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Shueishagakugei

謹んで「熊本地震」災害のお見舞いを申し上げます。

熊本地震により甚大な被害が発生いたしました。
お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りいたしますとともに、
被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。
一日も早く平穏な日々が戻りますよう、そして復旧がなされますよう心よりお祈り申し上げます。

(株)集英社

  • 集英社・熊本地震災害被災者支援募金のお知らせ

謹んで地震災害のお見舞いを
申し上げます。

東日本大震災により被災された皆様に、心からお見舞い申し上げます。
また、被災地等におきまして、救援や復興支援など様々な活動に全力を尽くしていらっしゃる方々に、深く敬意と感謝の意を表しますとともに、一日も早く復旧がなされますよう心よりお祈り申し上げます。

(株)集英社

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Nonfiction

読み物

ペルパタオ −我歩く、故に我あり 茂木健一郎

第51回 [2018年某月某日 商店街を歩いて古墳にぶち当たる]

更新日:2018/03/28

 子どもの頃は、情熱は密度が濃く、自分の存在を揺るがすほどに強いのであるが、大人になるにつれてそれは薄められて、日常を変えるほどのインパクトは持たなくなる。
 それを人は成熟というのかもしれないが、一方で、生命体としての勢いのようなものがどんどん失われていってしまうのも事実である。
 小学校の低学年の頃、私は野山で蝶を追いかけていたが、その頃の「環境破壊」に対する嫌悪、拒絶の感情はすさまじかった。
 大切な野山が、次に行ってみるとブルドーザーが入ってつぶされている。もちろん、大人たちから見ればそこには経済的合理性があるわけだが、子どもたちにはそんなことはわからない。
 慣れ親しんだ緑を伐り、むき出しの土を広げていく彼らの所業がただただ恨めしく、憎たらしく、反発するという感情をごく自然に抱いていた。
 貪欲に経済的利益を追い求める動きに対して、自然保護の精神は、ほとんど無力である。
 そのことが骨身に染みてわかっているからこそ、大人になった今ではそれほどの抵抗を感じなくなってしまっているが、それがまた、子どもの頃の心の炎を思い起こさせて、悲しい。
 すべての大人は、バランスがとれてはいるが、堕落した存在でもあるのだと、最近折にふれ思う。例えば平和に対する態度。
 もう何年前か忘れてしまったが、名古屋を訪れること数度にして、初めて大須観音を参拝し、続いて裏の商店街を歩いて、いくつかの細い通りを抜けたとき、突然、目の前に豊かな大木が繁る小高い丘が見えてきた時にはほんとうに驚いた。
 なぜ、このような街の真ん中に、手付かずの自然があるのだろう。
 疑問は、看板を見て氷解した。そこは、古墳だったのである。
 経済合理性という「怪物」の進撃を留めるものがあるとすれば、それは、私たちの中の畏れの感情である。畏れの感情は、人類の歴史と同じくらい長く、深い。私たちは常に畏れつつ、生きてきたのだ。
 畏れとは、実は、自分たちが征服しつつあるものに対する後悔、懺悔(ざんげ)の感情でもあるのではないか。それは一つの後ろめたさの自覚でもある。
 古来、日本では、敗れし者たち、自分たちが打ち倒した者たちを祀り、祈ってきた。勝者を褒め称えるというよりは、弱者に追いやられた者たちにこそ祈りを捧げてきた。祟(たた)りを避けるという今から見れば迷信の気持ちもあったのだろうが、同時にそれは、そうやってバランスをとるという自然な心の働きだったのだろう。
 自分たちが征服し、好きなように活用してきた自然に対しても、畏れの気持ちを抱くことは当然のことだった。古墳や鎮守の森というかたちで残っている緑は、私たちの畏れの気持ちの表れなのだろうと思う。
 偶然に発見して以来、私は時折、その大須の街の真ん中にある古墳をおとずれる。丘の上に登ると、吹いてくる風が少し違うようでもある。
 そして思う。このあたりは、ずっと前は、見渡すかぎり緑が広がっていて、その中で人々が狩りをしたりしていたのだろう。
「痕跡器官」という考え方があって、例えば尾てい骨がそうだという。かつては重要な働きをしていたものが、今ではその機能は失われているが、名残りとしてある。ここまでの思考の流れで言えば、尾てい骨は、私たちの辿ってきた過去に対する畏れの表れ、一つの「人体神社」のご本尊であるようにも思えてくる。
 大人になるということはバランスを獲得することであると同時に、堕落するということでもある。
 自分の生き方を振り返った時に、もはや過ぎ去ってしまったかつての自分に対して、申し訳ないと感じるかどうかということはあると思う。
 誰だって、思春期には未来が輝き、理想に燃え、これからこんなことをやってやろうと思っていた瞬間くらいはあるはずだ。それが、大人になると、さまざまな事情や現実とのせめぎ合いの中で、次第にあきらめていく。
 あきらめる、ということは、語源的には「はっきりと見定める」、すなわち、現実を知るというニュアンスもあるそうだが、あきらめてしまったからと言って、かつての幼い自分が間違っていたことにはならないし、ましてや、存在しなかったことには決してならない。
 誰でも、過去の自分を供養しなければならないと感じることはあるのだと思う。理想に殉じて生き続けることは難しいけれども、過去の自分を時に上手に思い出してやることは必要なのではないか。
 都市の中に、かつての名残りとしての自然が祀られているのと同じように、人間は、心の中に、自分の人生における過去を記念する「古墳」や「神社」のようなものを必要とするのだと思う。
 大自然を畏れるように、過去の自分を畏れることは、必要であると感じる。なぜならば、私たちは、誰でも、一人ひとり、かつての自分を克服し、それを好きなように利用して今の自分を作り上げてきたからだ。
 レクイエムは、死者だけのためにあるのではない。誰でも、過去の自分を思う時、そこに鎮魂の旋律が流れない人はいない。

著者情報

茂木 健一郎 (もぎ けんいちろう)

1962年東京生まれ。東京大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理学博士。脳科学者。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経てソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。「クオリア」(感覚の質感)をキーワードに脳と心の関係を研究するとともに、評論、小説などにも取り組む。2005年『脳と仮想』(新潮社)で第4回小林秀雄賞を受賞。2009年『今、ここからすべての場所へ』(筑摩書房)で第12回桑原武夫学芸賞を受賞。近著に『生命と偶有性』(新潮選書)、『東京藝大物語』(講談社)、『記憶の森を育てる 意識と人工知能』(集英社)ほか多数。

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