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Nonfiction

読み物

ペルパタオ −我歩く、故に我あり 茂木健一郎

第134回 [8月某日 東京五輪の伽藍堂(がらんどう)]

更新日:2021/09/08

 今年の夏は暑い。
 オリンピックが開催されていることで、さらに熱が増しているように感じる。
 私は基本的に冷房はつけない。時折水風呂に入って暑さをしのいでいる。そんなに長くつかるわけではなくて、生ぬるい風呂にしばらく入って、出た後の気化熱で涼しさを感じているのである。
 そんな中、水風呂で夏目漱石を読む快楽に目覚めてしまって、まずは『坊っちゃん』を終えた。これで、おそらくは100回を超える回数読んでいる勘定になるだろう。
 意識の起源に加え、創造性のメカニズムに興味を抱いて脳科学の研究をしている者にとって、漱石、とりわけ『坊っちゃん』は避けて通れない問題である。というのも、構成が完璧過ぎるからである。そのような作品を人間の脳が生み出すという事象がどのようにして生じるのか、「天才」という便利な言葉で蓋をして無視しているわけにはいかない。
 100回繰り返し読んでも、まだこれまで気づかなかった発見があるような深い構造がある。子どもの頃に読んだ時には気楽な物語としてとらえるけれども、大人になって再読すると、こんな側面があったのかと驚くような気づきがある。
 今回読んで改めて感じたのは、物語の背後から見え隠れする、「明治維新」そのもの、及び維新後の日本に対する鋭い批評性だった。坊っちゃんといっしょに赤シャツや野だいこを殴って土地を去ってしまう山嵐が、「会津」出身だとさり気なく書いてあるあたりは、震撼すべきだろう。
 坊っちゃんが松山の地に赴いて初めてその良さがほんとうにわかる「清(きよ)」にせよ、赤シャツにマドンナをうばわれて、それでも丁寧にみんなにお礼を言って去っていく「うらなり君」にせよ、何を象徴しているかは考えてみれば伝わってくる。新時代でうまくやっていて羽振りがいい赤シャツや野だいこと、敗れて去っていく山嵐、うらなり、清といった人々を比較した時に、そこからかいま見える漱石の心根は真実に切なく美しいと思う。
 今この日本にだって、羽振りのいい赤シャツと、誠実に没落していくうらなり君はいるに違いない。
 どのようにして、漱石の脳はこのような全体構造を構想し得たのだろう。
 最近、自然言語処理を案外巧みにこなす人工知能が出てきている。典型的な方法論は、ある文字列が与えられた時、次にくるのはどのような文章であるか予測するというものである。
 インターネット上に存在する文章を分析し、そこから統計的な学習をして、人間が繰る自然言語というものはどのような構造を持っているのかを習得する。すると、なかなかに見事な文章を綴ってくる。大学のレポートを書くのに学生が悪用するのではないかというレベルである。
 しかし、与えられた文章に続くテクストは何かという問題設定からわかるように、現時点での自然言語処理人工知能は、局所的に立派に続く文章が書けるのであるが、より俯瞰的、全体の構成において劣るのである。そこを見抜く大学教師ならば、人工知能に書かせたレポートに高い点数は与えまい。
 不思議なのは、漱石が、『坊っちゃん』の作品全体に現れているような深く有機的な構成の着眼をいかに得たかということである。上でごく一部分書いたような『坊っちゃん』の成り立ちについての視座を漱石の脳はどのように生成していたのか。今の人工知能では、そのような能力獲得の端緒にすらついていない。
 そんなことを考えながら、東京オリンピックも後半に差し掛かった、この夏でも一番暑い日、仕事の関係でゆりかもめに乗って、東京の湾岸地域に行った。無観客で行われた今回のオリンピックの会場が、左に右に見えてくる。
 自転車のBMX競技や、スケートボードが行われた会場が見えて、そこに各国の旗がはためいていた。立派で美しいスタジアムが伽藍堂である。それはおそらく一生忘れないような不可思議な光景であった。
 無観客開催だった今大会は、それでも、各アスリートの身体運動を世界中の人がテレビやネットを通して堪能した。勝利や敗北の瞬間に、生命の躍動や墜落を目撃した。それはインスパイアされるとともに時に残酷な光景だったのだろう。
 オリンピックには、古代ギリシャから、「見世物」という側面があったことは疑いない。
 夏目漱石が小説を書いていたその場所も、また、基本的に「無観客」であった。名を成してからは弟子が訪れたろうし、妻の鏡子が出入りしたり、漱石の子どもたちが走り回ったり、猫が忍び足でぐるぐると巡ったりしたかもしれないけれども、漱石の手元の運動は、漱石その人の脳の活動だけに依存していた。
 そして、その結果を、私たちは時を経てこうして見ている。小説はある意味では残酷なメディアである。その人の頭の中身が、無観客であったはずの時間の流れの中で定着されて、すべて伝わり、ばれてしまうからだ。
 アスリートはこの上ないプレッシャーの中で「ゾーン」と呼ばれる極限の集中の領域に至る。『坊っちゃん』を書いていた頃の漱石もまた、私たちには窺い知れない理由で、追い込まれていたのだろう。その結果の必死の精神運動の果実を私たちは目にしている。無観客のオリンピックのアスリートの躍動と墜落を目撃したように。
 そんなことを考えながら、暑い日に水風呂に入り、漱石の文庫本を読む。私の人生の身体運動が、今日も無観客で続いている。

著者情報

茂木 健一郎 (もぎ けんいちろう)

1962年東京生まれ。東京大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理学博士。脳科学者。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経てソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。「クオリア」(感覚の質感)をキーワードに脳と心の関係を研究するとともに、評論、小説などにも取り組む。2005年『脳と仮想』(新潮社)で第4回小林秀雄賞を受賞。2009年『今、ここからすべての場所へ』(筑摩書房)で第12回桑原武夫学芸賞を受賞。近著に『生命と偶有性』(新潮選書)、『東京藝大物語』(講談社)、『記憶の森を育てる 意識と人工知能』(集英社)ほか多数。

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