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Nonfiction

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ペルパタオ −我歩く、故に我あり 茂木健一郎

第94回 [2019年12月某日 階段を上がれ]

更新日:2020/01/08

 本質に至るためには、ある程度の抽象化が必要なのだと思う。もちろん、「具体」は大切だが、そこに留まっていると見えないことがある。
 例えば、「自然」と心身の健康の関係。自然の中にいると身体に良いとか、心のバランスが回復するというのはおそらく事実なのだろうけれども、今ひとつ「本質」に迫っている感じがしない。
 森林浴において、樹木が発する「フィトンチッド」と呼ばれる物質が効果を発揮するといった説明があったとする。確かに有益な情報ではあるが、それだけでは、十分に核心に迫っている気がしない。
 部屋の中に鉢植えの緑があると心身に良い作用があるというのはしばしば聞くし、エビデンスにも支えられている。しかし、なんと言ってもそれが「常識」の範囲を超えない、生命という不可思議な現象の本質に迫っているような気がしないのは、抽象化の階段を上っていないからだ。
 人工知能の発達により、人間の仕事が奪われるという、時にセンセーショナルに議論される論点においても、それだけでは「真理」に触れた気がしないのは、抽象化のレベルが低いからだろう。
 人工知能が進化して、人間の労働のうち、一部分が置き換えられるということは常識的に理解できる。しかし、一歩進んで、そのような事態が人間実存にどんな意味を持つのか、人類の歴史において、今一体何が起ころうとしているのかという重要問題について、何らかの洞察が得られているという感触がない。
 そう、この手の論点においては、事の成否は「感触」によって与えられるのだ。
 自分の無意識の中で、何かがカチリと当たって、動いた気がする。氷山の一角に自分の手が触れて、アルキメデスのテコの支点を通して、氷山の本体がじりじりと動き始める予感がする。そんな出来事が時々あってこそ、私ちは来たるべき新世界を予感する。
 電気自動車の「テスラ」や、宇宙開発の「スペースX」を率いるイーロン・マスク氏も参画し、後に決別した「OpenAI」という組織がある。開かれたかたちで人工知能の研究をすすめる。このOpenAIが、人間が用いる自然言語を処理する人工知能、GPT−2を完成させた。
 GPT−2は、シェークスピアの全作品の数千倍の量のテクストを学習して、その自然言語モデルを高度化したという。当初は英語にだけ対応している。
 GPT−2が行うのは、ある書き出しが与えられた時に、それに続く文章を推定することである。例えば、英語で「イギリス政府はこのほどEU離脱についての問題点を検討し、発表した。とりわけ、貿易と人の交流に関してどのようなトラブルが生じうるかを指摘している。」というようなニュースのリード文があると、その続きに来る文章を「完成」させるのである。
 結果は驚くべきものだった。GPT−2は、一見人間の書く文章と区別がつかない表現をアウトプットすることに成功したのである。
 ニュース原稿のような文章だけではない。例えば、「吾輩は猫である。名前はまだない。」というような文学的文章(の英語訳)を与えれば、それに続くような、もっともらしい文学的文章を自動的に生成する。GPT−2の性能は、極めて高いものだった。
 OpenAIは、当初、GPT−2はもしそれをリリースすればさまざまな社会的問題を引き起こしかねないとして公開中止を決定した。学生がレポート作成で使うといったケースから、それぞれの人にカスタム化されたスパムの送付、大量のフェイクのレビューの書き込みなどの悪用が懸念されたのである。
 しかし、その後方針が変わってGPT−2は公開された。今では、誰でもウェブサイトに書き出しの文をペーストして、GPT−2が生み出す「その先の文章」を確認できるようになっている。
 公開されたGPT−2を試しているうちにわかってくることは、人間の知性は、個々の文章が辻褄が合っているとか、文法が正しいといったレベルを超えた、もっと全体的な、繊細で微妙なニュアンスに関わっているということである。
 例えば、「吾輩は猫である。名前はまだない。」という文に続いてGPT−2が生成する文章は、確かに人間が書いたものと遜色ないし、面白く読める。しかし、それは夏目漱石の小説とは異なる。作家の意識は、より大局的な、作品構成上の「機微」に至り、工夫を凝らす。その部分において、傑作と駄作、凡庸と天才の差異が出る。
 人工知能の進化によって、これからはより本質的で全体的な、微妙なニュアンスに関わる考察をすることこそ私たち人間の課題の中心になる。そこにしか、「付加価値」を生み出す人間の活動はないということになってくる。
 だからこそ、本質主義が大切である。抽象化の階段を上る勇気が必要である。「自然の中では心が癒やされる」とか、「鉢植えの緑があると心身の健康が増す」とか、そのような人工知能でも当然解析できる単純な論点を超えて、私たちの生と世界全体に関わる微妙な機微にこそ、心を致す必要が出てくるのだ。
 抽象化の階段を上って、雲の上に顔を出し、目にする太陽の中にこそ、私たちを未来に導く光がある。人工知能時代には人間は新たなルネッサンス(人間の可能性の復興)を迎えるのではないかと私が考える理由の一つが、ここにある。

著者情報

茂木 健一郎 (もぎ けんいちろう)

1962年東京生まれ。東京大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理学博士。脳科学者。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経てソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。「クオリア」(感覚の質感)をキーワードに脳と心の関係を研究するとともに、評論、小説などにも取り組む。2005年『脳と仮想』(新潮社)で第4回小林秀雄賞を受賞。2009年『今、ここからすべての場所へ』(筑摩書房)で第12回桑原武夫学芸賞を受賞。近著に『生命と偶有性』(新潮選書)、『東京藝大物語』(講談社)、『記憶の森を育てる 意識と人工知能』(集英社)ほか多数。

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