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Shueishagakugei

謹んで「熊本地震」災害のお見舞いを申し上げます。

熊本地震により甚大な被害が発生いたしました。
お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りいたしますとともに、
被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。
一日も早く平穏な日々が戻りますよう、そして復旧がなされますよう心よりお祈り申し上げます。

(株)集英社

  • 集英社・熊本地震災害被災者支援募金のお知らせ

謹んで地震災害のお見舞いを
申し上げます。

東日本大震災により被災された皆様に、心からお見舞い申し上げます。
また、被災地等におきまして、救援や復興支援など様々な活動に全力を尽くしていらっしゃる方々に、深く敬意と感謝の意を表しますとともに、一日も早く復旧がなされますよう心よりお祈り申し上げます。

(株)集英社

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Nonfiction

読み物

ペルパタオ −我歩く、故に我あり 茂木健一郎

第50回 [2018年1月某日 金鱗湖への道]

更新日:2018/03/14

 時間の流れをうまく調整できる人を、私は尊敬する。人生のさまざまなことを経験して、バランスということを知らなければならない。
 イベントの仕事が終わり、翌日一泊するという流れだった。そんな時に、妙に名所旧跡などに行ってしまうと疲れてしまう。
 そこで、私を案内してくれた中尾さんは提案した。午前11時にホテルを出て、次の宿泊地でそば屋さんに行きましょう。昼間からお酒を飲んで、それから、夕食までは宿で休んでいることにしましょう。
 たくさんの人に出会い、話す中で心がざわざわする仕事が連続した、その翌日の過ごし方としては、これほど素晴らしい「配剤」はない。
 大分の街を出た自動車は湯布院に向かった。
 有名な観光地である。私は以前に一度宿泊したことがある。そのときは雑誌の取材で、金鱗湖(きんりんこ)の近くの宿に泊まった。水面とその周囲の風情がとても良かったので、またそれを見られるのを楽しみにしていた。
 湯布院は、広々とした郊外の景色が魅力的である。ちょっと斜面を上ったところにある、近くから湯けむりの出るそば屋さん。気の置けない仲間数人で飲んだ。
 九州では、そば屋さんで飲んでその後締めにそばをいただくという習慣は東京ほどには一般的ではないらしい。「鳥天」などのつまみを頼んで口にするお酒の味わいも、少し異なる気がする。
 だいぶ気分が良くなったところで、中尾さんに連れられて「玉の湯」に向かった。
 以前から、小林秀雄さんが愛した宿として耳にはしていたが、伺うのは初めてである。中尾さんはお馴染みらしく、宿の方々と親しそうに話していらっしゃる。
 こちらでお待ちくださいと通された広間で、ソファに腰掛けて庭の景色を見ているうちに、「ああ」と腑に落ちた。
 確かに、ここは、小林さんが如何にも好きそうな場所だ。
 小林秀雄さんのご著書を通して、また、孫である著述家の白洲信哉さんから伺った話によって、間接的に小林さんがどのようなものを好んでいたのかということは何となく感じている。小林さんが良く行かれていたというお店の設(しつら)いもそうだし、東慶寺にある小林さんのお墓のあり方もそうだ。
 一言で言えば、飾らないこと。それでいて気配りが行き届いていて気持ちが良い。過ごすほどに深くに染み込んでくるものがあり、こみ上げるよろこびがある。そんな空間を、小林さんは好まれていたように思う。
 玉の湯の庭だけでなく、部屋のあちらこちらに活けられている草花もまた、飾り立てるところがなく、野のもののような質感があり、ああいかにも小林さんが好きそうだと思った。
 それから、ある人が見たものを追体験するということの不思議さを思った。
 小林さんがいらしていた頃から宿の様子がどれくらい変わっているのかはわからない。しかし、これと似たような景色を小林さんは見ていたのだろう。
 小林さんが世を去ってから、だいぶ時間が経っている。小林さんと親しく言葉を交わすことはかなわない。しかし、同じ景色を見ることで、不思議な回路で心の交流が図れるようにも思う。
 翌朝、金鱗湖までの道を歩いた。この道程を小林さんもしばしば辿ったに違いないと思った。
 寒い日であった。温水も流れ込む金鱗湖は、もやが立つことでも有名で、自撮り棒を手にした外国からの観光客があちらこちらで撮影をしていた。
 小林さんが息づいた時間はもう遥か遠く、同じ精神は繰り返さない。宿のご主人だって、小林さんの後、さまざまなお客さんをお迎えして来たことだろう。宿の営みは毎日の繰り返しであり、その中で時代も人も移り変わっていく。
 だからこそ、かつて小林秀雄というひとりの人間が見たであろう光景を、今この時に感受している、その流れには何か味わうべき「糸」があるように感じられた。
 人は、「永遠」を時間軸で捉えがちで、つまりはある状態が末永く続くことを「永遠」だと思いがちだ。小林秀雄さんと湯布院の縁が「永遠」だという時には、例えばその伝説が長く語り継がれることだと考える。
 しかし、物質である脳と私たちの意識の関係に即して考えれば、永遠はおそらく「今、ここ」の瞬間で結ばれ、完結している。ノイズに満ちた神経活動から、プラトン的完全さを持つクオリアが生み出される、その対応関係の中に、すでに「永遠」のひな形はある。
 小林さんが、その人生の「今、ここ」で湯布院の風情を感じていたその瞬間と、湯布院を訪れる私たちが「今、ここ」で周囲を受け止めているその瞬間が、物質と精神の対応というか細い回路を通して結びつくことの中にこそ、時間を超える不思議な脈絡があるように思う。
 雪がちらついて来た。中尾さんが、親切に空港まで送ってくださった。
 車中の会話は大相撲から仮想通貨のことまで多岐にわたったが、私の心の奥底には「今、ここ」を息づくことの不思議さがずっと沈潜していた。
 きっと、私たちは何か大きな考え違いをしている。
 不死だとか、永遠の生命とか、そんなことはきっとごく身近にあって気づかないだけなのだろう。
 雪は地上に降りてやがて溶け、跡形もなくなる。
 しかし、地面でその結晶を保っているその瞬間において、永遠である。

著者情報

茂木 健一郎 (もぎ けんいちろう)

1962年東京生まれ。東京大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理学博士。脳科学者。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経てソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。「クオリア」(感覚の質感)をキーワードに脳と心の関係を研究するとともに、評論、小説などにも取り組む。2005年『脳と仮想』(新潮社)で第4回小林秀雄賞を受賞。2009年『今、ここからすべての場所へ』(筑摩書房)で第12回桑原武夫学芸賞を受賞。近著に『生命と偶有性』(新潮選書)、『東京藝大物語』(講談社)、『記憶の森を育てる 意識と人工知能』(集英社)ほか多数。

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