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Shueishagakugei

謹んで「熊本地震」災害のお見舞いを申し上げます。

熊本地震により甚大な被害が発生いたしました。
お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りいたしますとともに、
被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。
一日も早く平穏な日々が戻りますよう、そして復旧がなされますよう心よりお祈り申し上げます。

(株)集英社

  • 集英社・熊本地震災害被災者支援募金のお知らせ

謹んで地震災害のお見舞いを
申し上げます。

東日本大震災により被災された皆様に、心からお見舞い申し上げます。
また、被災地等におきまして、救援や復興支援など様々な活動に全力を尽くしていらっしゃる方々に、深く敬意と感謝の意を表しますとともに、一日も早く復旧がなされますよう心よりお祈り申し上げます。

(株)集英社

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Nonfiction

読み物

ペルパタオ −我歩く、故に我あり 茂木健一郎

第24回 [2017年正月 私が散歩を愛する理由]

更新日:2017/02/08

 私が歩くのが好きなのは、それが人生そのものに似ているからかもしれない。
 特に、時間の流れを体感させるという意味において、歩くこと以上の手段を私は知らない。歩くということは、時間そのものを純粋に味わう一つの「体験芸術」なのだ。
 文明のおかげで私たちはいろいろな移動手段を手に入れた。自動車も電車も飛行機も便利だが、どこかで時間の感覚をおかしくする側面がある。
 この世で、時間の流れほど揺るぎなく、不可思議で、そして最終的には恐ろしいものはない。
 時間は誰にでも平等に与えられている。若き者も、年寄りも、男も女も、富める者も貧しき者も、庶民も権力者も、一分は一分であり、一時間は一時間だ。
 そして、人生の時間にいつか終わりが来ることも平等だ。
 もちろん、人によって寿命は違う。若くして亡くなってしまう人と、天寿を全うする人では差異があるように感じる。しかし、純粋に時間の持続や経過という視点から見たら、生命が存在している限りにおいて平等であるということもできる。
 仕事に追われる人とゆったりと余暇を楽しむ人では時間が違うのではないかという議論も成り立つかもしれない。しかし、そのような視点は時間の本質から私たちの注意を逸らす。
 どんな権力者も一日は一日である。彼ないし彼女は自分が地上で築き上げた社会的地位に満足して、その威光に伴うさまざまな自負や楽しみに気を紛らせるかもしれない。そして、自分の時間は特別なのだと勘違いするかもしれない。
 しかし、そのような幻惑を取り払ってしまって、時間の経過というものを純粋にその体験の質においてとらえれば、そこには哀しいほどの平等があるだけだ。そのような認識は自分が特別だと思い込む者のプライドをくじくかもしれない。しかし、時間の平等の中にしか真実はない。
 権力者だけではない。私たちは一人ひとり、それぞれの事情が特別なものだと思いこんで人生という旅をたどっている。自分の年齢や性別、生まれた場所、家族構成、仕事、置かれた社会的立場。そのようなさまざまが自分の時間のあり方をユニークに規定していると思っている。
 一方で、功利的な立場から時間にアプローチする者も多い。時間は資源だという言い方に同意し、あたかも取引や管理が可能なものだと勘違いしている。
 しかし、そんな心や頭のから騒ぎに身をやつしている間も、人生の砂時計は少しずつ落ち続けている。いつか上の砂がすっかり落ちてしまうことにすら気づかずに。
 ルキノ・ヴィスコンティの映画『ベニスに死す』の隠されたテーマは時間である。
 グスタフ・マーラーをモデルにしたとも言われている作曲家アッシェンバッハが、回想シーンの中で、まさに砂時計を前に人生の時間について語るシーンがある。印象的で心を動かす場面である。
 人生の時間は、砂時計のように落ちてもう戻ってこない。だけど、まだまだ上に砂が沢山あるぞ、と思ってしまう。まだまだ余裕だぞと。しかし、ある日気づくのだ。もう砂が残されていないことを。人生の残りの時間がないことを。しかし、その時にはもう遅い。
 アッシェンバッハの独白に接した者は、ああ、その通りだと嘆息する。だからこそ、映画としての普遍性がある。
 アッシェンバッハの悲痛な独白をしているのは、マーラーその人だったかもしれないし、ヴィスコンティの内なる声だったかもしれない。気づきは万人に共有される。しかし、私たちはそのことを日常生活の中ですっかり忘れている。
 人生の時間のそのような性質を、もう5年も10年も思い出していない人だって、ざらにいるだろう。言われればああその通りですと瞬時に納得し同意するだろうが、深い感情の部分で動かされているかどうか。果たして自分から思い出すことがあるかどうか。そうやって、人生の時間についての感性が摩耗したまま過ごすことが、どんなにもったいないことか。
 どうやら、人間には、本質的なことほど目を逸らしたくなるような心理があるようだ。
 こう書いている私だって、同じことだ。
 だからこそ、私は散歩を愛する。歩くことで、すべての余計な文脈を取り除いた時間の性質そのものに向き合うことができる。それはつまり、生命そのものを見つめることである。
 散歩の中でもとりわけ夜のそれが好きだ。見知らぬ街を歩くのが良い。とりわけ、ごく当たり前の、取り立てて目立つ特徴もなく、ただ普通の生活が息づいている街の中を歩くのが好きだ。
 そんな時、私は一人になる。穏やかで静かな暗闇に包まれて自分そのものに還っていく。生きているなという実感が内側からしみ出してくる。私は幸せである。
 時には、『ベニスに死す』のアッシェンバッハの独白のように、自分の人生の時間が取り返しのつかないかたちで通り過ぎて行ってしまっていることが痛切に感じられる。
 人生のどんな時間を切り取っても、その持続や経過は独特の味わいを持っている。そのことを忘れてしまいがちな日常の中で、夜の散歩が気づきという「稀人(まれびと)の時間」を連れてくる。

著者情報

茂木 健一郎 (もぎ けんいちろう)

1962年東京生まれ。東京大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理学博士。脳科学者。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経てソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。「クオリア」(感覚の質感)をキーワードに脳と心の関係を研究するとともに、評論、小説などにも取り組む。2005年『脳と仮想』(新潮社)で第4回小林秀雄賞を受賞。2009年『今、ここからすべての場所へ』(筑摩書房)で第12回桑原武夫学芸賞を受賞。近著に『生命と偶有性』(新潮選書)、『東京藝大物語』(講談社)、『記憶の森を育てる 意識と人工知能』(集英社)ほか多数。

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