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Shueishagakugei

謹んで「熊本地震」災害のお見舞いを申し上げます。

熊本地震により甚大な被害が発生いたしました。
お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りいたしますとともに、
被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。
一日も早く平穏な日々が戻りますよう、そして復旧がなされますよう心よりお祈り申し上げます。

(株)集英社

  • 集英社・熊本地震災害被災者支援募金のお知らせ

謹んで地震災害のお見舞いを
申し上げます。

東日本大震災により被災された皆様に、心からお見舞い申し上げます。
また、被災地等におきまして、救援や復興支援など様々な活動に全力を尽くしていらっしゃる方々に、深く敬意と感謝の意を表しますとともに、一日も早く復旧がなされますよう心よりお祈り申し上げます。

(株)集英社

  • 集英社・東日本大震災被災者支援募金のお知らせ
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Nonfiction

読み物

ペルパタオ −我歩く、故に我あり 茂木健一郎

第18回 [2016年某月某日 ただ在れと、散歩は言う]

更新日:2016/11/9

 昨今の人工知能に対する熱狂は、興味深いものであるが、一方で、懐疑的に見る必要もあるように思う。
 ある本には、大量のデータを集め、学習を通して、すべての宇宙の真理を解明する「マスターアルゴリズム」を目指すべきだという論があった。その著者によれば、このような試みは、物理学において、宇宙の万物のふるまいを解明する「万物の理論」に相当するのだという。
 そのようなアルゴリズムがあるのかどうか、存在するとして、人類にそれが解き明かせるのかどうかは確かに興味深い問題だとは思うけれども、だからといって、そのようなアルゴリズムを求めることが、人類にとって唯一の大切な課題であるとも思えない。
 人工知能が得意とするのは、ビッグデータに基づく、統計的な学習である。そのことによって、写真や映像の判別、病気の診断、街の設計の最適化など、さまざまな分野での応用が進むだろう。その一方で、「統計」ではどうしても扱うことのできない、私たちの経験の特徴がある。
 それは、「今、ここ」にあって、その中で時間が流れ、自分が行動していることの不思議である。
 極論すれば、知性があるかどうかは、関係ないように思う。
 ただ、「在れ」ば、それで良い。賢いかどうかなど、どうでもいい。考えなくても、感じなくても、ただ、そこに在るだけで、それでいい。
 ただ、人間という存在の宿命として、考え、感じるということがあるというだけのことだ。時間の流れという、不思議なものと一緒になってこそ、私たちの精神はぐるぐると回転する。
 そんなことを綴っているうちに、また地球上の時がめぐって、秋の気配が深まってきてしまった。
 どういうことか、この季節になると、時間の流れというものを、感じるようになる。しかも、抽象的な概念ではなく、ひりひりと、肌でこすれ合うように受け止めるようになる。
 木の葉が色づき、やがて落ちていくように、あるいは、日々、道端に虫の亡骸(なきがら)が転がり、一方で果物が収穫の時を迎えるというように、すべての生きとし生けるものが、それぞれの時をまるで生き急ぐような、人間もまた感化されるような、そんないてもたってもいられない気持ちにさせられるからかもしれない。
 街を行き、木々の葉っぱが色変わりしているそのありさまを見るだけでも、時の流れを実感する。そして、それは、感覚においても、事実においても、押しとどめることができない。
「ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」
『方丈記』のこの有名な書き出しを読むと、ここで鴨長明が問題にしているのは、本質的に、現代の我々と同じことだと感じる。
 時間の流れが押しとどめようもないこと、その抽象的な実在性は、あまりに強烈で、抗いようもないこと、だから、せいぜい、ゆく川の流れに喩えるしかないこと。そのような事情は何も変わっていない。
 そして、『方丈記』が書かれた約800年前と、科学技術文明が発達した今日で、このような時の流れの本質は、純粋に同一である。
 街を歩いていて、ふと、色づく木の葉に目が留まり、時の流れのどうしようもなさに思いを馳せていると、この世界に、そのこと以外に本質的な事情など、何もないのだ、ということに思い至る。
 この世に生を受け、日々人生を送り、やがて老い、死んでいく。通りを行く者たちに対して、「いいか、君たち、我々全員は、100年後には、この地上にはいないのだ!」と叫ぶ者がいるとするならば、異常をきたしているのはその者なのか、それとも、日常感覚の中に通りを行く私たちなのか。
 夕暮れの空を見上げながら、ふと、時の流れの不思議さを思うと、そのような世界の本質を考えずに生きている日常は、気晴らしのようなものに過ぎないと思い至る。
 ところが、そのような気晴らしなしでは私たちはおそらく生きては行けないし、人生を享受したことにもならない、ということもまた事実である。つまり、私たちは、時折奇跡のように訪れる「隙間」において本質に立ち戻り、あとは、目の前にぶら下げられた気晴らしを追いかけて、いつの間にか人生の大部分を過ごしてしまっているという、この地上のありさまがどうやら好きで仕方がないようなのだ。
 人工知能も、木星旅行のことも、すべては本質的な問題から目を逸らす気晴らしに過ぎないとしたら、逆に、大いに目先を追いかけて、愉しめば良いではないか。この世に、純粋な気晴らし以上に、生を豊かにする、素晴らしい活動はないのだから。
 真に本質的なことには、気晴らしの合間に訪れる「隙間」においてしか、向き合えない。ここに、人生の偉大なるパラドックス、香ばしい消息がある。そして、散歩は、恐らくはその「気づき」の領域に私たちを時折引き戻すためにこそ、存在する。
 散歩は、気まぐれなる神が私たちに与えてくれた最高のプレゼントである。その包み紙には古来変わらない「真実」が書かれているが、私たちは散歩を終えるとそれをぽいと丸めて捨ててしまう。
 さあ、散歩は終わった、また日常の気晴らしに戻ろうと、口笛を吹きながら。

著者情報

茂木 健一郎 (もぎ けんいちろう)

1962年東京生まれ。東京大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理学博士。脳科学者。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経てソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。「クオリア」(感覚の質感)をキーワードに脳と心の関係を研究するとともに、評論、小説などにも取り組む。2005年『脳と仮想』(新潮社)で第4回小林秀雄賞を受賞。2009年『今、ここからすべての場所へ』(筑摩書房)で第12回桑原武夫学芸賞を受賞。近著に『生命と偶有性』(新潮選書)、『東京藝大物語』(講談社)、『記憶の森を育てる 意識と人工知能』(集英社)ほか多数。

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