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Shueishagakugei

謹んで「熊本地震」災害のお見舞いを申し上げます。

熊本地震により甚大な被害が発生いたしました。
お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りいたしますとともに、
被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。
一日も早く平穏な日々が戻りますよう、そして復旧がなされますよう心よりお祈り申し上げます。

(株)集英社

  • 集英社・熊本地震災害被災者支援募金のお知らせ

謹んで地震災害のお見舞いを
申し上げます。

東日本大震災により被災された皆様に、心からお見舞い申し上げます。
また、被災地等におきまして、救援や復興支援など様々な活動に全力を尽くしていらっしゃる方々に、深く敬意と感謝の意を表しますとともに、一日も早く復旧がなされますよう心よりお祈り申し上げます。

(株)集英社

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Nonfiction

読み物

ペルパタオ −我歩く、故に我あり 茂木健一郎

第30回 [2017年4月某日 桜、われらの似姿よ]

更新日:2017/05/10

 春になり、桜が満開になる度に、私たちはなぜ心落ち着かなくなるのだろう。
 愛らしく、きれいで、見る者を楽しい気持ちにさせる。それでいて、どこかそわそわと、いてもたってもいられぬ感情もわいてくる。
「ねがはくは花のもとにて春死なむそのきさらぎの望月の頃」
 西行はそのように歌った。
 ここで「花」と呼ばれているのは「桜」のことだとするのが通説である。
 詩人の心の中では、死のイメージが、穏やかに、そしてたおやかに桜の花のそれと響き合わされている。
 確かに、桜の花は、生きている実感、そしてやがて確実にやってくる死を思い起こさせる。
 桜が咲く度に、「ああ、また春を迎えることができた。一年生き延びることができた」と実感している人は多いだろう。たとえ、西行のような歌心、漂泊の思いはないとしても。
 病を得た人にとっては、そしてそこから癒えた人にとっては、目にする満開の桜の花には、格別な思いがある。健やかな人は、そのことにたとえ気づかないとしても、いつか思い当たることがあるかもしれない。
 いずれにせよ、桜は私たちに生の実感を与える。そして、問題は、そこに「死」の影が色濃くまとわりついているということだ。
 梶井基次郎は「桜の樹の下には屍体が埋まっている」と看破した。
 この一文から始まる短編『桜の樹の下には』の中で、作家は、桜を見た時に胸をよぎる不安の正体について、詩的な言語で想いを巡らせている。
 そして、最後にこう結論するのだ。
「今こそ俺は、あの桜の樹の下で酒宴をひらいている村人たちと同じ権利で、花見の酒が呑めそうな気がする。」
 そうだ、私たちは、満開の桜の下で、もっとも気楽に宴をひらいている時にさえ、心の奥底には不安というものを抱いているのではなかったか。
 梶井の言葉は、詩人の発想の飛躍であるとともに、ごく普通の生活者の常識的感覚を反映したものではないだろうか。
「あの桜の樹の下で酒宴をひらいている村人たちと同じ権利で」という言葉には、そのような、詩的飛躍と生活感覚の結合が見られる。
 そして、だからこそ、多くの人の脳裏にこの梶井の表現が強く印象づけられて残っているのだ。
「桜の樹の下には屍体が埋まっている」
 面白いことに、この言葉を口にする度に、周囲の人たちは「ああ、それは知っている」と明るい顔で感想を漏らす。ただ、続いて、不安な表情をするのだ。
「それは、誰の言葉だったっけ?」
 しばらく考えても、「丸善に檸檬(れもん)を置いてくる」という短編で知られる梶井基次郎の名前が口に上ることはむしろ少ない。あたかも、「桜の樹の下には屍体が埋まっている」という言葉が、詠み人知らずの、集合的無意識の雲の中から出てきたような、そんな印象すらある。
「桜の樹の下には屍体が埋まっている」という言葉は、いつの間にか、日本人の集合的無意識の中に植え付けられているようだ。
 その表現がいつの間にか詠み人知らずになることは、作家にとっての最高の栄誉だろう。梶井の言葉は、その意味で正鵠(せいこく)を得ていた。
 今年も、また、桜が咲いた。
 歩いていても、走っていても、街の至るところで桜が咲いている。その下で子どもたちが遊んでいる。夫婦連れがぼんやりと立っている。車椅子の人を押しながら見上げる人がいる。そそくさと、先を急ぐ人がいる。
 いずれにせよ、私たちは、満開の桜を見ると、どこか心の平静を失って、いたたまれない気持ちになるようだ。
 そして、そこには、どうやら、「時間」の経過が関係している。
 私たちは知っている。桜の頂点が、長くは続かないことを。桜は、はかなさの象徴である。理想的な花見など、めったに実現することはない。
 頭が思い描く楽園では、桜は完璧なまでに数々の花を開かせ、陽光が万物を照らし出し、鳥は鳴き、人々は笑い、さわやかなそよ風が吹いている。
 しかし、そんなことは滅多にない。実際にはすぐ曇る。夜になれば寒い。風が吹いて花びらを散らす。冷たい雨が降る。酔っ払いが喧嘩を始める。そんな中、桜の樹たちは静かに佇んで耐えている。
 そう、私たちは、桜の花が咲き、その運命を全うすることが、この地上で稀にしか起こらない「奇跡」であることを知っているのだ。そして、その奇跡が、たとえ成立したとしても、やがては移ろってしまうものであることも熟知しているのだ。
 そして、そのような桜のありさまが、私たちの生そのものの似姿であることも、また知っている。
 だからこそ、満開の桜は、私たちの心を、その底から落ち着かなくさせる。
 いても立ってもいられなくさせる。
 だとしたら、酒でも飲むしかないじゃないか、諸君!

 ハナニアラシノタトヘモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ

 唐の詩人、于武陵(うぶりょう)の漢詩『勧酒』の中の、「花発多風雨 人生足別離」をこのように訳した時、井伏鱒二の心の中には、はらはらと桜の花びらが舞い散っていたのであろう。

著者情報

茂木 健一郎 (もぎ けんいちろう)

1962年東京生まれ。東京大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理学博士。脳科学者。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経てソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。「クオリア」(感覚の質感)をキーワードに脳と心の関係を研究するとともに、評論、小説などにも取り組む。2005年『脳と仮想』(新潮社)で第4回小林秀雄賞を受賞。2009年『今、ここからすべての場所へ』(筑摩書房)で第12回桑原武夫学芸賞を受賞。近著に『生命と偶有性』(新潮選書)、『東京藝大物語』(講談社)、『記憶の森を育てる 意識と人工知能』(集英社)ほか多数。

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