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Nonfiction

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ペルパタオ −我歩く、故に我あり 茂木健一郎

第107回 [2020年6月某日 一度オーボエのところでたたずんで]

更新日:2020/07/22

 目下の状況で、いろいろなコンサートや催しものが中止になる中で、ほんとうに久しぶりにクラシックの演奏会に関係した仕事をした。音楽を聴きながらコメントをする、映像の撮影が入った。
 無観客で、ソーシャルディスタンスを保っての特別な楽器編成。弦楽器の数も通常の何分の一しかない。慣れ親しんだシンフォニーが、まるで室内楽のように透明感のある音で聞こえた。
 ベートーヴェンの交響曲第5番の第1楽章。そのハイライトの演奏を聴いていて、改めて、この大作曲家はヘンな人だなあと思った。
 終わり近くに、オーボエが単独で印象的な旋律を吹くところがある。そこだけオーケストラの響きが一息ついて、休む感じになる。
 そこから、元の中心的な流れの中に戻る。音楽が、一度オーボエのところでたたずんで、また大きなうねりの方へと戻っていく。 
 なぜ、ベートーヴェンはこんな音楽を書いたのだろう。
 オーボエのソロ旋律は、交響曲第5番の第1楽章の全体の流れの中で、どうしても必要だったというわけではない。それがなくてもきっと成立するだろう。それでも、流れが突然中断して、オーボエが奏でる旋律がしばし響くことで、やはり交響曲としての深みが増している。
 部分が全体に奉仕しているのではない。細部がコンセプトによって決定されているのではない。ただ、その具体があることで、何かが成立している。このような生命の躍動(エラン・ヴィタール)が書けるということが、つまりは、ベートーヴェンという人の才能のきらめきだったのだろう。
 何よりも、生きるということは、きっとそうである。人生というのは、そのような意味のわからない「部分」からできていて、だからこそ印象的なのだと思う。
 夏目漱石の『三四郎』(1909年)でも、全体から見ると浮いてしまっていると思われるところが、物語のリアリティを深めている。
 小説のテーマは言うまでもなく三四郎と美禰子(みねこ)の「恋」(にもならないかもしれない淡い気持ちの動き)だが、そこに野々宮さんや与次郎、広田先生といった人々が絡む。広田先生と言えば「偉大なる暗闇」で、三四郎に学問というものの奥深さや誠実な知というもののあり方を教えてくれる存在だが、その広田先生をめぐる謎のエピソードがある。
 広田先生は結婚もせず独身を貫いているのだが、それと関係があるのかないのか、突然、昔見た少女の話を広田先生が始めるのである。
 広田先生が昼寝をしていて、20年ほど前に一度だけ見た当時12、3歳の少女の夢を見る。
 明治憲法が発布された明治22年、高等学校の生徒だった広田先生が、大臣の葬式に参列するために教師につれられて道の横に並んでいる。
「やがて行列が来た。何でも長いものだった。寒い眼の前を静かな馬車や俥が何台となく通る。その中(うち)に今話した小さな娘がいた」
 広田先生は、さらに言う。
「今日夢を見る前までは、まるで忘れていた、けれどもその当時は頭の中へ焼き付けられたように熱い印象を持っていた」
 三四郎は、「それで結婚をなさらないんですか」と広田先生に質問する。広田先生は、「それほど浪漫的(ロマンチック)な人間じゃない。僕は君よりも遥(はるか)に散文的に出来ている」と答える。
 三四郎は、なおも、もしその少女とその後出会えたら結婚していたのではないかと広田先生を追及し、広田先生も「そうさね」と肯定する。
『三四郎』の話の全体の流れから言えば、この広田先生のエピソードは、それだけぽつんと離れてしまっている。しかし、だからこそとても印象的である。人生には、広田先生がたった一回だけ見かけた少女のような「存在」があり、それが約20年の時を経て鮮やかによみがえってくるということがある。
「広田先生の少女」のようなものに対する、三四郎の反応も確かに「ありがち」である。三四郎は、自分が聞いたことを、人生にはそういうことがあるのだとただそのように受け止めることができない。広田先生はその少女のことを愛していて、だから結婚しないのだと理に落ちた説明で納得しようとする。漱石は、さり気なく、三四郎の未熟さを描いているのだと思う。
 このようなことでは、三四郎が美禰子にふられるのも無理はない。
 現代は、なんでも、一つの「文脈」やある「評価関数」で割り切ろうとする傾向がある。
 たくさんの登録者と、多くの再生回数を集めているユーチューブの動画をまとめてみたことがあったが、嫌になってやめてしまった。
 こういう「意味」だ、こんな「ノリ」だと最初から決まってしまっているものが多い。そこには、「解釈」以前の、「生」の現場の実感がない。
「文脈」を決めつけ、「数」ばかりを追う。そんな現代の風潮の中にふだんは包まれているから、ベートーヴェンの交響曲第5番の第1楽章のオーボエのソロがまるで干天の慈雨のように美しく心に響いたのだろう。
 そして、広田先生の少女のことを思い出した。
 学生時代、よくぼんやりと見ていた上野の不忍池の蓮の葉っぱがゆれる光景。私の履歴の本質には関係がないけれども、たしかにそこにあるなにものか。人生にはそれだけぽつんとあって、それ以上の説明などできない存在がある。
 意味や文脈から外れて、逸脱しているからこそ、私たちの生命を根底から豊かにしているもの。
 今年は生誕250年のベートーヴェンイヤーだったはずなのに、ほとんど関連したコンサートやイベントができない沈黙の日々が続いている。関係者の落胆は想像するに余りある。
 しかし、第5交響曲の第1楽章、オーボエのソロという思わぬかたちで、天国の楽聖が贈り物を届けてくれた。生命はいつも不意打ちする。

著者情報

茂木 健一郎 (もぎ けんいちろう)

1962年東京生まれ。東京大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理学博士。脳科学者。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経てソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。「クオリア」(感覚の質感)をキーワードに脳と心の関係を研究するとともに、評論、小説などにも取り組む。2005年『脳と仮想』(新潮社)で第4回小林秀雄賞を受賞。2009年『今、ここからすべての場所へ』(筑摩書房)で第12回桑原武夫学芸賞を受賞。近著に『生命と偶有性』(新潮選書)、『東京藝大物語』(講談社)、『記憶の森を育てる 意識と人工知能』(集英社)ほか多数。

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