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Nonfiction

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ペルパタオ −我歩く、故に我あり 茂木健一郎

第67回 [2018年10月某日 世界だけが存在しない]

更新日:2018/11/28

 先日、ある会合で学生たちと話していた時、自分のやっていることの話になって(私は、よほどのことがない限り、自分のやっていることについて語ることがない)、要するに自分のやっていることは「聖」と「俗」の二分野に分かれるのだと説明した。
「聖」というのは、脳から意識がどう生まれるかということ。つまりは心脳問題。「俗」は、それ以外のすべてのこと。
 もちろん、きれいに二分できるわけではないし、二つは互いにスペクトラムでつながっているのだが、要するにそういうことである。
 そしたら、しばらく後で、ちょっと思いつめたような学生が、「なぜ聖のことだけやらなくて、俗もやるのですか」と聞いてきた。つまりは、心脳問題に専念しろと言うのだろう。
 そう尋ねた彼も、本当は哲学か何かでやりたいことがあるのだが、今は仮想通貨に関する情報提供のベンチャービジネスをやっていて忙しいのである。 
 誰にとってもそんなものなのだろう。とは言っても、なんとかしなくてはいけないのだが。
 人生は、「それ以外の計画を立てている間に過ぎていってしまうこと」と看破したのはジョン・レノンだが、それにしてもインターネット時代には気が散りすぎる。
 グローバル化に伴って経済も政治も難問が山積だが、人が生まれ、やがて死ぬという大問題に比べれば、すべて「俗」なのであって、つまり現代は「聖」と「俗」のバランスが崩れてしまっているのだろう。
「聖」を担っているのが既成の宗教だけでは心もとない。本来、人類のベスト・アンド・ブライテストが知力の限りを尽くして取り組むべき課題であって、そうでないと人類の、というか、私たち一人ひとりの「魂」が救われない。
 個人的には、20世紀の物理学の異常な成功に酔っているのだと思う。いわゆる「科学的世界観」があまりにもナイーブに信じられすぎていて、それを超えた「聖」なる領域に挑む機運が減じてしまっているという風に見える。
 ドイツの哲学者、マルクス・ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』を英語で読んでいるけれども、筆が流麗で気持ちがいい。
 ガブリエルは、いわゆる「知の巨人」たちに対しても容赦ない。例えば、先日亡くなったスティーヴン・ホーキングさんに対しては、「その知性が過大評価されている人」と容赦ない。
 ホーキングさんは素晴らしい方だったと思うが、ガブリエルの言いたいニュアンスがわからないわけではない。いわゆる宇宙論は偉大な成果をたくさん生んできたが、それだけでこの世界が尽きるわけではない。
 ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』の中で印象的な言明は、およそ想像できるものはすべて存在する、例えば、月の裏側に、警官の制服を着た一角獣は存在する、しかし、「世界」だけが存在しないというもの。
 あらゆるものは存在するが、「世界」だけは存在しないという認識に、ガブリエルは若き日にたどり着いた。それ以来、この本のような形でまとめるまでに随分と時間が経ってしまったとガブリエルは書いている。
 その感じはとてもわかる。「聖」なる領域に属することは、思考の生理がゆっくりしていて、時間がかかるのだ。
 いずれにせよ、物理的実在だけが存在するという信仰はあまりにもナイーブであると、心の中に浮かぶクオリア一つ(例えば緑)に焦点を当てているだけでもしみじみ思う。ダニエル・デネットのように、クオリアを消去主義で片付けようという人たちは、軽薄な科学主義とは整合性が高いが、アインシュタインがかつて好んで使った表現を借りれば、そのうち「神々の嘲笑によって難破させられる」のだろう。
 列車に乗って、車窓の外の夜の景色を眺めている時など、そもそも、ある「自我」が生まれ、意識の流れが生じ、死ぬと消えるという、「自我」に関する今の「セントラルドグマ」など、本当に正しいのかと疑問に思えてくる。
 オカルトや、既成の宗教の体系の中での整合性ではない。もっと深く、論理的に緻密で、人類がまだ考えついてもいない高度な思考の領域におけることだ。
 そんなことを考えていると、ガブリエルが、『なぜ世界は存在しないのか』の中で書いている、『神は妄想である』におけるリチャード・ドーキンスは不用意だったという言説に心から同意する。
 人間の意識(科学的には「魂」という言葉を安易に使いたくはないが、「魂」と呼んでも別にかまわない)の所在と、その向こうに見え隠れする「神」の概念を、人間世界における「神」を巡る事象から「藁人形」を作って叩くのは、知的に誠実な態度ではないと思う。
 神の実在を巡っては、アインシュタインの「スピノザの神を信じる」という言明が有名だが、いずれにせよそろそろ人類の思考がアップデートされてもいい頃である。
 ガブリエルの著作には、素朴な科学主義を超える何らかの兆しが感じられて、それは一つの時代精神なのだろう。そのような著作が人工知能の隆盛という時代の中で登場してきたのは興味深い。
 我々一人ひとりの中で、「聖」と「俗」の区別を見直していくべきなのだろう。その中で、消えていくべきものは消えていく。

著者情報

茂木 健一郎 (もぎ けんいちろう)

1962年東京生まれ。東京大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理学博士。脳科学者。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経てソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。「クオリア」(感覚の質感)をキーワードに脳と心の関係を研究するとともに、評論、小説などにも取り組む。2005年『脳と仮想』(新潮社)で第4回小林秀雄賞を受賞。2009年『今、ここからすべての場所へ』(筑摩書房)で第12回桑原武夫学芸賞を受賞。近著に『生命と偶有性』(新潮選書)、『東京藝大物語』(講談社)、『記憶の森を育てる 意識と人工知能』(集英社)ほか多数。

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