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Nonfiction

読み物

ペルパタオ −我歩く、故に我あり 茂木健一郎

第71回 [2018年12月某日 白髪と私]

更新日:2019/01/23

 私の髪の毛はとにかく何もしていなくて、時々風呂場にコンビニの袋とハサミを持っていって自分で切る。
 もう二十年以上もそうしているので、鏡を見ないでも切ることができる。
 そのせいもあってか、髪の毛がボサボサなのだが、一方で白髪も目立ってきて、ごま塩のようになっている。
 年齢とともに髪の毛は白くなるのだろうけれども、私の場合、「白髪体質」というか、他の人よりも白くなりやすいのだろうくらいに思っていた。
 二年ほど前、親しい友人と一緒にいた。一人は私よりも少し年上で、もう一人は一回りくらい年上である。
 二人とも髪の毛が黒々としていて、私と違って「白髪体質」ではないのだろうくらいに思っていた。
 そうしたら何かのきっかけで、二人とも髪の毛を染めていることがわかった。染めないと私のように、いや私以上に髪の毛が白くなるというのである。
 それで初めて、世間の人というのは一般に髪の毛を染めているのだと知った。道理で街を歩いていても、そんなに髪の毛の白い人がいないはずである。そのような「からくり」に気づかずにずっと生きているのだから、よほど私はぼんやりしているのだろう。
 上に挙げた友人の一人は、その後髪の毛を染めるのをやめてしまった。今では私以上にごま塩になっている。
 結局、私は特に「白髪体質」というだけではなく、ただ何もしていなかっただけだったのだが、先日街を歩いている時にふとあることに気づいた。
 どうやら、私は髪の毛を染めるということに対して、潜在的な深い恐怖心があるらしい。
 それだけではない。およそ、身だしなみを整えるとか装うということについて、できればそれをしたくないという強い感情があるように思う。
 例えば、おしゃれで帽子をかぶっている人がいて素敵だなとは思うが自分ではやりたいと思わない。服に名札や花のようなものをつけるのも嫌だ。よく、講演会などで花のついたリボンのようなものをつけるように言われることがある。仕方がないからつけたふりをして、壇上で話し始める時にとってしまう。
 そのような、外見を何らかの形で変更することに対する拒否の感情が何に由来するのだろうと考えていて、ふと、「私」という「自意識」や「自我」の成り立ちにつながっているのだと思い至った。
 私はある姿をしている。鏡を見ればそれはわかる。子どもの頃から自分の顔は見慣れていて、日々少しずつ変わっていくけれども、それでもこんなもんだという相場観はある。
 私が「私」のことを考えるときには、自分のイメージとして、そのような顔の相場を貼り付ける。自分の顔が好きか、嫌いかということに関係なく、とにかくそうなっているのだから仕方がないと思う。
 ところが、その外見が「可変」なものだという考えや、人為的に操作できるという可能性が、私をとても落ち着かなくさせる。習慣や倫理の問題というよりは、そもそも「私」が「私」であるとはどういうことかという根本に抵触するように感じるのである。
 美容整形はやりようによっては本人の自信につながるだろうし、コミュニケーションも促進するだろう。だから、一概には否定しないが、一方で不安で仕方がない。自分の外見を好きなように変えるというのは、どういう意味だろう。
 よく、タレントやモデルさんで「好きな顔」とか、「今一番なりたい顔」というような言い方がされるのも、途轍もなく不安にさせる。そのようにして、あたかも外見が選択の対象になり得ると考えることが、「自我」の成り立ちについてのパンドラの箱を開いてしまうように思う。
「私」の「意識」を機械に「コピー」できるという、私から見ればあまりにもナイーブで愚かな考え方が主張されるのは、「私」というものが情報的に定義されるという思い込みがあるからだろう。
「外見」はもっともわかりやすい「情報」の一つである。確かに、自然に経過していけば、外見という情報は安定しており私が私であるという自己同一性を支えてくれる。
 ところが、本当は自我の同一性は、外見などとは関係がないのではないかという直観がある。カフカの『変身』のように、明日目覚めて自分が全く違った姿になっていても、「私」は「私」であることが変わらないということはあるのではないかと感じる。いや、おそらく、そうなのだろうと思う。
 だとすれば、「私」の同一性は情報によって規定されるのではないはずだ。顔だけでなく、記憶においてもそうだと思われる。記憶の「美容整形」などということは聞いたこともないが、もし可能になったとしたら、人生の記憶が書き換えられても、「私」は「私」であり続けるに違いない。
 そんなことを考えていると、「私」が「私」であるという、普段疑いもしないで後生大事に抱えている「宝」が、きわめて曖昧で脆弱な土台の上に立っていることがわかってくる。
 そのことを論理的に突き詰めていくと、恐ろしいところに行く気がする。「魂」の秘密にたどり着いて、それを抜けてしまうかもしれない。
 だからこそ、私は、できるだけそのようなことを考えたくないので、外見については可能な限り何もしないで生きてきたのである。髪の毛を染めないのは魂の秘密が恐ろしいからだ。
 ただ、時々、歩いているとふとその問題が向こうから襲ってくることはある。それは仕方がない。

著者情報

茂木 健一郎 (もぎ けんいちろう)

1962年東京生まれ。東京大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理学博士。脳科学者。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経てソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。「クオリア」(感覚の質感)をキーワードに脳と心の関係を研究するとともに、評論、小説などにも取り組む。2005年『脳と仮想』(新潮社)で第4回小林秀雄賞を受賞。2009年『今、ここからすべての場所へ』(筑摩書房)で第12回桑原武夫学芸賞を受賞。近著に『生命と偶有性』(新潮選書)、『東京藝大物語』(講談社)、『記憶の森を育てる 意識と人工知能』(集英社)ほか多数。

  • 開高健ノンフィクション賞
  • 情報・知識&オピニオン imidas
  • 集英社創業90周年記念企画 ART GALLERY テーマで見る世界の名画(全10巻)
  • 集英社ビジネス書
  • e!集英社

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