読み物
第120回 [2021年1月3日 たとえば、列車の中から見る雪景色]
更新日:2021/02/10
ここのところ、歩きまわりながら英語の書籍を音声で聞くことにとても熱中している。
最初に聞いたのは、ジョージ・オーウェルの『動物農場』だった。続いて、『1984年』を聞いて、すっかり「ディストピア小説」の世界に引き込まれてしまった。
それから、レイ・ブラッドベリの『華氏451度』を聞き、オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』を聞いた。なんとなく連想して、これはディストピア小説とは厳密には言えないだろうけれども、ダグラス・アダムスの『銀河ヒッチハイク・ガイド』を聞いた。
それでいったんディストピア小説から離れて、今はミン・ジン・リーの『パチンコ』を聞いている。
こんなに熱心に音声を聞いているのは、大学院を出た頃、やはり歩きまわりながら小林秀雄の講演を聞いていた時期以来かもしれない。小林秀雄を聞いていた頃は、私の一つの転機であった。今もまた、何かが自分の中で変化しようとしているのだろうか。
いわゆるオーディオ・ブックという形式は日本よりも諸外国で定着しているようで、米国のグラミー賞にもオーディオ・ブックを含む「ベスト・スポークン・ワード・アルバム」のカテゴリーがあるという。耳で聞くと、目で見るよりも物語の流れが直接心に染み入ってくるように感じる。
私は以上のオーディオ・ブックをすべて英語で聞いているけれども、話し言葉のリズムやイントネーションが音楽のように伝わってくる側面も大きい。かつて、古事記は稗田阿礼に朗唱させるかたちで記録されたとも言われているが、人の言葉でこそ伝わる物語の本質があるように思う。
ディストピア小説を聞いている中で、思ったことがある。
まず第一に、これらの作品が近現代における人間の「危機」を背景にしているということ。共通したモチーフは、個人と「システム」の相克であり、いかに「システム」によって個人が管理され、自由が押しつぶされていくかというある種の緊張関係である。SF的な設定もあるが、その内容というか質感、「触覚」のようなものが色あせたり古びたりして感じないのは、「システム」対「個人」という対峙のあり方が今日まで続く本質的な問題だからだろう。
また、「人間」を担保し、個人を支えるものとして言葉、哲学、文学が措定されていることも印象が強い。とりわけ、これは英語圏の文学に共通したことなのかもしれないけれども、「シェークスピア」が危機に瀕している人間性の本質を象徴するものとして登場することは味わい深かった。
日本語ではどのように訳されているのかわからないけれども、『1984年』を聞いているときに、やがて実際に恋人同士になる女性が幻視された時、突然主人公が「シェークスピア!」と連想するのは本当に驚いた。その唐突な感じはちょうど夜道を歩いていた私にとって一筋の光のようだったが、シェークスピアの作品がシステムの桎梏(しっこく)の下で失われつつある大切な人間性を象徴するものとして提示されていることが一瞬にして悟られた。
「シェークスピア」は、『華氏451度』や、『すばらしい新世界』においても、人間性を担保してくれるものとして重要な役割を果たしている。私もかつては一冊にまとまったシェークスピア全集(英語版)を持っていて読んでいたけれども、どこかに行ってしまって久しいし、そのうちに再び読んでみないといけないなあと思っている。
シェークスピアは、現代における一つの「お守り」になるのだろう。
ディストピア小説を聞いていてつくづく不思議に思ったことは、そこで描かれているささやかな幸福がとても甘美なものに感じられたことである。息をする隙間もないような抑圧的な全体主義世界の中で、吹き溜まりのようにかろうじて見出した愛、休息が限りなく麗しく感じられる。
これはどうしたことだろう。アダムとイブがいたエデンとは真逆のはずの暗黒世界が、かえって生きることの蜜のような幸せを感じさせるとは。
どうも普遍的な問題であるようだ。アレクサンドル・ソルジェニーツィンの『イワン・デニーソヴィチの一日』でも、強制収容所の厳しい生活の中でのとろけるような一瞬が描かれる。フランツ・カフカの『城』や『審判』でふと訪れる愛のひとときもこの上なく慰撫する。
どうも、「ディストピア」という状況は、私たちがうかつに思うよりも普遍的なものであるようだ。それは、一部の独裁国家や、特殊な時代状況だけに現れるのではない。むしろ、人間存在の一般的な属性なのではないか。
そもそも、私たちが住むこの地球が、宇宙というディストピアに一瞬現れたひだまりのようなものなのかもしれない。
『銀河ヒッチハイク・ガイド』は、人間存在など気にもかけない宇宙のあり方をブラックユーモアで描くけれども(何しろ、新しいハイウェーを作る上で邪魔だからと、地球を破壊してしまうのだ!)、だからこそ古典であり、人間の魂の芯を貫いている。
人為を待つことなく、地球の環境など、いつ小惑星が衝突して帳消しになってしまうかわからない。ニュートン力学は、生命のことなど気にもかけていないのだ。ディストピアは自然法則自体の中にある。
たとえば、列車の中から見る雪景色といったありふれた体験が、いかに絶妙なバランスの上に成り立っていることか。そんなこわれやすい休息の場を、人類は愚かさから破壊しようとしてしまっている。私たちは今、ディストピアの中の甘美な休息にこそ思いを馳せるべきなのだろう。

茂木 健一郎 (もぎ けんいちろう)
1962年東京生まれ。東京大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理学博士。脳科学者。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経てソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。「クオリア」(感覚の質感)をキーワードに脳と心の関係を研究するとともに、評論、小説などにも取り組む。2005年『脳と仮想』(新潮社)で第4回小林秀雄賞を受賞。2009年『今、ここからすべての場所へ』(筑摩書房)で第12回桑原武夫学芸賞を受賞。近著に『生命と偶有性』(新潮選書)、『東京藝大物語』(講談社)、『記憶の森を育てる 意識と人工知能』(集英社)ほか多数。