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Nonfiction

読み物

ペルパタオ −我歩く、故に我あり 茂木健一郎

第45回 [2017年11月某日 初雪の奇跡]

更新日:2017/12/27

 時間はやっかいだ。
 私たちは皆それが何なのかを直感的に知っている、あるいは、知っているつもりになっているが、その本質は謎に包まれている。
 だから、私たちは、しばしば時間について、しくじりをする。
 11月中旬に小樽に行ったら、雪がたくさん降った。33センチ積もったらしい。
「もう少し後だと、ロードヒーティングで溶けるのですが」とタクシーの運転手さんは言った。
 それゆえに、この時期、かえってやっかいなことになる。
 シートが、不規則に揺れる。路面の凹凸に合わせて、私の視界が震える。
 それでも、運転手さんは、確実に、私を目的地に運んでいく。
 車窓から見える光景に、私は魅せられていた。街角の風景が、更新されて行く。魔法にかけられたように、地上の全てが新しくなる。
 雪に慣れている北国の人たちも、また季節が巡ってきたという感触に、少しだけ魂の位置が浮き上がっているように見えた。
 ホワイトクリスマスが喜ばれるのも当然だ。なぜならば、クリスマスの奇跡は、雪によって完成するのだから。
 あるいは、雪による現実変容を後に意味づけるのが、「クリスマス」だと言っても良い。
 しかし、ここで、時間というもののやっかいな性質が立ち現れてくる。
「今」は、あっという間に「かつて」になる。「やがて」が「今」の方に押し寄せてくる。
 感情は、「今、ここ」にしか属さない。そして、ぴかぴかの新しさは、すぐに、くすんだ色へと退色して行く。
 最近は、北海道の雪を求めて、海外から観光客が来る。台湾や中国、さらにはオーストラリアからも。台湾の方々は、雪を見ると本当に喜ばれるらしい。
 しかし、ここで問題なのは、地元の方にとっては、雪は奇跡というよりは日常だということだ。雪かきをしなければならない。路面が滑りやすくなる。凍結して、歩くのにも往生する。
 南から来た客人たちにとっては素敵な風景が、生活者にとってはやっかいなことになる。そこには、立場の違いということに加えて、「時間」の持つやっかいな性質があるように思う。
 新鮮は、時間経過とともにすぐに陳腐へと化す。
 ひょっとしたら、南の国からの旅人たちもまた、滞在2、3日目にでもなれば、雪を面倒なものと感じ始めているかもしれない。
 雪が降り始めた時、私たちは世界にもたらされた変化そのものに感銘を受け、昂奮する。今までと異なる存在のあり方が開かれていくような気がする。
 問題は、その、「今、ここ」で起こっている変化は、永続するものではないということだ。最初の降雪は、入学式の初々しさに似ている。その新鮮な感慨がその後永続するわけではなく、むしろその時点に限られているのだ。
 大切なのはタイミングである。
 クリスマスの雪が、奇跡と感じられるためには、だから、本当はクリスマス、ないしはクリスマス・イブのその時、あるいは少し前に雪が降り始めるのが良い。そのことによって、「奇跡」の効果は何倍にもなる。
 ずっと降っていて、根雪になってしまった状態で、クリスマス・イブを迎えても、初めて雪が降り始める場合の感動には、比べものにならないだろう。
 クリスマス・イブが今のカレンダーで12月24日になっているということは、その日に降雪が始まるという期待値、可能性を高めるという意味で、絶妙なタイミングなのかもしれない。
 しかし、そのような配剤に頼り続けるのは、人間の精神をむしろ堕落させる。
 私たちは、人生において常に「初雪」を降らせ続けるべきなのかもしれない。少なくとも、そのような流れになるような挑戦精神と、強靭さを持つべきなのかもしれない。
 シェークスピアの『テンペスト』で、島に父親と住む主人公の娘ミランダが、初めて若い男たちと口をきいた時に発する言葉、
 O brave new world! (ああ、素晴らしき新世界よ!)は有名だ。
 しかし、ミランダの感激はあっという間に日常へと変わっていってしまうだろう。そこには怠惰があり、落胆があり、失望があるだろう。
 私たちは、常に様相を変えていかなければ、満足できない動物なのだ。
 脳の報酬系は、新規な刺激を常に要求する。
 初雪があっという間にやっかいものになるのは、私たちの精神の成り立ちゆえであって、雪の性質ではない。
 私たちは、移動することができる。今まで見たことがないものに向き合うことができる。
 天候任せにしなくても、心の中に初雪を降らせることができる。
 毎日、初雪を降らせ続けることも可能である。
 すべての雪は、異なる印象を与えるだろう。しかし、その降下がもたらす、今までいた世界が全く違った場所に見えるという性質は変わらないだろう。
 もし、初雪を降らせ続けることができれば、私たちの人生は、永遠に更新され続けるだろう。
 二度と戻らない時間を生きるという感激は、ずっと自分の胸のうちにあるだろう。
 小樽で経験した雪の景色が、私に、そのようなことを連想させた。
 だから、歩くことは楽しい。
 慣れぬ雪の道を、足元がおぼつかないままに、ゆっくりと進んでいくことは嬉しい。
 今日もまた、初雪が、私の心の中に降る。

著者情報

茂木 健一郎 (もぎ けんいちろう)

1962年東京生まれ。東京大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理学博士。脳科学者。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経てソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。「クオリア」(感覚の質感)をキーワードに脳と心の関係を研究するとともに、評論、小説などにも取り組む。2005年『脳と仮想』(新潮社)で第4回小林秀雄賞を受賞。2009年『今、ここからすべての場所へ』(筑摩書房)で第12回桑原武夫学芸賞を受賞。近著に『生命と偶有性』(新潮選書)、『東京藝大物語』(講談社)、『記憶の森を育てる 意識と人工知能』(集英社)ほか多数。

  • 開高健ノンフィクション賞
  • 情報・知識&オピニオン imidas
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