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ペルパタオ −我歩く、故に我あり 茂木健一郎

第89回 [2019年某月某日 地上へ。雲の上の世界から]

更新日:2019/10/23

 印象に残る言葉は、いつも不意打ちでやってくる。
 何年か前、TEDに参加していて、イーロン・マスクがキュレーターのクリス・アンダーソンにインタビューを受けているのを聞いていたとき、マスク氏が言ったひとことに心の芯を打たれた。
「だって、そうでないと日常が耐えられないから」
 電気自動車の「テスラ」や、宇宙開発の「スペースX」、さらには高速交通システムの「ハイパーループ」など、さまざまなイノベーションに取り組んでいるマスク氏。
「なぜ火星を目指すのか」という質問に対して、マスク氏は「そうでないと日常が耐えられない」と答えたのだった。
 マスク氏の率いるスペースXは、火星への有人旅行に向けて着々と計画を進めている。巨大な宇宙船を設計したり、回収、再利用が可能なブースターロケットを開発したりしている。
 火星を目指す理由を聞かれたとき、マスク氏は、人類の持続可能性のために人口を分散させるべきだと答えることが多い。もちろん地球は大切で、環境を保護したり、平和を維持したりするためにあらゆる努力をするべきである。この点については、マスク氏も同意している。
 その上で、マスク氏は、何らかの理由で地球が人類にとって住みにくい場所になってしまったり、人口が急減するようなことになった場合に備えて、地球以外の場所にも人類のコロニーをつくるべきだと一貫して主張しているのである。
「意識を継続させるために」とマスク氏は独特の表現を使う。すべての動物の中で、高度に発達した意識を持つのは人間だけであり、そのかけがえのない意識を保ち続けるために、人類には地球以外の場所に移住する義務があるとマスク氏は語るのである。
「地球は大切だが、それ以外のところにも住むことで、意識が継続する確率を上げることができる」
「文明は不安定であり、地球の文明が火星を目指すほど健全で余力がある『時間の窓』はそれほど長くないかもしれない」
 そのような議論をする時のマスク氏は、冷静であり、論理的である。
 一方、クリス・アンダーソン氏に「そうでないと日常が耐えられない」と答えた時のマスク氏は、珍しく感情を露わにしているように見えた。その言葉が、マスク氏の魂の深いところから出ているように感じられて、強く記憶に刻まれたのである。
 私の脳は、不意打ちされたのだ。
 日常は大切である。人生の成熟は、何気ない日々をどれくらい豊かに感じられるかということにかかっているのではないだろうか。
 特別なことはなく、ただ見慣れたこと、代わり映えがしないことが続いていく。そんな日々が愛しく思えるということは、ある程度の人生の経験がないと無理であろう。
 日常を大切に感じさせる体験は、それ自体は必ずしも日常の範疇に収まるものではない。むしろ、非日常、突き抜けた極限こそが、日常を底光りさせる「照明」となる。
 小津安二郎は、日常の感銘を至上の領域にまで高めた芸術家だと言える。『晩春』、『麦秋』、『東京物語』、『秋刀魚の味』といった神のごとき作品で描かれるのは誰もが知るような日常であるが、それが通り過ぎてしまえばかけがえのない、奇跡のように感じられる瞬間である。
 映画は、SFやスリラー、サスペンス、ファンタジーのように非日常を描くことで観客を楽しませる。一方、小津が示したのは、ありきたりに見える日常を描くことで生きることの興趣、感動を表現する道であった。
 小津安二郎は、第二次世界大戦に従軍し、シンガポールで捕虜になっている。捕虜になっている間に、当時のアメリカ映画を大量に見たらしい。
 やがて焼け野原になった東京に戻ってきた小津に、日本の姿はどう見えたのだろうか。戦場や虜囚の身という非日常を経験したからこそ、小津映画の日常は成立したのではないか。
 激動があるからこそ、口元の微笑がある。
 マスク氏が火星を目指していること、そこに人類の文明の未来を託していることはテクノロジーの視点から見て興味深い。
「そうでないと日常が耐えられない」
 可能性があるのに、チャレンジしないのは、マスク氏のような人物にとっては耐え難いことなのだろう。
 それでも、私は思うのだ。何年か後、マスク氏が火星への有人飛行を実現する。地球以外の惑星のコロニー化に向けて、最初の一歩を踏み出す。マスク氏自身が、そのフライトに参加する可能性もあるだろう。
 そこで、マスク氏、あるいはその他の旅客は、驚くべき光景を目にする。かつて、映画『ブレードランナー』のラストシーンで、ルトガー・ハウアーがアドリブで付け加えたとされる「タンホイザーゲート」のような言葉を絶する景色を見るのだろう。
 しかし、それでも私は思うのである。もっとも感動的なのは、そのような驚くべき宇宙旅行から帰ってきてから目にする地球の日常の光景なのではないかと。
「そうでないと日常が耐えられない」
 だから、私たちは時に日常を超えた雲の上の世界を夢見る。しかし、結局は地上に戻ってきて、ほっとする日々の中に生命の本来の味わいを見出すのである。
 生命とは、退屈に見える日常のことなのだから。

著者情報

茂木 健一郎 (もぎ けんいちろう)

1962年東京生まれ。東京大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理学博士。脳科学者。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経てソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。「クオリア」(感覚の質感)をキーワードに脳と心の関係を研究するとともに、評論、小説などにも取り組む。2005年『脳と仮想』(新潮社)で第4回小林秀雄賞を受賞。2009年『今、ここからすべての場所へ』(筑摩書房)で第12回桑原武夫学芸賞を受賞。近著に『生命と偶有性』(新潮選書)、『東京藝大物語』(講談社)、『記憶の森を育てる 意識と人工知能』(集英社)ほか多数。

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令和2年7月豪雨被災お見舞い

このたび令和2年7月豪雨により各地で被災された皆様に、心からお見舞い申し上げます。また、被災地等におきまして、避難生活や復興支援など様々な活動に 全力を尽くしていらっしゃる方々に、深く謝意と敬意を表します。一日も早く 復旧 がなされますよう衷心よりお祈り申し上げます。

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