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Nonfiction

読み物

ペルパタオ −我歩く、故に我あり 茂木健一郎

第85回 [2019年某月某日 今、ここでもどこかに漂流できる]

更新日:2019/08/28

 時間が経つと、文脈や空気は移ろってしまうものだから、上手に思い出す必要がある。
 ほとんど「ゼロ」から立ち上げるように。
 時代が変わると、全く状況が変わってしまう。
 かつて存在した雰囲気や、空気のようなものと、今のあり方は違う。今は大切だけれども、現在のことばかり考えていると、一つのやり方にこだわってしまうし、柔軟性が失われてしまう。
 とりわけ、感情にかかわることは、簡単に過去と断絶してしまう。時間が経った事象は、私たちの意識も無意識も、アクセスしにくいものに変わっていってしまう。
 日本にも、高度経済成長の時期があった。あの頃は、信じられないことだが、年率10%くらいの経済の成長が続いていた。
 近年、日本以外にそのような経済成長を続けている近隣諸国を見ると、眩しく感じる。全く違う社会だと思う。
 しかし、ついこの間まで、日本にもそのような時期があったのだ。 大切なのは、客観的なデータだけではない。その時を生きるという内的体験も重要である。
 縄文の遺跡を訪れる意義は、縄文の人たちがどのような生活をしていたのか、その中での「意識の流れ」を追体験することではないか? 狩りをして、実や果物を集めて暮らしていた彼らが見上げた空のその青と、頬をなでる風と……。
 歴史において大切なのは、主観の現象学的考古学だと信じる。少なくとも私にとってはそうだ。
 残念ながら、日本が高度経済成長をしていたときに、私はまだ子どもだったから、働くということ、あるいは経済の現場ということに結びつけてそれを体験してはいない。
 ただ、子どもの目線で大人たちを見上げていて、そしてその息づかいやふるまいを感じていて、今と明らかに違うとありありと思い出すことがある。そのことをこうして記していると、今、ここでもどこかに漂流し始めることができる。そんな気がする。
 まず、高度経済成長の頃の大人たちは、今よりももっと「遊んで」いたような印象がある。
 現代ではあまり流行らないかもしれないけれども、たとえば「麻雀」のようなことをやっていて、仕事と同じくらいに夢中になっている大人たちが多くいたように思う。
 椎名誠さんの一連の青春小説にもそのようなシーンが出てくるけれども、ドラマや映画でも大人たちを遊びに夢中になっている風に描くことにリアリティがあった。自分の周囲の大人たちを見ていても、無駄なエネルギーを「発散」するような行為にのめりこんでいる人たちが多かった気がする。
 釣りにしても、スポーツにしても、大人たちが、今よりも楽しそうにいろいろなことを熱中してやっていたような記憶がある。もちろん、仕事もたくさんしたのだろうけれども(そうでなければ高度経済成長は実現しないのだろうけれども)、同時に大人たちは無邪気に遊んでいた。
 さらに思い出せば、今よりも、大人たちがむき出しの個性をぶつけあっていたように思う。
 当時のドラマや映画などを見れば、なんとはなしに雰囲気が見えてくるかもしれないけれども、他人に迷惑をかけたり、軋轢を生んだりといった「困った」事例も含めて、大人たちがわんさか熱を帯びて動き回っていたような、そんな記憶がある。
 今では、どの企業も「多様性」とか「包摂性」とかの価値観を盛んに推進しているけれども、高度成長の当時は、そんな言葉はなかっただけに、かえって抽象的な概念ではなく生身の実感として、ありふれたかたちで個性は存在して、ぶつかって、響き合っていたように思う。
 バブルの頃の日本は、「遊び」や「個性」のぶつかり合いが行き過ぎて、もはや上滑りし始めていたような印象がある。だからこそ、長続きはしなかった。一方、高度経済成長時代の日本は、もっと自然に、敢えて言えば土の匂いがするようなかたちでそのような行動様式があったように思う。
 最近になって、歩いている時などにこんなことがあれこれと思い出される理由は、もちろんこれからの日本をどうしようかという実際的な問題意識とも関連するけれども、同時に、案外そんな日常的なことに、「自分」という自我は左右されてしまうことが気になって仕方がないからだと思う。
 自分を何が囲んでいるのか。包んでいるのか。たとえば柳の木の下に立ったときには柳の葉が視野を覆うけれども、それと同じことが日常でも起こってはいないか。
 社会に活気があって伸びていく時代の「自己意識」のあり方と、停滞して不安が渦巻く中での「自己意識」の間にある差。「意識」という普遍的、抽象的なものが、具体的で猥雑な日常によって規定される。
 時代によって、「自己意識」は影響され、相対化され、解体され、再構築される。
 だからこそ、状況に限定されずに自分というものを見つめるためには、上手に、時代の空気が今と違った時のことを思い出さなくてはならない。
 たった10年、20年経過しただけで、私たちは主観的体験の現象学的次元をいとも簡単に忘れてしまうのだ。
 目を閉じる。明日が今日よりも明るく、未来は予想もできない新しいものをもたらすと自然に感じられたあの頃の熱気、個性のぶつかり合い、そして永遠に続くかに思えた大人たちの遊びを思い出す。
 今とは違う時代を思い出すとき、「私」の「意識」のあり方はすでに少し漂流し始めている。
 そうやって、意識は実は気分においてタイムトリップできる。考えてみると凄いことではないだろうか。

著者情報

茂木 健一郎 (もぎ けんいちろう)

1962年東京生まれ。東京大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理学博士。脳科学者。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経てソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。「クオリア」(感覚の質感)をキーワードに脳と心の関係を研究するとともに、評論、小説などにも取り組む。2005年『脳と仮想』(新潮社)で第4回小林秀雄賞を受賞。2009年『今、ここからすべての場所へ』(筑摩書房)で第12回桑原武夫学芸賞を受賞。近著に『生命と偶有性』(新潮選書)、『東京藝大物語』(講談社)、『記憶の森を育てる 意識と人工知能』(集英社)ほか多数。

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