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Nonfiction

読み物

ペルパタオ −我歩く、故に我あり 茂木健一郎

第90回 [2019年10月某日 さあもうこれで逃げ場はない]

更新日:2019/11/13

 人生って、本当に奇妙で波乱に満ちたカオスなプロセスだと思う。常にそうなのだろうが、時々、その真実性をいやというほど思い知らされる。
 風邪を引いて熱が出たのだけれども、仕事がいろいろはいっていて全く休めなかった。現場に行っていきなりスイッチをオンにして、終わったらオフにして、移動中は両腕を身体に巻きつける感じで眠った。
 そうやって日々が続く中、山の中を15キロ走るというテレビ撮影の仕事が近づいてきた。ふだんそれくらいの距離を走るのは何でもないが、なにしろ連日38℃の熱が出て弱っている。それに、途中、山道をひたすら3.5キロのぼりつづける箇所があるのだという。
 3.5キロののぼり! 
 静かに晴れた朝だった。
 テレビ局のロケバスに乗り込むとき、さあもうこれで逃げ場はない、なんとか走り抜けなければならない。そのためには、これからの時間帯、ずっと耳をそばだて、よくまわりを見て、自分の身体に注意を向けて、必要な時に水分をとり、早めにトイレに行き、栄養をとり、とにかく元気で走らなくてはならないという、悲壮感と言ってさえ良い決意のようなものが私の心の中にあった。
 それが「生きる」ということだ。結局、人生を振り返った時に残るのは現場の覚悟の積み重ねだなあとしみじみ思う。
 なんとか走り、出会った人とにこやかに話し、気のついたことにコメントして、海岸に降りて、波を見つめた(そのところを撮影された)。
 昨日までの私は、連日38℃の熱でうんうん言っていたけれども、今はこうして走っている。
 なんとか、こうやって切り抜けられるのかもしれないと思い始めた。
 海岸での撮影は時間を要した。ドローンを飛ばして、上空からすべての様子を押さえた。ロケ番組のほとんどの時間は「待ち」でできている。撮影などのスタッフはその間、一貫して最高の速度で手足を動かし準備をしているのだけれども、出演者はカメラが回るまではひたすら待っていなければならない。
 ランナーは三人。ロケバスはどこかに行ってしまって、私たちはずっと外で待っていた。この時期には珍しいという強風が吹いていて、思いの外寒く、体力が奪われていく感じだった。
 もうひとつの海岸に行って、二人のサーファーに話を聞いた(そのところを撮影された)。ゴミを集めてタツノオトシゴをつくったのだという。いつも海にいるから、ゴミがあることがほんとうに悲しくて、だから集めているのだという。
「驚くようなものが転がっていますよ」
 海を見ながら、その人は少し悲しそうに笑って言った。
 どうもそのあたりでは、かなり身体にダメージが来ていたのではないかと思う。次の撮影の開始を待っている時、私以外の二人のランナーは立ったまま談笑していたが、私はふとしゃがんで「あぐら」をかいて座った。そこは草地で、下には石があったり多少凸凹したりしていたけれども、思ったよりもはるかに安定して座ることができた。
 そこから、私は、撮影待機になるたびに、そこが海岸でも、道端でも、草地でも、あぐらで座り始めた。すべてが笑ってしまうくらいスムーズで、楽だった。それで、初めて気づいた。そうか、あぐらというのは、人間の身体のかたちや機能から見て、どんなところでも安定して休むことのできる、すぐれた姿勢だったのだと。
 不思議な感覚だった。あぐらなど、子どもの頃から無論何度もかいている。しかし、その日、風邪を引いて、それでもランニングをしなければならず、身体も心もいわば追い詰められて、ぎりぎりになった時にふとあぐらをかくという「発明」を改めてしたのだという感触があった。
 それくらい、最初に「ええい、もう座ってしまおう」と思ってあぐらになった時の開放感と安堵感、そしてよろこびが大きかったのである。
 そこから何箇所目かの現場で、私は再びあぐらになった。
 目の前にはガードレールがある。
 そして、その向こうには、空と海が広がっている。
 弘法大師は、空と海だけが見える洞窟で修行をして、何日目かに明星が口の中に飛び込んで悟りを開かれた。
 今、私の目の前には空と海がある。悟りには程遠いけれども、撮影の合間にこうやって向かっている。
 周囲では、スタッフが忙しそうに動き回っている。一緒に走る二人のランナーは立ったまま談笑している。私だけがあぐらをかいている。
 それは、自分の「人生」という編集がいつまでも終わらない、上映もされない、自分以外は誰も見ない「映画」のとても印象的なシーンとなった。いろいろなものが流れ込み、響き、「マインドフルネス」の中で鮮やかに光った。
 人には、ある程度追い詰められないと見えてこないことがある。
 追い詰められることで、余計なことが削ぎ落とされて、本質だけが残っていく。
 この景色を見るためにこそ、私はいろいろと苦しい思いをしてきたのかもしれない……。
 海と空に向かって座りながら、私はそんなことを思っていた。
 追い詰められて、苦しさの先に見えた風景に真実があるからこそ、人はそれをなんとか伝えようとして、古来努力してきたのだろう。
 空海の悟りのような大きなことから、私の「あぐら」のようなほんのささいなことまで。
 一人ひとりの「映画」は現象学的に閉じている。それは悲劇のようだが、一方で……。
 そこまで考えた時、スタッフが私を迎えにきた。
 これからクライマックスの3.5キロの山のぼりが始まる。

著者情報

茂木 健一郎 (もぎ けんいちろう)

1962年東京生まれ。東京大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理学博士。脳科学者。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経てソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。「クオリア」(感覚の質感)をキーワードに脳と心の関係を研究するとともに、評論、小説などにも取り組む。2005年『脳と仮想』(新潮社)で第4回小林秀雄賞を受賞。2009年『今、ここからすべての場所へ』(筑摩書房)で第12回桑原武夫学芸賞を受賞。近著に『生命と偶有性』(新潮選書)、『東京藝大物語』(講談社)、『記憶の森を育てる 意識と人工知能』(集英社)ほか多数。

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