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ペルパタオ −我歩く、故に我あり 茂木健一郎

第19回 [2016年某月某日 品川駅から東京駅へと夜歩き]

更新日:2016/11/23

 あれは小学校4年生の頃だろうか、ふと、疑問に思ったことがあった。
 三角形や台形の面積は求められるけれども、もっと複雑な図形は、どんなふうに面積を計算するのだろう? 例えば、身の回りにある壺の体積は、どうやって計算するのだろう? 水でも入れて、出てきた量を計るのだろうか。
 そんなことを疑問に思っていた頃、親戚のおじさんと雑談していて、「ああ、それは微分積分法というのを使うんだよ」と教えてくれた。
「ビブンセキブン法?」
 小学生の私にとって、それは、初めて耳にする文字列だったが、とても新鮮に思えた。この世に、そんな不思議なものがあるということに、限りない好奇心を抱いたのである。
 それからしばらくして、円周率のことが気になり始めた。学校で習っていたのは3.14159265....で、実際の計算では3.14を使っていたと思うけれども、どうやって、そんなに先の桁まで計算するのだろう?
 世の中には、円周率を「暗記」している人がいて、何万桁も記憶している人がニュースになっていたりしたけれども、そもそも、どのようにして、大元の円周率を計算するのだろう?
 できるだけ正確に円を描いて、その半径も測って、その円周との比を、とにかく一生懸命に計測するのだろうか?
 小学生の私にとっては、それくらいが限度だった。「テイラー展開」などの「無限級数」という考え方があると知ったのは、中学生くらいのことである。
「微分積分法」にしても、「テイラー展開」にしても、その存在を知ってすぐに、自分のものにできるわけではない。それでも、自分の歩いていく道の先に、そのような目印があるということを知ることは、大切なことだと思う。
 人生という旅路は、毎日少しずつ歩いていくしかない。焦っても、そんなに速くは歩けない。だから、一足飛びに遠い場所には行けない。
 その一方で、歩いて行く時の道筋を示してくれる「ランドマーク」はやはり必要だと思う。そのようなランドマークを眺めながら、毎日少しずつ歩いていくのである。
 例えば、ここに、将来小説家になりたいと考えている子どもがいるとする。その子にとって、小説を出版社から出す、という道筋は、どのようなものに映っているのだろうか。
 たまたま、お母さんが作家であるとか、身近に小説家がいるという場合には、実際に出版するまでの道筋が見えているだろうけれども、そうでなければ、かなり曖昧なイメージしかないだろう。
 世の中には「編集者」というものがいて、作品は、編集者とのやり取りで、あれこれと文章を磨き、削り、足してつくっているものであるということや、出版社には「営業」があって、その意向で作品の売り出し方、ノンフィクション作品の場合にはタイトルも変更されることがある、みたいなことは、必ずしも見えていないかもしれない。
 いずれにせよ、そのような世界の「見取り図」のようなものがあるかどうかで、毎日の「歩行」の様子も、だいぶ変わってくるように思う。
「微分積分学」や「テイラー展開」の存在を知った時の私は、もちろんこれらの概念の詳細を理解などしていなかったが、それでも、歩んでいるうちに、やがてこれらのものが姿を現すのであろうと、その予感や期待自体がとても楽しかった。実際に姿が見え始めた時には、興奮した。そして、これらの概念に親しみ、自分のものにした時には、人生という旅の醍醐味を体感できたように思う。
 かつて、日本で言えば伊勢神宮、ヨーロッパで言えばバチカンのような「聖地」を目指していた巡礼者の頭の中には、ランドマークのイメージが生き生きとあったことだろう。歩行の旅の時代においては、一歩ごとの前進がやがて積み重なって自らが導かれるその地の様子が、楽しみに心の中にあったに違いない。
 長い旅の後に、伊勢の内宮やサン・ピエトロ寺院を目にした時の感激は、いかばかりのものであったか!
 ランドマークがあって、毎日歩んでいく。そんな人生は、素敵だなと思う。
 ランドマークは、時には、幻想だということもあるかもしれない。コロンブスが新大陸を発見する上では、『東方見聞録』に記述されていた黄金の国、ジパングという「目的地」が必要であった。実際にたどり着いた新大陸は今で言うところの「偶然の幸運」(セレンディピティ)であったが、セレンディピティを導くのは、多くの場合幻想のランドマークである。
 ランドマークは、人生に必要だ。しかし、日々、多くの情報の洪水に溺れ、分刻み、時に秒刻みの活動を余儀なくされている現代人の心からは、現実であれ、幻想であれ、ランドマークというものがなくなってしまっているのかもしれない。
 先日、品川駅から東京駅まで歩いていくということがあって、その途中、東京タワーが赤々と照らし出されて屹立(きつりつ)しているのを見て、ああランドマークというのは、このようにして人の心に作用するのだなあ、と感じた。
 それから、概ね、以上のようなことを、歩きながら考えた。
 その間、東京タワーをずっと見ていたわけではないけれども、心のどこかで意識していたようには思う。いつも見ているわけではないけれども、心の中にある。ランドマークはそのような存在だ。

著者情報

茂木 健一郎 (もぎ けんいちろう)

1962年東京生まれ。東京大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理学博士。脳科学者。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経てソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。「クオリア」(感覚の質感)をキーワードに脳と心の関係を研究するとともに、評論、小説などにも取り組む。2005年『脳と仮想』(新潮社)で第4回小林秀雄賞を受賞。2009年『今、ここからすべての場所へ』(筑摩書房)で第12回桑原武夫学芸賞を受賞。近著に『生命と偶有性』(新潮選書)、『東京藝大物語』(講談社)、『記憶の森を育てる 意識と人工知能』(集英社)ほか多数。

  • 開高健ノンフィクション賞
  • 情報・知識&オピニオン imidas
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