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ペルパタオ −我歩く、故に我あり 茂木健一郎

第86回 [2019年8月某日 脳は10%しか使われていないとしたら]

更新日:2019/09/11

 脳科学をやっていてしばしば受ける質問の中で、こちらを当惑させるものがある。
 たとえば、「脳の神経細胞の10%しか使っていないって本当ですか?」という問いがある。
 これはかなり世間に流布している俗説らしく、しばしば質問する方がいて私を困らせる。
 そもそも、「使っている」という言葉の定義は何なのだろう? 10%って、どうやって計測するのか? 科学的な仮説としては、突っ込みどころ満載なのだけれども、質問者はそのような前提なしに問いかけてくる。
 仕方がないので、脳の潜在能力について、今知られていることをそれなりのエビデンスに支えられて説明する。
「すべての細胞は、それぞれの役割を担っているので、全く使われていないということはないのです。ただ、脳には、さまざまな活動のモードがあります。それは、領域の活動のオン、オフで決まります。仮に、脳内に30の領域があるとすると、その30の領域がオンになるかオフになるかの組み合わせは、10億通り以上あることになります。生きている中で、脳のすべての活動モードを使っているわけではないですから、未使用のモードはたくさんあるのです」
 そんな感じで丁寧に答えるけれども、いずれにせよ、「脳は10%しか使われていない」という俗説は、根拠なく世間に広く流布している。ポピュラーサイエンスとしての脳科学の暗部である。
 加えて、「脳は10%しか使っていない」という俗説の源は、案外深いところにあって、それもまた私の当惑の一部分になっている。
 どうやら、アメリカの心理学者、哲学者、思想家であるウィリアム・ジェームズが、生涯の一時期、人間の脳の潜在能力はほとんど使われていないという論にとりつかれたらしい。
 ジェームズと言えば、「意識の流れ」と呼ばれる思想を打ち立て、後に20世紀の文学にも決定的な影響をもたらした巨人であり、心理学、認知科学においても多くの貢献をしている。そのジェームズが「脳は一部しか使われていない」という思考を持つに至ったらしいのである。
 もっとも、ジェームズ自身は「10%」という具体的な数字を主張していたわけではなく、後世に付け加えられたものらしい。それが広く流布してしまった。
 人間は、自分の脳に潜在的な能力があって、それがまだ使われていないという考え方を好むらしい。脳が目一杯に使われていてもう余裕がないと思うよりは、アイドリングしていると考える方が心が豊かになるのだろうか。
 学校の先生とお話ししていても、父母面談などで、「お子さんは一生懸命勉強されています」と言われるよりは、「お子さんは今一つ勉強に熱が入っていませんね」と宣告される方がかえって喜ぶのだという。
 つまり、「今はまだサボっている」と言われる方が、わが子の潜在能力が高いような気がして、うれしいのだろう。
「脳の神経細胞の10%しか使っていないって本当ですか?」という質問は、以前から受けていたが、最近、頻度が増えたような印象もある。
 人々が、自分の脳の中にまだ使用されていない潜在能力があるはずだ、それを活かさなければならないというような一種の強迫観念に取り憑かれているようにも見える。
 潜在能力に注意が向いている時代背景にはさまざまなものがあるだろう。
 グローバル化による競争の激化もそうであろうが、人工知能の発達により人間の立場が脅かされていることも影響しているだろう。
 単に人工知能に負けないように、仕事や生活の能力の上で対抗できるようにというだけではないだろう。歴史的な転換点において、果たして変化する環境に自分たちが適応できるのか、これからも生き延びていけるのかどうかということが問われているように思う。
 人工知能の研究コミュニティの中でも、消費エネルギーが低く、「効率」が良い人間の脳を一つの「天然資源」として見るというような論文が出始めている。人工知能がシステムを組んだときに、その構成要素の一部として、莫大な電力を消費する人工知能を補う、あるいはそれよりも望ましい計算要素として人間の脳を使おうという動きがあるのである。
 人々は、「あなたの脳をもっと効率良く使いなさい」という時代の無言の圧力を感じ始めているのだろうか。
 ここには、人間存在の根幹に関わる、重大な問題が秘められているように思う。
「潜在能力」があるとして、それを活かすことで得られる能力は、一体何なのだろうか? 単に計算が早くなったり、多くの情報をこなせるということではないだろう。人間の脳が潜在能力を活かした時に見えてくる世界は、一体何なのだろう?
「効率」は何らかの評価の基準が定まらなければ計算できない。その評価の基準を推し量ることが極めて創造的である。
 人間の脳はどこに行くのか?「10%」どころか、「1%」も使われていないとして、その使われていない「資源」を用いて、私たちはどこに行こうとしているのか?
「脳の神経細胞の10%しか使っていないって本当ですか?」という問いは、実は極めて興味深い。それは、私たちが未来をどうしたいのか、その夢想の本質そのものだからである。
 そんなことを、夕暮れに歩きながら考える。

著者情報

茂木 健一郎 (もぎ けんいちろう)

1962年東京生まれ。東京大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理学博士。脳科学者。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経てソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。「クオリア」(感覚の質感)をキーワードに脳と心の関係を研究するとともに、評論、小説などにも取り組む。2005年『脳と仮想』(新潮社)で第4回小林秀雄賞を受賞。2009年『今、ここからすべての場所へ』(筑摩書房)で第12回桑原武夫学芸賞を受賞。近著に『生命と偶有性』(新潮選書)、『東京藝大物語』(講談社)、『記憶の森を育てる 意識と人工知能』(集英社)ほか多数。

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