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Shueishagakugei

謹んで「熊本地震」災害のお見舞いを申し上げます。

熊本地震により甚大な被害が発生いたしました。
お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りいたしますとともに、
被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。
一日も早く平穏な日々が戻りますよう、そして復旧がなされますよう心よりお祈り申し上げます。

(株)集英社

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謹んで地震災害のお見舞いを
申し上げます。

東日本大震災により被災された皆様に、心からお見舞い申し上げます。
また、被災地等におきまして、救援や復興支援など様々な活動に全力を尽くしていらっしゃる方々に、深く敬意と感謝の意を表しますとともに、一日も早く復旧がなされますよう心よりお祈り申し上げます。

(株)集英社

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Nonfiction

読み物

ペルパタオ −我歩く、故に我あり 茂木健一郎

第52回 [2018年某月某日 わからないながらも振り返ってみる]

更新日:2018/04/11

 その昔、小林秀雄の講演を聴いていた時、アンリ・ベルクソンの『物質と記憶』の話が出てきた。
 記憶は普通、脳の物理的実体に支えられているように考えられているけれども、本当にそうなのかわからない、記憶自体は消えないのかもしれない。忘れるということは、ただそれを呼び出せなくなるだけなのかもしれない。そのようにベルクソンは主張したと小林さんは言った。
 脳はちょうどコートをかけるハンガーのようなもので、ハンガーがなくなっても、コート自体、記憶そのものは残っている、ベルクソンはそのようなことを考えて「証明」したのだ。そんな風に小林さんは熱弁していた。
 ちなみに以上の表現は、改めて当該の講演部分を聞き直したり、その文字起こしを参照したりすることなく、私の記憶に基づいて言葉にしている。だから、発言の趣旨は合っていると思うけれども、細かいところでずれてしまっているかもしれない。
 いずれにせよ、ベルクソンの記憶研究に関する小林さんの熱弁は、感動的であった。同時に、現代の脳科学的文脈から言えば、控えめに言っても「当惑」するものであった。
「今、ここ」で想起される記憶は、どう考えても、「今、ここ」の脳の神経回路網の物質としての状態に依拠していて、それ以上でもそれ以下でもない。ベルクソンの言うように、脳の状態に依存しないかたちで、独立に記憶が残っているとは考えられない。
 ベルクソンは、今の脳状態に依存しないで残っているそのような記憶を、「純粋記憶」と呼んだ。『物質と記憶』の中で、ベルクソンは「純粋記憶」を中心テーマとして論じている。現代的な文脈から見ると、今ひとつ何のことかわからない。もっとも、わかってしまうとさまざまなことがひっくり返ってしまう。
 わからないながらも、ベルクソンのこと、純粋記憶のことが気になって、時折宿題のように振り返ってみる。
 私は、先日、水戸市内を走っていた。前回訪れた時には千波(せんば)公園あたりを巡ったので、今回は違う方向に行こうと、住宅地の中を走っていった。
 走りながら、こちらへ行ってみようとルートを辿っていく。何とはなしに気持ちがよかったり、何かがありそうな道へと誘われていった。
 そうこうするうちに「逆川(さかさがわ)緑地」という素敵な場所を発見し、すっかり満たされて街の方に戻ってきた。そうしたら、とても趣のある建物が見えてきた。
 なんだろう、と思ったら、美術館の敷地内に再現された有名画家のアトリエだった。そのことを認識してから、以前、水戸をランニングした時にまさにこのアトリエの横を通ったことを思い出した。もっとも、その際には反対方向から走って来たのであるが。
 一度思い出してみると、ああ、確かにこのアトリエの横を通った、と鮮明にその時のことが心のうちに戻ってきた。もっとも、私はそのことをすっかり忘れていたのである。もし、再びランニングで横を通ることがなかったら、一生思い出さないままに忘れたままでいたかもしれない。
 このような経験は、ベルクソンの言う「純粋記憶」と関係しているのではないかという直観がある。
 すなわち、次のようなことである。
 私たちは、生まれ落ちて以来、「意識の流れ」の中でさまざまなことを時々刻々と経験している。それぞれの瞬間で、それらの経験は鮮明なクオリアとして「私」に起こっている。
 後に、記憶としてそれを思い出す時には、一部分しか想起できない。何かが抜け落ちてしまっていたり、時には変形してしまっていて、かつて経験したことがそのまま蘇ってくることはない。つまり、記憶は不完全である。
 しかし、私たちがかつてある瞬間に、ある経験をしたという「事実」は残っている。それは、もう過ぎ去ってはるか彼方の時間となってはいるけれども、そのような時間がかつて存在したことは事実である。
 ベルクソンの言う「純粋記憶」とは、そのようなことなのだろうと思う。つまり、脳の外に記憶があるというような空間的な問題というよりは、時間的に、「純粋記憶」はかつての経験として存在し、それはもう過ぎ去って戻ってこない。そのかすかな痕跡にアクセスするのが通常の意味での「記憶」の「想起」であって、それはつまり、タイムマシンに乗るようなものである。
 このような記述をしても、科学主義の枠を超えることはない。ただ、そこに何らかのさらなるサプライズが潜んでいる可能性はある。つまり、時間の経過という不思議と、「私」の意識という不思議、二つの不思議が共鳴するところに、思いがけない未知の仕掛けがある可能性がある。
 ベルクソンが記憶を意識の中心に据えたのは、一つの慧眼だったのだろう。「純粋記憶」は、科学主義に着地できない概念として浮遊しながら、時折、私の視野の隅の方を動いていく。
 走りながら、時折、来し方行く末を振り返る。ベルクソンの「純粋記憶」が、雲の端にかかる虹色の光学現象のように見えてくる。
 再び、自分の人生の二度と戻らない一日が過ぎていく。
 いつか思い出すことがあるのだろうか。

著者情報

茂木 健一郎 (もぎ けんいちろう)

1962年東京生まれ。東京大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理学博士。脳科学者。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経てソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。「クオリア」(感覚の質感)をキーワードに脳と心の関係を研究するとともに、評論、小説などにも取り組む。2005年『脳と仮想』(新潮社)で第4回小林秀雄賞を受賞。2009年『今、ここからすべての場所へ』(筑摩書房)で第12回桑原武夫学芸賞を受賞。近著に『生命と偶有性』(新潮選書)、『東京藝大物語』(講談社)、『記憶の森を育てる 意識と人工知能』(集英社)ほか多数。

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