『脳と仮想』(新潮社)で第4回小林秀雄賞を受賞。2009年『今、ここからすべての場所へ』(筑摩書房)で第12回桑原武夫学芸賞を受賞。近著に『生命と偶有性』(新潮選書)、『東京藝大物語』(講談社)、『記憶の森を育てる 意識と人工知能』(集英社)ほか多数。

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