知と創意のエンタテイメント 集英社 学芸編集部

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ペルパタオ −我歩く、故に我あり 茂木健一郎

第123回 [2021年2月某日 創造と匿名]

更新日:2021/03/24

 これはあくまでも私の個人的な経験なのだけれども、いわゆる「クリエイター」の方々と話していて、「ああ、この人はダメだな」と思うのは、たいてい、自我から解放されていない場合だと思う。パネルディスカッションなどをしても、公共的なことについて話せず、「自分語り」に終始する。
 一方、すぐれた作品を残す人は、「自分が偉い」などとは露ほども思わず、生み出したものが独り立ちしていくことに喜びを見出しているような印象がある。世界や宇宙や遠いものについて語るのを好む。他者に深く耳を傾ける。
 夏目漱石はもちろん自我から解放された人だった。私が好きな漱石のエピソードは、弟子の内田百閒が一筆書いてくれと頼んだのを、後で、あれは気に入らないで書き直したから取りに来いと言われ、新しいのをもらえたのはいいけれども、前のやつを目の前でびりびりに破ってしまったという一件である。
 百閒にしてみれば、漱石の書いたものならば何でも欲しかったろうけれども、それを目の前で破ってしまうというところに、漱石の自身に対する態度を見る。
「匿名」は、自己から解放されていることを一番分かりやすく表す方法かもしれない。自ら匿名を選ぶ場合もあるし、時代や社会の状況が匿名をいわば強制することもある。
 ジェーン・オースティンは、デビュー作となった1811年の『分別と多感』(Sense and Sensibility)を匿名で(By a Lady)出版した。次の『高慢と偏見』(Pride and Prejudice)も、引き続き匿名で(By the Author of Sense and Sensibility)で出版した。このようなかたちを取ったのは、当時、女性が小説を出版することが社会的に受容されにくい風潮にあったからとされる。
 オー・ヘンリーは、『最後の一葉』(The Last Leaf)、『賢者の贈り物』(The Gift of the Magi)といった傑作短編を、獄中で書いて出版社に送ったけれども、それがルール違反であるというような状況もあって、本名の「ウィリアム・シドニー・ポーター」は使わなかった。
 フランスのアンドレ・ヴェイユや、アレクサンドル・グロタンディークといった錚々たる数学者たちが「ブルバキ」という共通のペンネームで研究を発表していた事例も名高い。ブルバキによる『数学原論』などの作品は、「ブルバキズム」と呼ばれる現代数学の潮流をつくった。
 最近の日本では、匿名で楽曲を発表するアーティストも増えてきている。コンポーザーのn-buna、ボーカルのsuisによるバンド、ヨルシカは『だから僕は音楽を辞めた』を、また、yamaは『春を告げる』を大ヒットさせた。これらの表現者は本名、年齢などの自分の属性を明らかにしていない。yamaは顔を隠してインタビューに答えたりしている。
 本来、科学でも数学でも、文学でも芸術でも、作品はそれを生み出した者を離れて流通していくものである。受容者が感動を味わう上で作者のエゴは関係ない。「自己表現」における「らしさ」などはある種の勘違いで、自意識が前に出るほどむしろ鑑賞の邪魔になる。
 創造性と「匿名」の関係は、ネット社会になって興味深い展開を見せている。
 日本で、西村博之さんが1999年に創設した匿名掲示板「2ちゃんねる」は、匿名の画像掲示板「ふたば☆ちゃんねる」などに発展していった。後者にインスパイアされたのが英語圏で大きな影響力を持つに至った「4chan」である。4chanは、今は西村博之さんが管理人になっている。
 4chanは、インターネット上のさまざまな「ミーム」を生み出す上で中心的な役割を果たしているため、時には「ミーム工場」と言われることがある。また、匿名のハッカー集団、「アノニマス」によるものなど、さまざまな活動の土壌となった。
 4chanは、創造性において自我の壁が時に邪魔でしかないということの一つの証左ともなっている。著作権は大切な役割を果たしているが、同時に創作者が「これは私の作品だ」と囲い込むことで自由な力学が阻害されてしまう。数学者は自分の業績に刻印を押したがる本能を持つが、ブルバキのように自我が溶け合う状態の方が創造性が加速されることもある。
 インターネットは、本来、物理的な制約を超えてさまざまなアイデアやイメージが混ざり合う可能性を持っているはずである。そのような力学において自我の壁は邪魔でしかなく、匿名が本来のあり方であるとさえ言える。
 ネット上の「トロール(荒らし)」などの問題で、アカウントの実名性などが議論されたり、一部の国家で人工知能を用いたネット監視による表現の責任追及の動きがある中、ダークサイドや弊害も確かにある匿名掲示板が同時に最も生産的な創造の坩堝(るつぼ)になっていることは肯定的に思い出されて良い。
 ジェーン・オースティンから4chan、ブルバキからヨルシカまで、創造性の最良のケースがしばしば自我の壁を超えた領域にあることを私たちは銘記すべきだろう。結局、すぐれた作品を生み出すことは自身の限界を超えることの中にこそあり、生み出された創作物はその起源する肉体を離れて広大なるイデアの宇宙に解き放たれていく。作者の自我が無関係な領域に至ってこそ、逆説的に、それを生み出した者にとっても福音になる。「私」から解放されてこそ「私」は救済されるのだ。

著者情報

茂木 健一郎 (もぎ けんいちろう)

1962年東京生まれ。東京大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理学博士。脳科学者。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経てソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。「クオリア」(感覚の質感)をキーワードに脳と心の関係を研究するとともに、評論、小説などにも取り組む。2005年『脳と仮想』(新潮社)で第4回小林秀雄賞を受賞。2009年『今、ここからすべての場所へ』(筑摩書房)で第12回桑原武夫学芸賞を受賞。近著に『生命と偶有性』(新潮選書)、『東京藝大物語』(講談社)、『記憶の森を育てる 意識と人工知能』(集英社)ほか多数。

  • オーパ! 完全復刻版
  • 『約束の地』(上・下) バラク・オバマ
  • マイ・ストーリー
  • 集英社創業90周年記念企画 ART GALLERY テーマで見る世界の名画(全10巻)

令和2年7月豪雨被災お見舞い

このたび令和2年7月豪雨により各地で被災された皆様に、心からお見舞い申し上げます。また、被災地等におきまして、避難生活や復興支援など様々な活動に 全力を尽くしていらっしゃる方々に、深く謝意と敬意を表します。一日も早く 復旧 がなされますよう衷心よりお祈り申し上げます。

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