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ペルパタオ −我歩く、故に我あり 茂木健一郎

第23回 [2016年12月某日 グランチェスター・メドー]

更新日:2017/01/25

 変わらないということはどういうことか、時々考える。
 近代の特徴は、進歩にこそ重きを置いていることだろう。より良い変化というものがあると信じている。だから、どんどん変えていくことが良いという前提で様々なことに向き合う。
 例えば景観にしても。目まぐるしく変化し、発展し続けるのが良しとされる。古くなったビルは再開発し、建て替える。デパートは新装開店する。ファッションも、毎シーズン変える。
 しかし、そのような「発展」への信仰と一線を画している国もある。例えば英国。伝統と継続性を重んじ、むしろ変わらないことを誇る。そのため、昔ながらのものが様々残っている。それが英国の魅力である。
 正確に言えば、英国のすべてが伝統と継続性に対する敬意で回っているわけではない。むしろ、守旧と革新のせめぎあいの中で、かろうじていくつかの古いものが残存してきたように思われる。
 米国生まれで英国在住の作家、ビル・ブライソンの本を読んでいたら、かつては英国でも無謀にも思われる計画があったのだという。ロンドンも、第二次世界大戦後のある時期、名物のピカデリーサーカスを始め、多くの入り組んだ道路を「整備」して何車線もの大通りにするプランが大真面目に議論されていたそうだ(幸いにして、実行には至らなかったが)。
 変化こそが善であるというイデオロギーは強力なものだけに、そのままの姿で受け継ぐことの大切さを主張しようとしたら、それなりの「理論武装」がいる。そして、おそらくは深い哲学も。
 先日、英国のケンブリッジ大学留学中にお世話になったホラス・バーロー教授の95歳の誕生日を祝うディナーパーティーに出席するために渡英した。『種の起源』の著者で、進化論の創始者であるチャールズ・ダーウィンのひ孫であるバーロー教授は、進化論の応用の成果か、これだけの高齢になっても元気である。
 そのバーロー教授がフェローをつとめるトリニティ・カレッジは、ニュートンがいたころからおそらくはあまり変わっていない。キングス・カレッジなど、ケンブリッジの他の古いカレッジも、年月による外観上の変化がほとんどない。
 そのキングス・カレッジが所有する、ケンブリッジから隣村のグランチェスターに向かう小径のある「グランチェスター・メドー」も、長い年月の間同じ姿を留めてきた。
 文字通り「牧場」であるこの緑地は、ケム川沿いになだらかに広がっていて、グランチェスターまでゆっくり歩いて30分ほどの道のりである。
 日曜には、ケンブリッジからグランチェスターにあるパブまで歩いて、ビールを飲んだり食事をしたりする人たちで賑わう。犬の散歩をしたり、ケム川沿いでピクニックをしたり、釣りをしたりする人もいる。
 グランチェスター・メドーを有名にしたのは、かつてそこを散歩した人たちである。例えば、現代のコンピュータの理論的基礎をつくった数学者のアラン・チューリング。あるいは、哲学者のルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタイン。ケンブリッジ由来の学者、思索者の多くが、この牧場を歩きながら考え事にふけった。
 グランチェスター・メドーが変わらないのは、制度的に言えばイギリスの地上政府がなかなか開発許可を出さないことや、所有者であるキングス・カレッジが財政的にも安定しているなどの様々な理由がある。一方で、そのような変わらない景観こそが、チューリングやヴィトゲンシュタインの思索を支えていたことは、興味深いことだと思う。
 古来思索者は夜空を見上げて考えた。星空は時間が経過しても変わらない。不変なものこそが、思索を、そしてその結果としての進歩をもたらす。
 目まぐるしく変わるものを指標とした進歩は、どこか底が浅く、長続きしない。一方、変わらないものを友とした思索は深く根を張り、永続的な価値を持つようになる。グランチェスター・メドーは、思索者たちの目まぐるしく動く心的運動を支える一方で、自身は全く変わらないで来た。
 ニュートンが万有引力の法則を発見するきっかけとなったと伝えられるりんごの木の子孫は、今もトリニティ・カレッジの入り口にある。古来変わらない姿で。変わらない環境こそが、深い進歩をもたらすというのは、どうやら真実のようだ。
 古来、思索の場は、禅寺にせよ、修道院にせよ、洋の東西を問わず「不変」こそを旨としてきた。人間の内面の劇的な運動は、むしろ美しく一定の環境の中でこそ育まれる。
 毎年のようにIT機器の新しいヴァージョンが生まれ、情報の流通が加速し、ましてや人工知能という、人間のあり方自体を変える新技術が台頭している今、かえって人間の心は本質的進歩を遂げていないのではないかと考えることは、興味深い警告への道筋だ。
 変化が悪いわけでは決してないが、古来変わらない姿を留める場所が、人類の歴史を変えるような深い知のイノベーションをもたらすことは確かにある。グランチェスター・メドーに来る度に、そのことを思い出す。

著者情報

茂木 健一郎 (もぎ けんいちろう)

1962年東京生まれ。東京大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理学博士。脳科学者。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経てソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。「クオリア」(感覚の質感)をキーワードに脳と心の関係を研究するとともに、評論、小説などにも取り組む。2005年『脳と仮想』(新潮社)で第4回小林秀雄賞を受賞。2009年『今、ここからすべての場所へ』(筑摩書房)で第12回桑原武夫学芸賞を受賞。近著に『生命と偶有性』(新潮選書)、『東京藝大物語』(講談社)、『記憶の森を育てる 意識と人工知能』(集英社)ほか多数。

  • 開高健ノンフィクション賞
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