集英社 知と創意のエンタテイメント 学芸・ノンフィクション

文字サイズを変更

  • Facebook
  • Twitter

文字サイズを変更

Nonfiction

読み物

ペルパタオ −我歩く、故に我あり 茂木健一郎

第92回 [2019年10月某日 四万十川に行って]

更新日:2019/12/11

 人生には、早く見たり聞いたり経験したりしてしまえばいいということがあって、そこを通ってしまえば先に行けるのに、なぜかくるくる回って通らないことがある。
 日本に残された「最後の清流」と言われる四万十川もそうで、学生時代にカヌーのエッセイなどを読んでいいなあと思い、いつか行こうと願いながら果たせないでいた。
 先日、たまたま仕事で四万十川の下流の中村まで行った。今までなかなか行けなかった理由もわかった。高知から特急で2時間近くかかったのだ。
 四万十川をいよいよひと目見たときに、ああ、と思った。橋の上から流れを見た。そのあたりをランニングして、トンボ自然公園にも行った。
 観測したのは「一点」で、上流にも、沈下橋にもたどり着いていないし、流れに手を浸すこともしていないから、そもそも「四万十川に行った」と言えるのかさえわからない。それでも、目安としていた距離をランニングし終え、ほっとした気持ちで夕暮れの川べりを歩いていた時に、胸にこみ上げてくるものがあって、やっぱり来て良かったなあと実感した。
 四万十川は「最後の清流」と言われるけれども、もともとを考えると、このような流れはかつてはどこにでもあったはずである。
 それが、どうして貴重なものになってしまったかと言えば、ダムをつくったり、護岸をしたり、開発したり、生活排水を流したりと人間が「余計なこと」をしてきたからである。
 手つかずの、「純粋な」(pureな)という考え方は、古今東西を問わずにあって、自然保護に取り組む上ではとても大切なことだが、考えてみるとなかなか深いことだと思う。
 中国の古典で言えば、老子や荘子には、余計なことをすると本質が損なわれるという思想が貫かれている。有名な「混沌」の逸話もそうである。南海の帝と北海の帝が、親切心から混沌に目、口、耳、鼻の穴を開けていったら、混沌は死んでしまった。
 たいていの人間は、子どもの頃、若い時には「純粋」な気持ちを持っているけれども、それが年齢を重ねるにつれて失われていってしまう。その象徴が「混沌」だろう。
 もともと純粋なものがあり、それが余計なことをすることで失われてしまうという認識の「型」は、自然保護から人間の精神まで、さまざまなところに見られる。そして、私たち人間にとって重大な意味を持つ「意識」の本質を考える上でも、似たような問題がある。
 私たちの意識を構成している要素はさまざまだけれども、そのうちのいくつかは、外界とのやりとりを通して私たちが獲得していくものである。
 例えば私の「記憶」は、生きている中で経験したことに基づいている。どんな生き方をして、何を経験するかによって、記憶の内容は変わってくる。
 年を重ね、さまざまな経験を経ていったときに、考えることや感じること、思い出すことは変わっていくけれども、「私」が「私」であるということの本質は同じである。
 一人の人間が他人からどのように認識されるか、あるいは自分が自身をどのように思い浮かべるかということを考える上で、「顔」は重大な意味を持つ。しかし、顔だって、そこに「私」の「自己意識」の本質があると言うことはできない。
 年月を重ねるにつれて、顔は変わっていく。毎日どんな表情をするかでも容貌は移ろう。精神の内面が顔に出る。だからこそ、ある程度の年齢になったら、顔は履歴書だと思えという考え方がある。美容整形だって可能だ。私たちが常識の範囲で思っているほどには、「顔」は自己意識の核をなしていない。
「私」の「意識」の中心のことを考えるほど、そこには「空虚」さしかない。具体が挟まれるとすれば、外界からの刺激やその認識、経験によってである。具体は「私」の大切な構成要素であるが、決して本質ではない。
 意識の中核にあるのは、誰でも基本的に同じ、「ぶよぶよとした原形質」のようなものである。そこには自他の区別もない。そのような原型に即して考えれば、宇宙には一つの意識しかないのかもしれない。
 現代社会において、私たち一人ひとりにはラベルがつけられ、個人データが集積される。それによって社会的評価が変わったり、ネットワークでの位置付けが決まったりする。
 しかし、私たち人間は、どこか本質的なところで、そんな外形的なところには意味がないと知っているのではないか。「私」は、「ぶよぶよとした原形質」だとわかっているのではないか。
 そう考えると、四万十川のような「最後の清流」を見て私たちが求めているのは、自分の意識の故郷、原点のようなものなのではないかと思えてくる。
 困ったことに、「ぶよぶよとした原形質」のままでは、私たちの意識は何も経験することができない。人格にも「具体」が存しない。自他が分離しない。
 だから、私たちはあがいて、いろいろ経験する。その中で、「清流」は失われる。「意識の流れ」という「水」は時によどみ、濁る。そんな中で、私たちは、手つかずの無垢の「自然」を夢見て、それに回帰しようとする。
 このように考えると、四万十川のような清流を希求する人間の魂の運動には、根深いものがありそうだ。私たちはどうしても具体を手にしたいし、またそこから解放されたいのである。

著者情報

茂木 健一郎 (もぎ けんいちろう)

1962年東京生まれ。東京大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理学博士。脳科学者。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経てソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。「クオリア」(感覚の質感)をキーワードに脳と心の関係を研究するとともに、評論、小説などにも取り組む。2005年『脳と仮想』(新潮社)で第4回小林秀雄賞を受賞。2009年『今、ここからすべての場所へ』(筑摩書房)で第12回桑原武夫学芸賞を受賞。近著に『生命と偶有性』(新潮選書)、『東京藝大物語』(講談社)、『記憶の森を育てる 意識と人工知能』(集英社)ほか多数。

  • 開高健ノンフィクション賞
  • 情報・知識&オピニオン imidas
  • 開高健 The Year
  • マイ・ストーリー
  • 集英社創業90周年記念企画 ART GALLERY テーマで見る世界の名画(全10巻)
  • 集英社ビジネス書
  • e!集英社

Shueishagakugei

謹んで令和元年台風災害のお見舞いを申し上げます。

度重なる台風により被災された皆様に、心からお見舞い申し上げます。
また、被災地等におきまして、避難生活や復興の支援など様々な活動に全力を尽くしていらっしゃる方々に、深く敬意と感謝の意を表しますとともに、
一日も早く復旧がなされますよう心よりお祈り申し上げます。

(株)集英社

  • 集英社・熊本地震災害被災者支援募金のお知らせ
  • 第4回 熊本地震災害被災者支援基金 募金状況とご報告
  • 集英社・東日本大震災被災者支援募金のお知らせ
  • 集英社・東日本大震災被災者支援募金募金状況とご報告

本ホームページに掲載の記事・写真の無断転載を禁じます。すべての内容は日本の著作権法並びに国際条約により保護されています。
(c)SHUEISHA Inc. All rights reserved.