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Shueishagakugei

謹んで「熊本地震」災害のお見舞いを申し上げます。

熊本地震により甚大な被害が発生いたしました。
お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りいたしますとともに、
被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。
一日も早く平穏な日々が戻りますよう、そして復旧がなされますよう心よりお祈り申し上げます。

(株)集英社

  • 集英社・熊本地震災害被災者支援募金のお知らせ

謹んで地震災害のお見舞いを
申し上げます。

東日本大震災により被災された皆様に、心からお見舞い申し上げます。
また、被災地等におきまして、救援や復興支援など様々な活動に全力を尽くしていらっしゃる方々に、深く敬意と感謝の意を表しますとともに、一日も早く復旧がなされますよう心よりお祈り申し上げます。

(株)集英社

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Nonfiction

読み物

ペルパタオ −我歩く、故に我あり 茂木健一郎

第37回 [2017年某月某日 一歩ごとに死んで生まれ変わる]

更新日:2017/08/23

 歩く、ということについて一つはっきり言えるのは、それが、人生全般に関する「レッスン」となり得るということだ。
 どのようなテンポで歩くか、何に注目するか。どんなことに気を配るか。いつ立ち止まるか。こぼれ、あふれた太陽の光をどう配分するのか。
 そんなことの全てが、歩くことで、私たちの身体にしみ込んでいく。
 歩くことを理解する上で本質的なのは、「時間」だ。
 一歩前の自分と、一歩後の自分は、もう変わってしまっている。一瞬前の自分は、もうこの世界にはいない。そんな時間の成り立ちが、歩行のリズムとともに、自分の中に刻み込まれていく。
 死んだ後に、自分はどうなってしまうのか、私たちは時々考える。「今、ここ」にある私の存在が失われてしまうことに、根源的な恐怖を感じる。
 自分がいなくなった後、自分なしで世界が進んでいくということが、信じられない気がする。だからと言って、自分の消滅とともに世界も消えるのだという「独我論」の破壊的安心に立てこもる気にもならない。
 しかし、世界が、一歩ずつ歩むように進んで行くこと、時間は決して後戻りしないことを考えると、また違った事情が見えてくる。
 一瞬前の「私」はもはや存在しない。一瞬前の「世界」も存在しない。だから、「私」は確かに存在し続けるのかもしれないけれども、一瞬前に存在した「私」は、それと同じようなかたちでは存在していない。
 だから、一瞬前の「私」は、もはや「死んで」しまっているのと同じである。
「私」は、一瞬ごとに「死んで」、更新されている。その一瞬前の「私」に戻ろうとしても、それは、「生」と「死」のように絶対的に隔てられている。決して、届かない。
 例えば、楽しいパーティーが始まる。人々が集まり、乾杯する。料理が運ばれ、味わいながら談笑する。外から差す光が次第に角度を変え、移動し、やがて翳り始める。
「ああ、もうこんな時間だ」と誰かが言う。そろそろパーティーもお開きである。いつの間にか、時が過ぎてしまった。
 出席者の皆はまだ生きているかもしれないけれども、そして確かに日常は続いていくのかもしれないけれども、パーティーが始まった瞬間の、あのウキウキとした、新鮮な気持ちの時間や空間は、永遠に、取り返しのつかない形で失われてしまっている。どんなことをしても、そこに立ち戻ることなどできない。
 ちょうど、死んでしまった人をいくら懐かしんでも決して生き返らせることなどできないように。パーティーが始まった時の「私」と「世界」を、パーティーが終わった時の「私」は、呼び戻すことなど決してできない。
 数時間前のことは、まだ、その手触りが感じられるくらいのいきいきとした残滓があるけれども、これが、もっと昔のことになってしまうと、同じ「私」の人生であるのに、もはや、昭和からみた江戸のように、手応えのない、頼りないものに変わってしまっている。
 幼稚園に通っていた頃、毎日、布の袋にお金を入れて持って行く習わしになっていた。その日の牛乳代をそのようにして払っていたのである。
 それぞれの子どもが持ってきた牛乳代を入れた袋が、木の箱の中に並べられる。白がたくさん入っている中で、赤い袋もちらちらと混じっている。それぞれの袋には、子どもの名前が書いてある。
 白は、普通の牛乳で、赤はコーヒー牛乳なのである。
 私は、コーヒー牛乳が飲みたくて仕方がなかったのだが、なぜか、母親はいつも白い袋しか持たせてくれなくて、それが切なかった。木の箱の中に入っている白と赤の袋を見ながら、その中に、私の赤い袋が入っていないことを、私はいつも恨めしく感じていた。
 赤い袋を持って行くためだったら、世界すべてと引き換えてもいい、とさえ感じていた「私」がいた。
 今、あの頃のことを振り返っても、また、幼稚園の園庭で赤とんぼが飛んでいるのを見ていた秋の空気を思い出しても、すべては曖昧で、抽象的で、取り返しがつかない形で流れ去っているように感じられる。当時の「私」と、今の「私」は、絶望的なくらいに隔てられている。
 そう、ちょうど、「生」と「死」のように。
 そんなに昔のことでなくても、日々の繰り返しの中でも、お昼頃には朝の「私」はもはや取り戻せないし、朝起きた時の「私」からも、寝る前の「私」は取り戻すことができない。
 つまり、私たちは、常に、一瞬ごとに、一歩ごとに、死んで、また、生まれ変わっている。
 その絶対的な隔たりの構造の中では、一秒も、一時間も、一億年も平等である。
 ある日、そんなことを、皇居のお堀を眺めながら考えていた。東京が江戸と呼ばれ、江戸城の中を侍たちが歩いていたその頃と現代は確かに隔てられているけれども、「一歩前」の私と「一歩後」の私もまた、絶望的に遠い。
 時間がいとも簡単に隔たりの壁をつくってしまうことが、最近では、人生の最大の恵みであり、慰めであるようにさえ感じられるのだ。
 世界はもともとそのようにできている。
 私たちは、絶望の中で、希望を抱きながら、一歩ずつ前に進んでいくしかないのだ。

著者情報

茂木 健一郎 (もぎ けんいちろう)

1962年東京生まれ。東京大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理学博士。脳科学者。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経てソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。「クオリア」(感覚の質感)をキーワードに脳と心の関係を研究するとともに、評論、小説などにも取り組む。2005年『脳と仮想』(新潮社)で第4回小林秀雄賞を受賞。2009年『今、ここからすべての場所へ』(筑摩書房)で第12回桑原武夫学芸賞を受賞。近著に『生命と偶有性』(新潮選書)、『東京藝大物語』(講談社)、『記憶の森を育てる 意識と人工知能』(集英社)ほか多数。

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